最終話。とある二人の後日談

 大鳳おおとり 時雨しぐれ。彼と共に過した時間は私が娘と共に暮らした時間に比べたら僅かであり。私は時雨に対しては強い愛情を抱くことが出来なかった。


 自分の子供を愛せるなら、他人の子供も愛せるのではないか。そんな甘い考えが、頭のどこかにあったのかもしれない。


 結局、私が愛せるのはたった一人の娘だけ。腹を痛めて娘を産んだ時から、私が愛情を注ぐべき相手は決まっていた。


柑菜かんな


 私が名前を呼ぶと、柑菜は海に向けていた視線をこちらに移す。柑菜は波打ち際まで来たが、サンダルを履いたまま、水に入ろうとしなかった。


「入らないのか?」


「うん」


 今日は久しぶりに柑菜を連れて出かけることになったが、あまり柑菜は乗り気ではなかった。


 海の近くにある親戚の家に数日滞在してから、帰る予定だったが、これ以上柑菜の機嫌が悪くなるようならすぐにでも帰るつもりだった。


「まだ、時雨のことを気にしてるのか?」


「時雨はわたしを捨てた」


 それが柑菜が不機嫌な理由だと知っていた。


 時雨に好き勝手されて、そのまま勝手にいなくった。柑菜からすれば、時雨の行動は簡単には受け入れられないのだろう。


「柑菜は時雨の兄のことを知ってるか?」


「お兄ちゃん?」


「ああ。時雨には一人の兄がいた」


 私も時雨の家庭について、詳しく事情を知っているわけじゃない。それでも柑菜には伝えておくべき話だと考えた。


「もういないの?」


「……そうだな。しかし、今もどこかで生きているはずだ」


 私は柑菜の頭に手を置いた。


「時雨と兄はよく似た人間だった。自分よりも幼い人間に欲望を向けるという、共通点にしては酷いものだが、最終的には二人とも困難な道のりを乗り越えた」


「ママの話はいつも難しい」


「理解しなくてもいい。ただ、お前には答えを知る権利がある。時雨が何故、いなくなったのか。そして、今、時雨が何をしているのか」


 柑菜は押し寄せる波から少し離れた。


 それを見た私は靴を脱ぎ、裸足になる。砂浜の砂を踏みしめながら、水に足をつけた。


「時雨は兄と同じような人間になることを恐れていた。妹の柚子ゆずの人格を歪めてしまうほどに、兄の失敗は他者の人生を狂わせるものだった。それを事実を知っていた時雨は自分の呪いを受け入れられなかった」


