違和感はどこだ
ミッション系の学校が世の中にはあると聞くが、私には縁遠い世界であり関係ないと思っていた。ほんの小さい頃、通っていた保育園はキリスト教だったが、それでも日常生活には何ら関係しないものだと思っていた。それでも、ハロウィンは万聖節の前夜祭だと教えられたし、クリスマスはキリストの誕生日だと教えられたのでキリスト教の知識は僅かに存在する。本格的とはいえないものの、暗黒面もある程度は知っているのだ。
歴史の教科書にはしばしば宣教師が登場する。日本以外にも、オセアニアやアフリカなど世界中にキリスト教を広めるために。一見、いいことに思えるが現地の信仰を邪魔するという意味では、むしろ悪いことに見える。土着の信仰は原始的だから、我々が文明化してやろうとでも言うかのように(もしくは相手を受け入れられないのか?)それなら、暮らしの中で悟りを得た方が余程いいと私は思った。
これはメガテンを知っているからこそいえることなのだが、キリスト教は絶対の正義ではない。他の宗教も同じである。しかし、クリスチャンたる人々は、圧倒的な権力を以って「常識を正して」いった。止める者はいなかった(世界で多数派だったというのもあるだろう)し、逆らえば処刑された(カトリックの場合。こっからプロテスタントが生まれた)。
思うに、キリスト教は人を管理する為にあるものでもあるのかもしれない。そうでなければ、あそこまで極端にはならない筈だと思っている(これがSFまできたのがディストピアだろう)。大多数が信じるから正しいのだろうか。少なくとも、いいイメージで受け取られてはいる。綺麗事だけでやっていける程、人間は美しくないのに。
そう、人間はキメラであり混沌とした存在なのである(私は少なくともそう悟った)。そのことを肝に銘じておかないと、いつか小さな違和感によって呑み込まれてしまうだろう。
同時に天使も完璧な善ではない。むしろ、考え方次第では悪魔にもなり得るだろう。人間的な要素が悉く排除されているが、彼らは人間の絶対的な味方ではない。ロボット的にすら見える。病み(闇?)というものを彼らは絶対に許さないのだから。
宗教というものはそんなに大事なのだろうか。確かに、縋りつきたいものは大なり小なりあるのかもしれない。私にだって縋りつきたいものはあるが、それは私の中にしかない。私にしか作り出せないものだから。
時代とともに信仰というものは変化していっている。昨今では、十字架の意味を知らない者すらいるという。けれど、人間は変わらないだろう。ソレを求めている限りは。
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