2 幻惑の術式

 幻惑の術式をかけられた小男は、虚ろな面持ちで灯篭を掲げなおした。


「では、皆様、こちらにどうぞ……子爵様のもとまで、ご案内いたします……」


「ええ。わたしとマリアの、ふたりよね?」


 僕の言葉に、小男は「いえ……」と首を振った。


「東区と西区の御方にも、お伝えしたいことがございます……どうぞご一緒においでください……」


 僕の仕掛けた幻惑の術式は、小男の意識をしっかりと掌握できている様子であった。彼はグラフィス子爵に「娼婦たちの全員を謁見の間まで連行せよ」と命じられた、という偽りの記憶に操られているのだ。


 僕たちは、震えるマリアをうながして、小男とともに寝所を出た。

 まずは併設された控えの間に出て、さらに歩を進めていく。小男が向かったのは、あの石造りの部屋に通ずる扉ではなく、回廊に通ずる扉だ。


 扉を開けると、そこには2名の武官たちが立ちはだかっていた。

 武官の片方が、うろんげに僕たちの姿を見回してくる。


「伽係を連れて、どこに向かう気だ? そやつらをむやみに連れ回すのは、デイフォロス公に禁じられているはずであろうが?」


「子爵様のご命令でございます……何卒、お目こぼしを……」


 小男は、懐から取り出した何かを武官に握らせた。

 武官は「ふふん」と笑いながら、受け取ったものを懐にねじ入れる。


「気前のいいことだな。おかしな騒ぎを起こすのではないぞ?」


「承知しております……では、こちらにおいでください……」


 僕たちは、暗い回廊を一列になって進むことになった。

 すでにとっぷりと夜も更けているので、すれ違う者の姿もない。壁には等間隔に燭台が掲げられていたが、すべての闇を追い払うことはできていなかった。


「わ……わたしたちは、どこに連れていかれるの……?」


 僕の腕に取りすがったマリアが、震える声で小男に問いかけた。

 小男は歩を止めぬまま、首だけをこちらにねじ曲げて、にやりと笑う。


「謁見の間にてございます……そちらで、子爵様がお待ちです……」


 それが偽りの記憶であるなどとは夢にも思わず、小男は悦に入っている様子であった。

 もちろんグラフィス子爵は、あの石造りの無機質な部屋で僕たちを待ちかまえているのであろう。いつまで経っても到着しない娼婦たちに、彼がどれだけ辛抱していられるか、それも不確定要素のひとつであった。


「謁見の間というのは、ずいぶん遠いのかしら?」


 僕の問いかけに、小男は「いえ……」と首を振った。


「謁見の間は2階でございますが……遠いというほどの距離ではございません……」


 ならば、そろそろ頃合いであろうか。

 歩きながら、僕はルイ=レヴァナントに念話を送った。


『ルイ、謁見の間に上手く侵入できそうだよ。陽動のほうを、よろしくね』


『承知いたしました。くれぐれも、ご油断なきよう』


 その効果が反映されたのは、僕たちが2階に通ずる階段に差し掛かったときだった。

 階段には、見張りの武官が4名ほども立ちはだかっている。小男がその武官たちを言いくるめようとしているところに、別の武官が駆けつけてきたのである。


「おい、招集だ! 騎士団の全団員は、黒曜の間に集合せよ!」


「全団員だと? いったい何の騒ぎだ?」


「それはわからんが、城外への出撃命令が下されたらしい。これは、大きな戦になるぞ」


 伝令役の武官は、早くも肉食獣めいた眼光に成り果てていた。その身に渦巻く破壊衝動が、彼を駆り立てているのだろう。


「さきほどは、何を為すこともないままに人魔の術式を解除されてしまったからな。今度こそ、魔物どもを八つ裂きにしてくれよう」


「ああ、こいつは楽しみだ」


 破壊衝動が伝染したかのように、見張りの武官たちも物騒な目つきになっていた。

 そして、思い出したように小男を見下ろす。


「ああ、お前は2階に参じたいという話であったな。貴き方々の眠りや悦楽を妨げるのではないぞ?」


「心得ております……わたくしも、その悦楽の一助となるのが役割でありますため……」


「ふん。戦を終えたら、俺たちもおこぼれに預かりたいものだ」


 武官たちは火のような劣情を覗かせながら、僕たちの姿を見回してきた。

 そうして、回廊の向こうに駆け去っていく。厳重に見張られていた階段は、それで放置されることになった。なかなかに不用心な話であるが、いざ人魔と化したならば、騎士たちよりも貴族たちのほうが強い力を持つのだ。


(ルイたちは、上手くやってくれたみたいだな。……というか、上手くいきすぎて、ガルムたちの負担が増しそうだ)


