第64話 心残り

 横たわり天を仰ぐ八尋の身体に雨粒が打ちつけていた。

 倉庫の屋根はあらかた破壊され、空が見えていた。痛めつけられた体中のあちらこちらが燃えているように熱く、冷たい雨が心地よく感じる。見えるのは一面鼠色の空で、どこからが雲なのか判別がつかないほど、奥行きがなくのっぺりとしている。暗くて嫌な空だと思った。今、何時だろうと、ふと考える。大した時間は経っていないに違いない。

 八尋の視界を花の靴底が塞いだ。

 八尋の顔を踏みつける花。ぎりぎりと踏みにじってくるその足を、どかす体力も残っていない。強化はとっくに切れている。

 されるがままにしていると、頭を押さえつけていた足が離れ、それから踵で蹴りつけられた。蹴られて横を向いた顔の先、やや離れたところに宗一郎が倒れている。変身は解けてしまっている。意識はあるのだろうかと考えた。息は、あるのだろうか。

「起きなよ」花の声がした。「生きてて、意識があるなら、起きなさい」

 なんだか母親みたいな台詞だなと、八尋は思った。でも、起きたところで、どうなるわけでもないんだ。どうして起こそうとするんだよ。もう勝負はついたんだから、さっさと終わらせてくれよ。

 そんなことを考えていたはずなのに、気づくと、身体を起こそうともがく自分がいた。自覚してもなお、不思議だった。なぜ自分は、起きようとしているのだろう。

 妙な気分のまま、八尋は立ち上がる。途端に、痛覚までが息を吹き返したかのように全身がじくじくと疼いた。何度も地面を転がされたせいで、コートも衣服も引き裂かれ、いたるところの皮膚がえぐり取られている。

「よく立ったね。えらいえらい」

 あれ、と八尋は気づく。いつもの花がそこにいた。えらい、と口にしながらもどこか小馬鹿にしたような態度の、いつもの彼女だ。

「でも八尋さあ、おまえ、手を抜いたな」

 さっきまでいたはずのいつもの花は姿を消していた。つかつかと近づいてくるのは、冷酷な表情で容赦なく八尋を打ち据えていた時の彼女だった。

 恐怖が思考を埋め尽くす。逃げ出そうとしたが、花の手が八尋の首を絞め上げるほうが早かった。圧迫され、呼吸が浅くなる。眼球が飛び出そうとしているような感覚があり、こめかみがどくんどくんと脈打つのを感じる。

「加減をしてもわたしに勝てるとでも思ったのか?」

 淡々と、しかしはっきりとした怒りをこめて、花が詰る。彼女の指が首に食い込む。

「つまらない真似をしたものだ」

 意識が遠のきそうになりながら、しかし八尋には身に覚えがなかった。

 必死に戦った。全力だった。それでもまるで歯が立たなかった。ただそれだけだと、霞む頭の中で異議を唱えた。

 俺は確かに弱かったけど、おまえだって強すぎたんだ。死に物狂いでやって手も足も出なかっただけなのに、おまえ手抜きしただろうなんて、ひどい言いがかりだと抗議したかった。

 目の前が暗くなっていく。苦しさよりも、心地よい浮遊感を強く感じる。眠気にまかせて微睡む時の恍惚感に似ていた。限界だと思った。

 ──ああ、でも、と。八尋はふと思い当たる。もし花が言うように、自分が本気を出し切れず、無意識下でブレーキをかけていたのだとしたら。たぶん、あれが原因だろう。

「ん。何? 声が出てないよ、って、わたしが首絞めてんだからそりゃそうか。これは失敬」

 花の声が聞こえて、そのあと首の圧迫感が消えた。新たな酸素を取り込むより先に、胸の中の空気が飛び出すように吐き出されて咽せてしまう。がくりと膝から崩れそうになるのを、今度は襟首を掴まれて無理やり立たされる。

 わずかに光を取り戻した目が、眼前の花を認める。

「いま何か言おうとしたよね。口をパクパクってしてさ。魚みたいに」

 花が訊ねてくる。

 八尋には自覚がないが、そう言うのならそうなのだろう。なんだっけ、と思い出そうとしても、酷い頭痛が邪魔をした。脳に濁った膜が張ったような気分だった。うまく考えられない。思考は回らないままだったが、ああそうだ、と思いつくことには成功した。

