第五章 毒
求める
誰にも気付かれることなく単調なステップを刻み続けるべき心臓が、駅の階段を一段飛ばしにするように跳ねている。動悸や不整脈は勘弁だけど、一生のうちに何度か、こんな鼓動を味わうのも悪くはない。
遠く、近く。同じような背格好の人がこちらを向いて歩いてくるたび、大きくなって。違う人だったと分かるたび、小さくなって。まるで、波の音のように。
こんなにも、わたしは待っている。こんなにも、わたしは焦がれている。それがなぜなのかは、分からない。
中小路さん。わたしよりずっと歳上。だけど、笑うと少年のまま。ふだんはとても理性的で優しく、かつ冗談もよく言う大人の人。
乙女と言うには残念なところがありすぎるけれど、間違いなく、わたしは恋をしている。何度か会ううち、それは確信に変わっていた。
四条通り沿いの喫茶店の前。もうすぐ、手握りしている抹茶フラペチーノがなくなってしまう。
だけど、わたしには、やっぱり確信がある。
なくなる前に、中小路さんは来ると。
「睦美ちゃん」
ものすごく明るい調子。人が西に東に行き交っているのに、すごく遠くからわたしを見つけて、その人たちなんていないかのように大きな声で名前を呼ぶ。
それだけで嬉しい。そういうのが、いちいち嬉しい。
中小路さんが、人の海をかき分け、泳ぎながら近づいてきた。
「お待たせ」
「ううん、まだ約束の五分前ですよ」
「でも、待ってくれてたんでしょ」
中小路さんの視線は、わたしの手のカップに。その減り方から、わたしがどれくらい前からここにいたのかを推測したんだろう。
「映画、楽しみです」
中小路さんに気を使わせないよう、とびきり明るい顔で言った。ほんとうに楽しみなのだから、嘘ではない。
中小路さんは、いつまでもぐずぐずとはしない。待っていたということをわたしが気にしていないと分かったら、さっぱりと切り替えて笑顔になる。
映画館を目指し、新京極通りを上がる。祇園祭のメロディと吊るされた提灯が、わたしたちが季節のうちのどこにいるのかを指し示す。
こうしていると、中小路さんが警察関係の人で、わたしはその内偵のようなものだということを忘れてしまう。狭いアーケード街をゆく人のすべてが、ちょっと歳の離れたカップルだというくらいにしか見ていないだろう。
映画館。京都で映画館といえばここか、あとは二条駅だろう。それ以外と言えば周辺部のショッピングモールくらいしか無いが、昔はこの河原町、新京極あたりは映画館がたくさん並んでいたそうだと中小路さんが教えてくれた。
中小路さんが、ポップコーンと飲み物の入ったトレイを手に、白い歯を見せながらわたしのところに戻ってきた。
「あ、持ちます」
慌てて手を差し出すわたしに向かって歯をより白くし、
「いいって。けっこう重いから」
と言うのはもはや罪だ。今日はタイトなサマーニットを着ていて、無駄のない引き締まった筋肉が浮き上がっていて、その美しい線を描く腕が抱えるトレイの中に鼻血をぶちまけてしまいそうになる。
エレベーターの中では、自然と身体が近づく。そういうとき、中小路さんの方から照れ臭そうにわたしを見てくる。これも罪だ。可愛すぎる。
聞くまでもなく、中小路さんはわたしに好意を持っている。もちろん、わたしも。だけど、お互い、何も言えない。踏み出さない。なにか、いけないことのような気がしている。
どうして座席は一人用なのだろうと、恨めしく思う。前の方にはカップルシートもあるが、わたしたちはまだそれを利用するところまで至っていない。
いっそ、触れてくれれば。強く、痕になるくらい。それがたとえ消えないものになったとしても、構わない。
映画は、洋画のヒューマンドラマ。わたしはもっぱら邦画の恋愛もの専門だから映画館で洋画というのは目新しくていい。
自宅でネット配信されている海外ドラマを見るのとは全く違う面白みがあって、楽しめた。
ストーリーも、すごく良かった。胸の中が暖かく、少し酸っぱくなるようなもので、観終わったあともその余韻がわたしの中で小さな渦を描いていた。
スタッフロールが終わって明かりが戻っても中小路さんが立ち上がらないからちらりと表情を窺い、ぎょっとした。
涙。つつ、と一筋、頬を伝っている。それがお洒落な顎髭のところに吸い込まれて途切れているのが見えた。
「よし、行こうか」
中小路さんは、わたしが涙に気付いていることに気付かない様子で言い、立ち上がった。
出口を目指すその背中を見て、それがなんだか可愛くて、やっぱり少年みたいな人だと思って、思わず口元が緩んでしまう。
「さっき、感動して泣いてたんですか」
休憩のつもりで立ち寄ったカフェで、意地悪っぽく言ってみた。中小路さんは慌てて、
「何言ってんだ。映画くらいで泣くわけないじゃん」
と否定し、大人の色をしたアイスコーヒーを思い切り啜った。神様、この人をこの世に作ってくれてありがとう、と思った。
わたしの思考は、蛹の中の虫みたいに停止している。
この固い、固い蛹を、いつ、どうやって破ろうか。そのことしか想像できない。
だけど、それだけじゃ駄目だ。わたしは、この人の役に立たないと。
「先生のことなんですけど」
言い出したわたしに向けられる眼は、変わらず優しい。
「あの——」
なんと言おうか。そういう頭があるから、口が鈍くなった。
長谷川秀一氏は、間違いなく多くを失う。
多くを求めすぎたから。