「時雨はずっと悩んでた」


「ああ。本来であれば、私が時雨を救うべきだった。だが、今の私がもっとも優先するべきことは柑菜のことだ」


 柑菜と時雨。どちらかを選ぶとしたら、私は迷わず自分の娘である柑菜を選ぶ。例え、時雨と血が繋がっていたとしても、それは私が時雨を愛す理由にはならなかった。


「ママは時雨のことが嫌い?」


「……時雨との関係は鏡に映る自分を見ているような感覚があった。もしも、私が時雨を自分の子供として育てていたら、目を背けていた可能性はあっただろう」


 私や時雨と違って、柑菜の心は虚無を演じてはいない。感情表現が苦手なだけで、喜びや悲しみ。人間らしさというものを持っている。


 だからこそ、私は柑菜を自分とは違う人間だと認識することが出来た。私が柑菜を愛せるのは、柑菜から真っ直ぐな感情を向けられたからだ。


 不器用な私は言葉や行動で表してくれないと何もわからない。きっと、今、私の隣に時雨が居ないのは良き理解者になれなかったせいだ。


「ううん。ママは時雨のことも大切にする」


「どうして、そう思う?」


「だって、ママが時雨を拾って来たから」


「そうだな……」


 私は時雨に嘘をついた。


 あの日、橋の上から飛び降りようとしていた時雨と私が出逢ったのは偶然ではない。時雨の母親から連絡を受け取り、時雨のことを任されていた。


 そこで私が断れば、時雨の母親が迎えに行って何事も無かったはずだ。つまり、私の行動は自らの意志によるものだと理解している。


「……時雨を連れて帰ったのは柑菜の為だった」


「わたしのため?」


「愚かな母親が娘の為に何かしようと思っただけだ」


 停滞している柑菜の状況を時雨を使って、解消しようとした。時雨なら柑菜に同情せず、良き話し相手になると考えていた。


 その結果は失敗と言ってもいい。時雨の病気を悪化させたのは私が原因だ。兄と同じ症状を時雨は酷く恐れ、柑菜は時雨に塗り潰されそうになった。


「柑菜、すまなかった」


 私はしゃがんで、柑菜に頭を下げた。


「……っ」


 すると、柑菜が私の頭に頭突きをしてきた。


「わたしは時雨のこと。ほんとうに好きだった」


「それは……家族としてか?」


「ううん。違う」


 娘の初恋だというのに、あまり喜べることではなかった。それは時雨が相手だからではなく、まだ私にとって、柑菜は恋愛感情も知らない子供だと思っていたからだ。


「もし、柑菜が望むなら。私が時雨を縛って、ここに連れて来てもいい」


「時雨はわたしを愛してくれない」


 柑菜と時雨。何故、二人が上手くいかなかったのか。その理由は私が時雨と東雲しののめ 姫織ひおりを引き合わせてしまったからだろう。


 東雲姫織が持っていた人間としての考え方。それは時雨には通用しないとわかっていたが、柑菜よりも賢い東雲姫織の方が時雨を支えられると私は考えた。


 結局、私は中途半端だった。


 私は柑菜だけではなく、時雨のことも救う道を選んでしまった。もし、どちらか片方に割り切れていたら、こんな結末は迎えなかったはずだ。


「……」


 考え込む私の足元に波が触れてきた。


 柑菜は逃げるようにして、離れた。


「まだ水が怖いのか?」


「怖くない」


 昔、柑菜がプールで足を滑らせて落ちたことがあった。その時はすぐに助け出したから無事だったものの、しばらく水に近づこうとしなくなった。


 母親として、柑菜の恐怖を少しでも減らせるならと思っていたが。人間のトラウマは簡単に上書き出来るものではない。


「柑菜。辛いことは忘れた方がいい」


「ママも辛いことを忘れた?」


「ああ。全部、忘れた」


 私は柑菜にも嘘をついた。


 いまだに脳裏に焼き付いている赤色の記憶。柑菜の父親がこの世から居なくなった日、私は同時に大切な友人を失ってしまった。


 あれから、思い出さないように目を背けることしか出来なかった。どれだけ綺麗事を口にしても、過去は変えられず、簡単に忘れることも出来なかった。


「わたしは忘れない」


 柑菜の言葉を聞いて私は少し動揺した。


「時雨のこと。忘れたりなんかしない」


「柑菜……」


 時雨と共に過した時間は柑菜にとって印象深い過去として残り続けるのだろう。もしかしたら、柑菜の将来を左右するような出来事だったのかもしれない。


 男が女に向ける感情を柑菜は直接味わった。


 柑菜ではなく、他の人間ならそれが心の傷となる人間もいる。与えた側よりも受けた側の方が、何倍も深く刻み込まれるのだから。


「ママ」


 気づけば、柑菜の足元は水に浸かっていた。


「手を繋いで」


 柑菜は服の袖を揺らす。


 それを見て、私は柑菜の袖を掴んで握ってみせた。柑菜の体に触れなくても、柑菜の体が震えていることくらいわかった。


 柑菜はトラウマと向き合う覚悟を決めた。


 だったら、私がするべきことは一つだ。


 これから先、娘が道の途中で立ち止まった時。隣に居てやること。背中を押す必要はない。柑菜は自分で歩むべき道を決められる。


「時雨。お前は自由に生きてくれ」


 私と柑菜は時雨の物語に出てきた、登場人物の一人に過ぎない。これからも何処かで続いていく時雨の物語に私達は必要ないのだろう。


 そんな考え方をした時、ようやく区切りがついたように思えた。私と柑菜が歩むべき未来は他に続いているのだから。


 これは一つの終わりであって。


 新しい道を始まりだ。


 その道の先を今は知ることは出来ないが、私なりに期待はしておくつもりだ。どんな未来だとしても柑菜と一緒なら乗り越えられる。


 それだけは間違いないのだから。

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