6 穢れた欲望
「どうした? 余の声が聞こえなかったのであるか? 余は、上衣を脱げと命じたのであるぞ?」
ねばねばと耳朶にからみついてくるような声音で、グラフィス子爵はそのように言いたてた。
まぶたのかぶさった茶色の瞳も、澱んだ沼の水面のごとき輝きをたたえている。僕がこれまでに見てきた人間の中でも、彼はとりわけ不快な人物であるようだった。
僕とマリアは命令に従って、薄手のフードつきマントを脱ぎ捨てる。
その下は、露出の多い薄物ひとつである。グラフィス子爵は、「ほお」と舌なめずりをした。
「どちらも、美しい姿をしているな。……これは、楽しい時間を過ごせそうだ」
グラフィス子爵の目が、僕たちの姿を上から下までねっとりと舐めあげていく。
その間に、僕もこっそりと室内の様子を検分させていただいた。
何か、おかしな感じのする部屋である。僕たちが案内された控えの間よりもいっそう殺風景で、グラフィス子爵が座している座具の他には一切の調度も存在しない。
おまけに、床も壁も石材が剥き出しで、絨毯のひとつも敷かれていないのだ。それでいて、広さは10帖ぐらいもあって広々としているのが、なんとも無機質的な様相であった。
(で……どうして娼婦を検分する場に、魔術師なんかが同席しているんだろう)
その部屋には、燭台だけはたっぷりと準備されているので、それらの灯りが魔術師の不吉な姿を煌々と照らし出していた。
僕が以前に見た者と同じく、赤褐色のフードつきマントを纏い、手には装飾の多い立派な杖を掲げている。血色の悪い不健康そうな顔をしているが、年齢はせいぜい30歳ぐらいだろう。フードの陰では、色の淡い鳶色の瞳が静かに光っていた。
こっそり手の甲を盗み見てみると、そこに刻まれているのは漆黒の紋章だ。形状はうねうねとした渦巻模様で、それが両手に刻みつけられている。他の団員たちから聞いていた通りの、それが魔術師の紋章であった。
魔術師は、決して人魔に変じようとしない。その能力が与えられていないのか、あるいは隠しているだけなのか、それはまだ不明である。何にせよ、すべての結界を破壊されても、魔術師が人魔に変ずることはないのだ。戦闘の際には炎や雷の魔術を操るという評判であったが、それもあくまで身を守るための手段であり、原則としては理性を失った人魔たちの統率が彼らの役割であった。
(そう考えると、やっぱり人間の世界を裏から牛耳っているのは魔術師たちなんじゃないかって思えてきちゃうんだよな。でも、身分としては貴族より下みたいだし、人に羨まれるような生活に身を置いている様子もないみたいだし……やっぱり、謎の存在だな)
僕がそんな風に考えたとき、グラフィス子爵が「くふふ……」と含み笑いをした。
「其方はさきほどから、何をきょろきょろとしておるのだ? 何もそのように不安がることはあるまい?」
僕は、慌てて一礼してみせた。
「も、申し訳ありません……貴き方々を前にして、いささか緊張してしまっているのですわ」
「ふふふ。しおらしいことを言いよるな」
グラフィス子爵はにたにたと笑いながら、マリアのほうに視線を移した。
「それに、其方もずいぶん怯えておるようだな。さきほどまでの威勢が嘘のようではないか」
「さ、さきほどまでの……?」
「うむ。余に身をひさぐぐらいであれば、農園送りにされたほうがマシだったのであろう? それに、なんと言っていたかな……余のことを、たいそう愉快な言葉で称していたように思うのだが……」
グラフィス子爵の双眸には、目も当てられぬような嗜虐の光が浮かんでいた。マリアはもう、死人のような顔色になってしまっている。
(そうか。さっきも、間近で見たらいっそう美しい、なんて言ってたよな。浴室や控えの間に、覗き見や盗み聞きの細工があったってわけか)
僕がそんな風に思案している間に、マリアはくずおれるようにして石の床に
「も、も、申し訳ありません! け、決して子爵様を侮辱するつもりでは……」
「何を虫のように這いつくばっておるのだ。それではせっかくの美しき姿を堪能できぬではないか」
たるんだ頬を唇の端で持ち上げるようにして、グラフィス子爵はねっとりと微笑んだ。
「さあ、立つがよい。立って、余の目を楽しませるのだ」
「は、は、はい……」
マリアはがくがくと震えながら、及び腰で立ち上がった。
グラフィス子爵は満足そうに、あらためて僕たちの姿を見比べる。
「肉付きがいいのは右の娘だが、顔立ちの秀麗さは左の娘であるな。其方たちがどのような痴態を披露してくれるのか、想像しただけで脳髄がとろけそうであるぞ」
「…………」
「味見は晩餐の後のお楽しみと考えていたが、そのように悠長なことは言っておられぬようだ」
グラフィス子爵は、おもむろに立ち上がった。
そのむくんだ指先が、真っ赤なマントの前をはだける。
呆れたことに、グラフィス子爵はその下に何ひとつ纏っていなかった。
ぶよぶよと肥え太った裸身が、僕たちの前に恥ずかしげもなくさらされる。ただ、もっとも重要である箇所は、だらしなく垂れ下がった下腹部によって完全に隠されてしまっていた。
(まいったな。まさか、こんなところでおっぱじめるつもりなのか?)