先生は秀一氏の無知につけ込み、税率の高くなるよう取り分を調整した。その税を支払うためには複数の土地を売らねばならず、かつ、売却したことでさらに課税される。
もし個人的に多額の負債があってその返済にあてたりすれば、安定した収入のない秀一氏にはもうほとんど何も残らない。
だけど、秀一氏の家族はどうなる。
わたしは、奥さんを見た。秀一氏とは歳の離れた人だった。なぜか、未来のわたしと中小路さんの姿をそこに重ねた。
結婚が遅かったのだろう、お子さんはまだ高校生くらいではないだろうか。
彼女らは、どうなる。
先生はそれを知りながら、傲慢のために全てを得ようとした秀一氏に裁きを下した。
傲慢は悪だとキリスト教なんかでは定義されているのかもしれないが、それを裁く法はない。
先生は、ゆっくりと回り、身体を溶かす毒を流し込み、秀一氏がひとつ手を打てばそれがまた新たな問題を引き起こすようにした。
税金を払わなければならない。
そのために、あの土地を売ろう。
よし、売れた。
売ったことで、こんなに課税されるのか。
まだ足りない。ここも売ろう。
そうして、秀一氏は終わっていく。残るのは、自らは何もせず、もともとそこにあるものや人から与えられるものに拠って生命を繋ごうとし、それが当然であると思い込んでいた傲慢な己のみ。
そのとき、秀一氏は、絶望するだろう。
ユウが望んだのも、このことだったのだろうか。
ユウのお父さんは、面倒ごとなく、自分の妻子にただ幸あれと願うばかりではなかったか。
先生の行いは、悪だ。
悪というのがときに正しいことにもなり得るというのは、なんとなく分かる。でも、今回の先生のしたことは、それにあたるのかどうか。
そういう思いが、拭えない。十割る三の割り算のように、いつまでも小数点以下の値がわたしにまとわりつく。
「——睦美ちゃん」
中小路さんが、アイスコーヒーのグラスをテーブルに置いた。もともとそこにあった水滴のあとが、逃げるようにして広がった。
「無理しないで。今日は、もう、仕事の話はしないでおこう」
わたしは、機能を停止した。そうすると、わたしの奥深く、名前のない場所から、こみ上げて溢れてゆこうとするものがあり、それに気付いたときにはもう、それは外の世界を、光を求めて必死でわたしの目蓋を叩いていた。
「泣かないで。ううん、違うな。泣くといい」
ダムが決壊した。カフェの中にいる人が驚いてこちらを見ている。思い切り声を上げて、わたしは泣いた。まるで中小路さんがわたしを泣かせたみたいな構図になって申し訳ないけれど、中小路さんは周囲の眼など全く気にせず、わたしだけを見て、向かい合ったテーブルの上に自分の腕を滑らせてわたしの手を取った。
「不安な気持ちになるようなことをさせて、申し訳なく思ってる」
そんなこと、言わないで。
「君だけは、何も知らず、日々を幸福に過ごしていてほしいと思ってる。それなのに、俺は、こんなことをさせて——」
それ以上、言わないで。
「ごめんね、睦美ちゃん。辛いよね」
「わたしは」
涙に侵された声も、わたしの残念な姿を隠すメイクが剥がれ落ちてゆくのも気にせず、思い切って顔を上げた。
「わたしは、中小路さんが正義を求めているのを知っています。だけど、それ以上に、中小路さんだから。中小路さんだから、そばにいたくて。役に立ちたくて」
「役に立たなくていい」
はっきりと、中小路さんは言った。
「役に立たなくていい。そう思ってくれるなら、ただ、そばにいてほしい」
わたしは、黙った。周囲の人が、興味深げになりゆきを見守っている。
「君が必要なんだ。俺の痛みを知って、なおそれに寄り添ってくれる君が。ずっと、孤独だった。正しいことをしようとしても、それは俺を蝕み、俺を押し潰そうとするばかり。だけど、君がいれば。君がいれば、俺は頑張れる。もう少し、頑張れる」
カフェの中にいる人のうちの誰かが、小さく拍手をした。つづいて、誰かが指笛を吹いた。
それは鎖のように繋がり、連なり、たちまち店内を満たした。みんな笑顔で中小路さんを称え、わたしを認めた。
「店、変えようか」
さすがに気まずくなったのか、中小路さんはそそくさと伝票を手に立ち上がる。
レジで支払いをし、お店を騒がせたことを店員さんに詫びて、足早に店を出る。そのとき、大きな手は、しっかりとわたしの手を引いてくれていた。
店の外は、アーケードの雑踏。それを見たとき、なんとなく、また中小路さんが心細くなってしまうのではないかと不安になった。
「さて、どこ行こうか」
苦笑しながらわたしを見下ろす。手は、繋いだまま。
伝えたいと思っているこの血の脈の昂りが伝わってしまうのではないかと恐れた。だから、いっそ言葉にしてやろうと思った。
「——どこか、静かなところがいいです。二人だけで、落ち着いて、ゆっくりしたい」
中小路さんの足が、止まった。止まって、少しして、また動きはじめた。
「睦美ちゃん」
「いいの。そうして」
ください、という語尾は用いなかった。それが自然だと思った。
二人でそのまま歩き、隠れるように入った建物の中のその一室で、わたしは、わたしたちの身体と一緒にその間にあったものも動いて、わたしたちを隔てるものを取り払うことができたような気がしている。
わたしの望んだ静かなところで、中小路さんの体温と体重と、鋭く神経を鳴らす毒が駆け回るのを、わたしはただ幸福だと感じた。
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