第16話 先輩と逃げ


 10分以上も何も喋らずにたどり着いたのは、涼やかに水がせせらぐ鴨川だった。

 三条大橋の右側から階段を降りて、丁寧に舗装された河原に降りると、先輩は川べりまで移動して言う。


「ここに座ろう」


 え?

 という声を、ギリギリで飲み込んだ。


 だって、右10メートル先にはカップルがいて。

 左10メートル先にもカップルがいて。

 ここに等間隔で座るのって、カップルだけだと思うんですけど。


 だけど先輩がさっさと座ってしまったので、私も尻込みしている場合ではなかった。

 ブレザーからハンカチを取り出すと、それを地面に敷いて、その上にお尻を乗せる。


 冷たい風が頬を撫でて、私はなびく髪を軽く押さえた。


「さすがに寒くなったな……。お前に話しかけられたときは、まだ涼しいくらいだったけど」


 先輩が川の流れを見下ろしながら言う。

 あの頃はまだ秋……というか、残暑がやっと終わったくらいだった。

 それからほんの数週間で、めっきりと寒くなった。そろそろ制服の上にコートを着ようか考えているくらいだ。


「実はさ、園倉のやつにもここに連れてこられたんだ」

「え……」

「お前の昔のことをここで聞いた。だから、お前ともここで話そうと思った。なんとなく、それがフェアだと思った」


 フェア……。

 先輩の中で私は、そのくらい重要な位置を占めているということだろうか。

 人生初めての彼女と、同じ場所に連れてくるくらい?


「真理峰――お前さ、なんで俺に話しかけたんだ?」


 先輩が。

 人の顔を全然見れないあの先輩が、まっすぐに私の顔を見て、尋ねかける。


「なんで俺だったんだ。ゲームが得意なやつなら俺以外にもいくらでもいる。なのになんで俺だったんだ?」

「……友達のお兄さんだったから……では、ダメですか?」

「お前が考えてることを知りたいんだ――お前は、俺に、何を求めてたんだ? それを聞かない限り……俺は、お前とのパーティーを解消するつもりはない」


 いつもはあんなに引っ込み思案のくせに、そう語る先輩の顔には、決して揺らぎそうにない固い意思が感じられた。


 ……逃がしてはくれないんですね、先輩。

 ちゃんと自分をさらして向き合え、って、そう言うんですね、先輩。

 そして先輩自身にも……すでにその覚悟があるって、そういうことなんですね。


「……わかりました……」


 今までこのことを、自分から人に話したことはなかった。

 だけど先輩になら、私の愚かさを知ってもらってもいいって思った。


 だから私は話した。

 将棋をやめた理由。

 同好会がなくなった理由。

 そして、なぜ……先輩でなければならなかったのかを。


「私の目には……ゲームをしてるときの先輩の横顔が、輝いて見えたんです。私もきっと、昔はあんな顔をしてたはずだって……またあんな風にゲームをしたいって……だから、他の人じゃダメで……そ、その、先輩じゃないと……」


 こんなに寒いのに顔だけが熱くなって、声もどんどんか細くなっていく。

 は、恥ずかしい~……!

 なんか、愛の告白でもしてるみたいで……う~……!


「……そうか……」


 どうやらそんな風に感じているのは私だけみたいで、先輩はため息をつくように相槌を打つだけだった。


「お前ほど大それたもんじゃないけどさ……俺にも、あったよ。ゲームを楽しめなくなるようなこと」

「え? ……先輩が?」


 ゲームをするために生きているって、言われなくてもわかるような顔で生きている、あの先輩が?


「小学生の頃さ、友達とゲームして、ボコボコにしすぎてコントローラー投げられたんだよな。幼心にそれがショックで……それから、対人ゲームはちょっと触ってすぐやめるようになった」


 ……そういえば、聞いたことがある。

 先輩は新しいゲームを始めてもすぐにやめてしまう。だけどそれは飽きたからじゃなくて、あっという間に頂点を極めてしまうからなのだ。

 新しいゲームが始まるたび、ランキングのトップに立ってすぐに消えてしまう、都市伝説のようなプレイヤー――

 先輩と一緒にやっているゲーム――MAOの中で、小耳に挟んだ噂話。

 人呼んで《ローンチハンター》。

 その根源は……そんな何でもないようなことだったのか。


「いわばソロゲーに引きこもってたんだよな。だからMAOみたいなゲームでも、ソロでやるのが当たり前だった――お前に絡まれるまでは」


 先輩はそう言って皮肉っぽく笑った。

 私は唇を尖らせる。


「悪かったですね。オタサーの姫の逆ナンみたいで」

「正直かなり怖かったぜ。後ろから怖い黒服が出てきてボコボコにされるところまで想像してた」

「誰が美人局ですか。……なのに先輩は、どうして私と一緒に遊んでくれたんですか?」

「お前もなんとなくわかってるだろ? 脱出ゲーム行ったとき……なんつーか、驕りを正されたんだよ。俺くらいゲームうまいやつなんて、他にも普通にいるんだって。だから遠慮する必要なんかないんだって」


