8 秘密基地-3-
「それで話というのは?」
狭い部屋にテーブルと長椅子が数脚だけの粗末な空間だ。
だがここには施術に用いるのと同様、精製水を飲用に引いてあるので心身を休めるには悪くはなかった。
「ドクターは宗教って信じます?」
「宗教……?」
彼女らしくない質問にカイロウはしばしその真意を探ろうとしたが、
「信じないね。ああいうのに救われたことは一度もない」
憎々しげにこう答えた。
世間にはいろいろな神がいるらしい。
架空の存在を作り上げて信仰することもあれば、実在するものを奉ることもある。
それらの中で最も規模が大きく、勢いがあるのはやはり聖クジラ教だ。
実際にその姿を見上げることができ、現に恩恵をしたたらせてくれるクジラは疑いようのない信仰の対象だ。
集会所も各地にあり、布教活動も精力的に行われている。
「そうですよね」
納得したようにリエは笑った。
「きみは信じているのかい?」
まさか、と彼女は控えめに笑う。
「宗教というより神の類を信じていないんです。もし本当にそんなものが存在するなら、私たちは生きている意味がありません」
誰しも楽になりたい、救われたいと思っている。
だが神がそれを叶えてくれるのならば、人間はきっと一日中祈り続けるだろう。
しかし現実はそうではなく、あくせく働き、怪我や病に悩み、災害を恐れ、わずかな余暇を楽しんでいる。
その営みは信者ですら例外ではない。
それはつまり人間を超越したものなど存在せず、祈るばかりでは無駄だと誰もが分かっているからだ、と彼女は言う。
「きみの哲学的な見解が聞けるとは思わなかったよ」
カイロウは思った。
そういえば彼女とは仕事以外ではほとんど言葉を交わしたことがなかった。
お互いに得意な分野を把握していて、それを施術の場で活かすために連帯感を育てたことはある。
その時はやはり業務的な話題が中心で、無意識的にプライベートな事柄に触れるのは避けてきた。
「しかしどうして急にそんなことを訊いたんだ?」
「そういうものにすがる人の気持ちを知りたくなったから……かもしれませんね」
「それなら信者に問うのが一番だろうな。いっそのこと入信してみるとか」
「そうですね……いえ、やめておきます。私はあくまで外から知りたい、と思っただけですから」
妙な言い回しをするな、とカイロウは思った。
彼が知る彼女は聡明で、回りくどいことを嫌う。
分からないことがあれば答えを得るための最短距離を瞬時に見極め、実際に理解に辿り着く才女だ。
「拠り所、というものについてふと考えることがあったものですから」
自分に向けられる疑うような視線に気付いたリエは、ごまかすように水を飲んだ。
「人によるだろうね、それは」
彼はポケットにネジが入っているのに気付いた。
「金を稼ぐことが生き甲斐だという人間もいるし、仕事の後の一杯の酒に幸せを感じる者もいる。何もない奴なんていないんだ。
拠り所というのはつまるところ、人生の目的のようなものだよ。これの為に生きている。これがあるから生きていられる。
信者にとってはそれがたまたま信仰だったのだろうね」
今度はリエが怪訝な表情を浮かべる。
カイロウという男は寡黙だ。
談笑しているところなど見たことはないし、これまで会話が弾んだこともない。
その彼にしてはずいぶんと多弁だった。
もしかしたら思いのほか、彼は神や宗教について興味を持っているのかもしれないとリエは思った。
「ドクターにもあるんですか? 目的のようなものが」
言ってから彼女は今のは失礼だったか、と後悔した。
「あるよ。きっとありふれたものだと思うけれどね」
「それは――」
何か、と問いかけたところで思い留まる。
野暮な詮索はしないのがルールだ。
これ以上踏み込むのはマナー違反になる。
「………………」
コルドーの件を出すべきか、リエは迷った。
彼がなぜクジラ教の信者であるのか、気にならないといえばウソになる。
この施設に集うのは幻想を捨て、政府と距離を置き、表よりも裏で生きることを選んだ――あるいはそうせざるを得ない――者ばかり。
クジラやその恩恵にすがろうとする人間は近づくことすら忌避する場所のハズである。
本人に訊くことができればそれが一番早いが、何となく取り返しのつかない結果を招きそうでためらってしまう。
その点、カイロウなら気の利いた答えをくれそうな気がした。
だが結局、それを口にすることはできなかった。
これもまた無用の詮索だと気付いたからだ。
自分たちはお互いに隠し事をしていることをお互いに知っている。
それは出自であり、家族であり、信教であり、賞罰であり、生き方そのものだ。
誰も生い立ちや信念に縛られずに、ありのままの自分でいられる場所。
これまでそれを維持できたのは、それらに対して不干渉を守ってきたからだ。
(そう、そうよね…………)
彼女は納得することにした。
コルドーのことは気にはなるが、深く考えないほうがいいに決まっている。
少なくとも自分の過去を誰かに打ち明ける覚悟がないうちは、他人の秘密に迫るべきではない。
リエは思いなおし、水を一気にあおった。
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