僕の作戦としては、閨に引き込まれた際に、粘膜の接触によって幻惑の魔術を施すつもりであったのだ。
しかしこの場には、魔術師と従者の小男が同席している。迂闊な真似をすれば、正体を看破されてしまうことだろう。
『各団員に通達。非常事態に備えよ』
どのような事態に陥っても対処できるように、僕は念話を飛ばしておいた。
グラフィス子爵は、劣情を剥き出しにして頬肉を打ち震わせている。
「さあ、其方たちも脱ぐがよい。そのように粗末な装束でも、むやみに破り捨てる理由はなかろうからな」
僕は考える時間を稼ぐために、ことさらゆっくりと脱衣に取り組んだ。マリアのほうは恐怖で動作が緩慢になっているので、幸いだ。
(さて、どうしよう。最悪、この場はいいなりになって切り抜けるという手もあるけど……義體とはいえ、バジリスクの仇に身をひさぐというのは、やっぱり気が進まないなあ)
ならばやはり、隙を突いて何らかの魔術を施すべきであろうか。魔術師は現段階でも僕の正体に気づいていないようだから、魔力遮断のジャミングでグラフィス子爵をも覆ってしまえば、目をくらますことも可能であるように思えた。
ただし、幻惑の魔術では不相応だ。催眠の魔術で眠らせてしまえば、グラフィス子爵が何かの病で失神した、と誤認させることができるだろうか?
(気が進まないけど、口の接触でも魔力は注入できるからな。傍から見ていても、そんなに不自然ではないはずだ)
僕はそのように覚悟を固めて、白い薄物を脱ぎ捨てた。
グラフィス子爵のほうに目をやると、彼もマントを座具に投げかけている。これでおたがい、一糸まとわぬ裸身である。
(それにしても……そんなに興奮しているようには思えないんだよなあ)
僕はついつい、グラフィス子爵の下腹部に目をやってしまった。
とたんに、グラフィス子爵は喜悦の表情となる。
「ふふん……これでは大した悦楽も期待できぬと危ぶんでいるのであろうかな? それは、杞憂であるぞ」
「あ、いえ、決してそのようなことは――」
「案ずるな。其方たちには、この世ならぬ悦楽を与えてくれよう」
グラフィス子爵は、劣情のたぎる瞳で魔術師をねめつけた。
「さあ、楽しませてもらうぞ。さっさと段取りを整えるがいい」
魔術師は無表情のまま、その手に握りしめていた杖を無造作に振りかざした。
魔力を封印している僕には、どのような術式が発動されたのかも知覚できない。しかし、それはすぐに目の前で体現されることになった。
グラフィス子爵が、人魔に変貌し始めたのだ。
マリアは「ひっ……」と咽喉を鳴らしながら、後ずさった。
それを追うようにして、僕も人魔から距離を取る。
もともと肥え太っていたグラフィス子爵の肉体が、ふた回りほども肥大化した。
その皮膚は、ヘドロのような暗緑色に変じていく。耳は尖り、髪は後ろに後退していき、豚のように鼻面が突出した。
耳まで裂けた口からは、無数の牙がこぼれ落ちる。
手足の先は、鋭い鉤爪と化した。
そして――こめかみからは、枯れ枝のようにねじくれた漆黒の角が、めきめきと生えのびる。
最終的に完成されたのは、角つきのオークとでも言うべき、醜悪な姿である。
この世界のオークは魔神族であったため、僕はいまだに未見であったのだが、この醜い人魔よりはよほど愛嬌があるのではないかと思えてならなかった。
「ブギギ……ナニもコワがるコトはナいぞ……? コレこそが、ワレワレのシンなるスガタであるのだからな……」
聞き苦しい声で、グラフィス子爵はそのように言いたてた。
僕も魔力を解放していれば、きっと通常の声音として認識できるのだろうが、現在のところは人間ならぬ存在が無理やり人語を発しているようにしか思えなかった。
「さあ、ソナタたちもジュフをハズすがヨい……シジョウのエツラクをアジわおうではないか……」
マリアが、声にならない悲鳴をあげた。
理由は、僕にもわかっている。人魔と化したグラフィス子爵の下腹部から、きわめて禍々しい存在が屹立したのだ。
「ドウしたのだ……? そのスガタでは、ヨのアイテをすることもママならぬぞ……?」
マリアは熱病患者のように震えながら、僕に取りすがってきた。
「い、嫌です! わ、わたしは、絶対に嫌! し、し、子爵様、ど、どうぞご慈悲を……」
「ヨがアタえるのはジヒではなく、シジョウのエツラクとイうておろうが……?」
僕も怯えたふりをしながら、頭の中身をフル回転させていた。
これではもう、魔術でその場をしのぐこともかなわない。呪符を外して人魔に変貌できなければ、すぐさま正体を看破されてしまうのだ。
「ヨのメイレイがキけぬのであるか……? ならば、ヨがジキジキにそのジュフをトりノゾいてくれよう……」
グラフィス子爵が、こちらに迫り寄ってくる。
僕はもう、きわめて荒っぽい手段しか思いつくことができなかった。
『ガルム、城の結界を破壊して、即時撤退! 他の部隊は、念入りに魔力を隠して待機だ!』
次の瞬間、部屋の片隅でにやにやと笑っていた従者の小男が、人魔に変貌した。
僕の命令は、至極迅速に遂行されたようだった。
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