幕間.ある家族の肖像――あるいは幸福な日々の続き

 息子に泣き付かれた日のことを、隆は時折思い出すことがあった。


 ――硬化ディレクションが上手くできない?


 妻が言うには、その日の夕方、わんわんべそをかきながら、お隣の『かえでおねえちゃん』にあやされて帰ってきたという。そのまま夜までご飯も食べずに塞いだまま、隆の帰りを待っていたらしい。

 今も昔も変わらず、やんちゃで恰好つけたがりの子供たちにとって、チャンバラごっこは人気のある遊びだった。

 各々の成長の過程で、零結晶を思惟によって硬化ディレクションさせられることは誰だって自然に学んでいくものだ。

 もちろん学校では、零結晶を武器の形に硬化ディレクションしたり、ましてやそれを人に向けるなど絶対にいけないことだと教わる。だがそんなお小言などお構いなしなのが子供の常だ。思い思いの想像力を胸に、テレビやゲームの真似をして、硬化ディレクションさせた武器を使ってごっこ遊びに明け暮れる。

 そういうことが苦手であれば、子供たちのコミュニティに於いて疎外の対象になる、言い換えればしまうということは、とっくの昔に子供でなくなって久しい隆にも想像できることだった。

 だが、それはさておき――


 ――父さんは、じれくしょん、できる?


 まだ少し舌足らずな息子の問いに、一瞬、隆は言葉を詰まらせてしまう。

 

 回答には慎重を期す必要がある。なんといっても父親の沽券に関わる重大事項だ。


 ――……で、できない……


 なんて答えは、絶対に、出来るわけがなかった。

 

 そげん言うたっちゃ仕方しょんなかろうと隆は思うのである。

 生まれてこのかた今に至るまで、できるだけ結晶樹の実を呑むことを避けてきたのだ。子供の頃から車酔いなど一度もしたことがなかったし、成人してから呑み過ぎで吐いたことも数えるほどしかなかった。いざという時のお守りだなんだと言われても、そんなものはきちんと交通ルールを守っていればいいだけの話だし……。痛い思いをすることなんて、朝方寝ぼけて長押なげしに頭をぶつけるとか、箪笥の角に小指をぶつけるくらいが精々だ。ちょっと我慢すればいいだけのことを、吐き気に変えられてしまうなんて、そちらの方がよっぽど苦痛じゃないか……。

 などと頭の中でさんざん御託を並べ立てるのだが、要約すればこれに尽きる。

 ……口から吐くの、苦手で。


 だからそれからの数日間、隆がどれだけ必死だったかを、智生は知らない。

 病院の粉薬を拒む子供さながらのいやいや具合で結晶樹の実を呑み、一晩かけて思惟による介入ディレクションを試したもののさっぱり上手くいかず、恥を忍んで会社の同僚にコツを聞く羽目になった。同僚たちの反応は一様に失笑を交えたもので、「うちの娘だってできるのに」だの「意外と可愛いとこあるんですね」だの、ひどいものでは「須藤さん、本当に大人なんですかあ?」だのとさんざんな言われようだった。そげん笑うことなかやんか、と思わず飛び出した郷里くにの訛りはもちろん火の勢いに油を注ぐばかりで、終いには新入社員にさえクスクス笑われる始末だった。

 いやはや穴があったら入りたいとはこういうことかと思ったものだ。

 なんとか硬化ディレクションが形になってきたあたりで智生に声をかけた。夜、智生と一緒に人目を忍んで公園や歩道の端に寄せられた零結晶の欠片をかき集めて、こっそりと家の庭に持ち込んだ後、秘密の特訓が始まった。

 自分で上手くできないと言うだけあって、智生は最初、硬化はおろかほんの一瞬何かの形を維持することさえできなかった。もっともそれは数日前の隆の有様と五十歩百歩といったところで、そうであるがゆえに、隆は焦るでも叱るでも下手な発破をかけるでもなく、大人としての余裕を持って息子にやり方を伝えたのだった。

 ――いいか智生、硬化ディレクションにはな、想像力が大事なんだ。

 数日前に同僚から教わったことを、さも自ら悟った真理であるかの如く、自信たっぷりに隆は語った。

 鏡の前で武器を構えた自分の姿を想像する。自分でなくても、誰か別の人でもいい。どちらにせよ、なるだけのがいい。それが成功のコツだ。

 そして智生にとってのものは、二人にとって自明だった。

 智生は狼が好きだった。寝物語の代わりに開いて見せる動物図鑑でも、狼のページに見入っていることが多かった。去年の夏休みに夕摩ゆうまの動物園に遊びに行ったとき、ニホンオオカミがとうの昔に絶滅していることを知ってしまい、ぜつめつなんていやだ、さいあくだ、などと大泣きしはじめたときは、宥めるのにどれだけ苦労したことか。

 だから、狼だぞ、と言って練習した。

 ――自分が狼になったところを想像するんだ。図鑑に載ってる、最高にやつだ。強くて、素早くて、鋭く尖った爪を持ってる……。

 なかなか上手くはいかなかった。夜食を作ってくれた莉子と三人並んで、縁側から日々丸くなっていく月を眺めた。

 いくつもの失敗を重ねて、三度目の夜、誂えたように闇夜に浮かんだ巨大な満月の見降ろす先。見せつけるように掲げられた智生の右腕の拳、その先を覆い尽くした黒く巨大なその武器が、純白の月光に照り映えた。

 巨大な爪。

 それはまるで、磨き上げた黒曜石のような、鋭くも美しい四本の爪。

 月光の下ではしゃいで回る息子の笑顔が、嬉しそうで、誇らしげで……。

 この笑顔を、おれは一生忘れないだろうな、と隆は思ったのだ。


 ――ガキ大将みたいなやつに勝ったって、大喜びしとったな。

 特訓の成果が遺憾なく発揮されたらしいその日の夜、寝床で莉子に腕枕を貸してやりながら、隆はこらえきれないような笑みを浮かべて言うのだった。

 智生を寝かしつけた後でこんなふうに莉子を誘うのを、しばらく我慢していたのだ。結晶樹の実は肉体の痛みを吐き気に変換するが、それと同様に、痛みとは異なる肉体的なシグナルもまた吐き気に変換してしまうことは、なら誰だって知っていることだった。

 だから、成熟した大人というものは、あまりこの実を呑まないのではないか……。

 もちろんそんなことを大っぴらに言うことはないが、実際のところそれは、隆があまり結晶樹の実を呑みたがらない理由のひとつだった。

 十六夜の月さえ夜雲の影に隠れるほどの甘やかな時間を過ごしたあと、莉子は未だ息の整わない口元を恥ずかしそうにシーツで隠していたのだったが、もう完全に事がことを悟ったのか、母親の顔で隆に微笑んで見せた。

 ――おれは、智生ん成長が嬉しゅうてしゃ。自慢ん息子ばい……。

 ――そげん、喧嘩んやり方なんて覚えて、不良になったらどうすると……。

 困ったふうな口調をつくる莉子の唇は、もうひとつの唇に塞がれた。もう、と莉子は笑いながら調子に乗った夫を押し退けようとする。そんな、じゃれ合う猫のような振る舞いに胸の奥をくすぐられながら、隆は優しい声で言うのだ。

 ――不良になんてなるもんかよ。おれらん息子だもん……。

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