 そしてそのまま、何も考えずに「ありがとう」と口にしていた。

 花が目を丸くする。それから怪訝な表情をして「ありがとう?」とオウム返しに口にした。「殴ってくれてありがとうってこと? マゾなの?」

「……おま、えは、俺を……救って、くれたから」

 もし自分が花に対して本気で戦えなかったのだとしたら、そのことが気にかかったのだろうと思った。

 花がいたから、ホルダーになっても八尋は生きることができた。生みの親を半殺しにして逃げることになっても、前を向くことができた。その感謝を、はっきりと口にした記憶がなかった。そのことが、今日だけでなくこれまでずっと、頭の片隅にあった気がしたのだ。

「……ばかだなあ」

 花が笑っていた。

「自分が殺されそうな時に、そんなこと考えてたのか」

 八尋を「ばかだ」と呼んだその悪態には、以前と同じ親しみを感じたように思えた。あるいは八尋の願望がそう聞こえさせたのかもしれないが、それ以上考えることはできなさそうだった。再び意識が遠くなっていくのを感じる。光が薄れてゆく。花がどんな顔をしているのか、もうわからない。すごく寒いし、眠かった。

「本当に、おまえは優しいなあ、八尋。でもさ、それだけじゃ足りないんだよ」

 花の語る声がやけにはっきりと聞こえてくる。そういえば、死を迎えた人間に最期まで残るのは聴覚だと誰かが語っていたっけ、なんてことをなんとなく思い出す。その思考もすぐにかき消えてしまって、意識が散っていき、ああ、死ぬのか、と脳裏に浮かんだ言葉すら瞬く間に断片となって、何もわからなくなってゆく。

 しかし、突如響いた破裂音と、同時に背中に受けた衝撃の熱さに、八尋の薄れゆく意識は強引に引き戻された。落ちかけた瞼が上がり、網膜が光を捉え始める。

 何が起きたのかわからなかった。眼前に立つ花が目を見開いていた。胸ぐらを掴む手が離れ、花が移動して視野の外へ消える。再び破裂音がした。そして同じように背中への衝撃が同時に起きる。熱い。断続的に続く音と、その度に背中に何かが当たる感覚。

 世界が九十度回転して、視界の左半分を地面が埋めていた。自分が倒れているのだと遅れて自覚する。うまく呼吸ができない。背中の熱さは増していくのに、急激な寒気が全身を包んでいくのを感じた。体内の熱が流れ出ていくような気分だった。

 視界の先で、宗一郎が立っていた。八尋のほうに片腕を伸ばし、手に何かを握っている。あれはなんだろう、なんだか拳銃みたいだな、と考えた時には、脚部を変身させた宗一郎が大きく跳躍し、あっという間に見えなくなった。

「わたしを狙って外した……いや違う、むしろ逆か。八尋だけでも始末しようとしたのか。なるほど、したたかじゃないか。少し見直したよ」

 花の声がする。すぐそこにいるようだが、よく見えない。磨りガラス越しに世界を見ているようで、何もかもがおぼろげにしか確認できない。

「おーい。八尋ー。……あー、だめだこりゃ、死にかけてるな」

 そうか、死にかけているのか。

 花の言葉をまるで他人事のように八尋は聞いていた。そういえば、さっき感じた時よりも眠気がひどい。そうか、まだ先があったのだなあなどと、ぼやけた頭に浮かんでくる。

 不安はなかった。ただ、今日はいろんなことが起きすぎて、もう疲れたから、このまま眠らせてほしかった。

「おーい。起きろー」

 誰かが八尋を呼んでいる。音がずいぶん遠い。

 誰だか知らないけれど、ごめんなさい。少しだけでいいから、眠らせてください。すぐに起きますから、少しだけ。誰に許可を求めているのか、八尋自身にもわからない。全身がずぶずぶと沈んでいく感覚がする。

「うーん、他の人に殺されるのはなあ、違うというか。どうしようかな」

 かすかに声がする。誰かが困っているようだ。手伝えなくてごめんなさいと、八尋は申し訳なく思う。眠くて仕方がないんです。

 誰かって、だれだ。わからない。ねむい。

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