 ――でも。

 と、先輩は続けて、困ったように笑いながら、私を見つめた。


「今んところ、お前以外には見つかってないけどな」


 私だけ。

 ……私だけ……そっか……。

 なんだか胸が暖かくなってきたと同時、私の脳裏には、姫乃先輩と一緒に帰っている先輩の姿が映し出された。


「……そんな風に言うんだったら、なんで姫乃先輩なんかに引っかかっちゃったんですか」


 どうしようもなく声が尖る。

 そんなに言ってくれるんだったら、どうして、どうして私じゃなくて――


「正直、あの人はやばいですよ。男の人にチヤホヤされることしか考えてない人です。そのためのテクニックを全身に身につけてるんです。あのやたら成長した胸だって、そのために用意したに違いありません」

「用意したってなんだよ。頑張ってなんとかなんのか?」

「なんとかしたんですよ! マッサージとかストレッチとか!」

「ただ美容を頑張ってるだけじゃねえかよ」


 イライラが募っていく私の一方で、先輩はおかしそうにくくっと笑みを噛み殺していた。

 その横顔を、私はじろりと睨む。


「何ですか?」

「いや……お前がそんな風に他人を悪く言うの、初めて聞いてさ。本当に仲良かったんだな」

「昔の話ですけどね! 今となってはすっかり反転アンチです!」

「じゃあ、そろそろネタばらししとくか」

「はい?」

「俺と園倉は別に付き合ってねえぞ」


 私はぱちぱちと何度も瞬きをして、先輩の顔を見つめた。

 先輩にはこれっぽっちも、冗談を言っている感じがなかった。


「え? え? でも、姫乃先輩は、告白したって……」

「だから、その告白を断ったんだよ。なんで告白=付き合うだと思ってんだお前」

「で、でもでも、一緒に帰ってるところも見て……!」

「勝手につきまとわれてるだけに決まってんだろ。あいつ全然諦めないっていうか、俺に絡んでウザがられるのを楽しんでる節があってさあ……」


 ……確かに……。

 昨日会ったときも、私が不快感を示したときが一番楽しそうだったような。


「な……なんで断ったんですか?」


 嬉しいことのはずなのに、なぜかすんなりと受け入れられなくて、私は身を乗り出して先輩に詰め寄る。


「趣味合いますよね? 顔も可愛いですよね? 性格も男の人にとってはいいですよね? おっぱいでかいですよね?」

「全部関係ねえよ。だって俺が欲しいのは、遊び相手だ」


 私を。

 他ならぬ私を見ながら、先輩は言う。


「はっきり言ったよ。『あんたじゃ力不足だ』ってな。考えてみろよ、あいつが俺に張り合って謎解いたりすると思うか? 絶対横で何もせずに『すごーい!』とか言ってるぞ」

「で……でも……でも……」

「確かにあいつと付き合ったら、それはそれで心地いいだろうよ。あいつは俺の欲望を何でも満たしてくれるんだと思う。だけどさ……今、お前の話を聞いて、なおさら思ったんだけどさ――」


 先輩は、純粋な目で。

 私の誘いを受けたときの、純粋なゲーマーの目で。


「――あいつに流されたら、俺はきっと、お前から逃げることになる。俺に張り合ってくれるお前から、逃げることになる。それだけは、俺の本能が許さない」


 ――逃げるんですか、先輩?

 ――やってやろうじゃねえか


 先輩は、あのときのままだった。

 そしてこれからも、あのときのままでいてくれる。


「だから逃げんなよ、真理峰」


 いつまでも。

 私と一緒に。


「俺も、逃げない」


 ――正直。

 この瞬間まで、喉から出かかっていた。


 ――私だったら、彼女にしてくれますか?


 その言葉が、出かかっていた。

 だけどこの瞬間に、それは引っ込む。


 彼女。

 恋人。

 そんな関係で先輩の隣に立つのは、あまりにももったいないことだった。


 だって――逃げるな、って。

 そんな煽りの言葉が。

 そんな挑戦の言葉が。


 


 ――愛してるって言われるよりも、ずっと嬉しいんだから。




 彼氏なんかよりも力強く、先輩は私の隣に立ってくれる。

 恋人なんかよりも頼もしく、先輩は私と対峙してくれる。


 だったら、私が口にすべき言葉は。

『好きです』でも。

『付き合ってください』でもなく。

 

「――やってやりますよ」


 正々堂々と、受けて立つ。

 師匠に破門されて何年も経って――私はようやく、ゲームをする人間としてのメンタルを知ったような気がした。

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