 騎士団の総員は、およそ100名ていどであろうと推測されている。騎士とは上級の人魔であるのだから、それを迎え撃つのは並大抵のことではないはずであった。

 無人となった階段をのぼりながら、僕はルイ=レヴァナントおよび兵団の指揮官たちに念話を送る。


『こちら、ベルゼビュート。騎士団の総員に出撃命令が下されたよ。各自、厳重に用心してほしい』


『ほう! 騎士どもの全員でありますか! これは、腕が鳴りますな!』


 ガルムは、騎士たち以上に昂揚している様子であった。

 そこに、ドリュー=パイアの念話がかぶさってくる。


『こっちでは、農園の結界が解除されちまったよ! 誰もドジを踏んでいないとしたら、魔術師どもの仕業だろうね! 西区の農奴は半分ぐらいしか連れ出せてないけど、とりあえずナーガとの合流地点に向かってる!』


『東区は、8割ていどってところかな。ちょうどオルトロスの旦那と合流できたところだけど、町の結界も解除されたみたいで、中級の人魔どもが空をひらひら飛んでるぜ』


『南区のコカトリスよ。こちらもラハムたちと合流できたけど、外界に連れ出せた農奴は8割ていどでしょうね。今のところ、人魔が追ってくる様子はないわ』


 静まりかえった階段をのぼりながら、僕の脳内では念話の声が沸騰していた。

 そこに、ルイ=レヴァナントのひんやりとした声が届けられてくる。


『北区は農奴の脱出を取りやめたため、何の動きも見られません。陽動作戦は東区にて決行しましたので、敵の主戦力はそちらに向かうかと予測されます。北区の部隊も東区のオルトロス部隊と合流し、迎撃にあたろうかと思います』


『うん。それが懸命だろうね。騎士団がどういう編成でそちらに向かうかは不明だから、とにかく用心してほしい』


『……城の結界は、いまだ解除されていないのですね?』


『うん。同行している城の従者が人間のままだから、そうみたいだね。騎士団は一箇所に集められてから、魔術師の術式で人魔にされるんじゃないかな』


『では、貴族と従者の階級にある者たちは城に留まることになります。西区と南区においても陽動作戦を決行するべきでしょうか?』


 このたびの陽動作戦とは、結界を壊さぬように配慮しながら、農奴の脱走を見張りの兵士や魔術師たちに気づかせる、というものであった。農奴長との入念な打ち合わせにより、農園内の警備体制はおおよそ把握できていたので、このような作戦を実行することも可能となったのだ。


『うーん……だけどすでに、農園と町の結界は解除されているんだよね? あまり大げさに動くと、かえって用心されてしまうんじゃないかな』


 考え考え、僕はそのように言ってみせた。


『またさっきみたいに、貴族たちを謁見の間に招集されちゃったら厄介だしね。あちらが城の結界を解除しなかったんなら、このままこっそり忍び込む方針で行こうと思う』


『承知いたしました。くれぐれもご用心ください』


『うん、ありがとう。でも、こっちは静まりかえったままなんだよ。2階の様子はまだわからないけれど、貴族たちより先に謁見の間に入り込めたら、簡単に人魔の術式を破壊できるはずさ』


『それでも、ご用心を。油断は、生命取りとなりましょう』


『うん。油断はしない。力を尽くして、任務の達成を目指すよ』


 階段を上がりきった僕たちは、また暗い回廊を進むことになった。

 しかしやっぱり、行き交う人間の姿はない。騎士たちは、みんな1階や別の棟に控えていたのだろうか。左右に並ぶ扉は固く閉ざされて、世界は静寂に包まれていた。


(円環を開いたら空間の隔壁ができて、誰も謁見の間には入ってこられなくなるはずだからな。もしも謁見の間にひとりの見張りもなかったら、僕たちの完全勝利だ)


 油断はしないと誓ったばかりであれど、僕はそんな風に考えずにはいられなかった。決着の時が目の前に迫って、僕も昂揚しているのだろう。左右を確認してみると、ナナ=ハーピィとジェンヌ=ラミアは至極悠然とした面持ちで回廊を歩いていた。


 やがて僕たちは、暗き回廊の最果てに辿り着く。

 そこに現れた扉の前には、武官ではなく2名の小姓たちが控えていた。


「失礼する……グラフィス子爵様のご用命により、伽係の4名をご案内いたした……」


 小男の言葉に、小姓たちはきょとんと目を丸くした。


「グラフィス子爵様のご用命ですか? グラフィス子爵様がこの場にやってくることはないかと思われますが……」


「しかし、そのようなご命令を受けておるのだ……」


 どうやらこの小姓の少年たちよりは、小男のほうが高い身分にあるらしい。小姓たちは小首を傾げつつ、扉に手をかけた。


「かしこまりました。どうぞ、お入りくださいませ」


 その扉が開かれるなり、むっとするような熱気と嬌声が吐き出された。

 僕は思わず、愕然と立ちすくんでしまう。その場には、想像もしていなかった光景が広げられていたのだった。


 謁見の間とは、城においてもっとも神聖な場所であるはずだ。そのために、人魔の術式の触媒が隠されているのである。

 そんな神聖なる謁見の間において――100名からの貴族たちによる、酒池肉林の乱痴気騒ぎが繰り広げられていたのであった。

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