第13話 先輩と運命の出会い


 気付いたときには、私は将棋盤の前にいた。


 駒の動かし方をいつ覚えたのか、どうして覚えようと思ったのか、いずれも私の記憶にはない。

 元からそう定められてでもいたかのように、物心がついたそのときには、私は将棋というゲームに熱中していた。


 才能がある、と両親には思われたらしい。

 幼稚園を卒業するかしないか……そのくらいの頃から、私は女流棋士、ひいてはプロ棋士を目指して師匠の元に通うようになった。


 師匠は、優しい人だったと思う。

 とても勝負の世界で生きてきた人とは思えないくらい、好々爺然とした人で……小学生の私は、師匠のことを本当のお爺ちゃんのように慕っていた。


 だから、修行を厳しいと感じたことは、あまりない。

 いや……あまり、というのは遠慮だ。


 一度もない。

 一瞬もない。


 どれだけ怒られようと、どれだけ負けようと、好きなゲームを好きなだけやっていられる環境が、楽しくないわけがなかったのだ。


 師匠は私が負けるたびに、こんな風に尋ねた。


『……桜。悔しないんか?』


 私はいつもこう答えた。


『悔しいけど楽しい!』


 自分の顔なんてわからないけれど、きっと満面の笑顔で。

 対する師匠の、引き攣れたような困り顔を、今でも鮮明に思い出せる。


 たぶん、師匠は、薄気味悪く思っていたのだろう。

 負けても怒られても泣きもせず、にこにこと盤の前に座る子供が、なのに『悔しい』と答えてみせる。

 我慢しているわけじゃない。

 取り繕っているわけでもない。


 当時の私は、


 負けず嫌いでありながら、負けることを嫌だとは思わなかった。


 悔しく思うことは嫌なことなのだと、そう考えたことがなかった。


 一見、矛盾しているようなその感情論理が、当時の私の中では確かに成立していたのだ。

 薄気味悪く見えて当然だ。

 多くの人と比べて、私の精神のアルゴリズムはバグに見えるほど異なっているのだから。


 私は成長した。

 勝負事で上達するのに、その精神構造は都合がよすぎた。

 負けても決して落ち込まない。

 そのくせちゃんと悔しいから、敗因はきっちり分析する。

 落ち込まない分、精神にがないから、そのスピードは常人の何倍にもなった。


 ……けれど、デメリットもある。

 私は負けることが、悔しいことが、悲しくて苦しいことだとは知らなかった。

 だから――敗者への接し方も知らなかった。

 自分が負かした相手が、自分をどう思っているかなんて、計り知ろうともしなかった。


 それは、初めて女流棋士も出る大きな大会に出たときのことだ。

 勝ち進めば女流資格も得られる、いわゆる棋戦というやつだ。

 私は事もなく勝ち進んだ。

 当然のように。

 楽しい、楽しい、と思いながら。




 同じ大会に人生を懸けて出ている人がいるなんて考えもせず。




 女流資格を得られるどうかが決まる試合

 記者の人がいつもより多いなあ、と、私の感想はそれだけだった。


 ……これは後から知ったことなのだけど、あのとき、私は史上最年少女流棋士になる可能性が濃厚ということで、かなり注目されていたのだそうだ。

 もちろん、そんなこと、私は知りもしない。

 

 その日、その将棋盤の前に座った理由は、それ以外には何もなかった。


 対局相手は、だいぶ年上の人だった。

 20歳は超えていたと思う。

 小学生の私には、年上の人はみんな大人に見えたので、具体的な年齢はわからなかった。


 そして、対局が終わった。

 勝ったのは私だった。

 けれど、私は少しだけ不満だった。


 相手にミスがあったのだ。


 だから、対局直後。

 項垂れる対局相手の前で、ふと言葉が口を突いたのだ。


『――もっと面白くなったのに』


 その瞬間だった。

 悄然と項垂れていた、一回り以上も年上の対局相手の女性が、突然――

 たくさんのカメラの前で。

 大勢の記者の目の前で。


 ――ガンッ!! と。

 将棋盤を、全力で殴りつけたのだ。


 辺りがしんと静まり返った。

 私はびっくりして、ただただ固まっていた。

 硬いはずの将棋盤に亀裂が走り、拳から垂れた赤い血が流れ込んでいくのが、はっきりと見えた。


『……っ!!』


 その人は、結局、何も言わなかった。

 涙をいっぱいに溜めた目で私を睨みつけ、それから、くるりと背を向けて、足早に大会会場を出ていった。


 ……今なら、わかる。

 あの人は、とても大人だった。


 どれだけ罵っても足りなかったはずだ。

 あのときの私は、どれだけ詰られても文句の言えないことをしたはずだ。

 直接殴られずに済んだのは、あの人が私と違って、とてもとても大人だったからだ。


 彼女は、その対局に人生を懸けていた。


 女流棋士になれるか、なれないか。

 年齢制限という崖っぷちに立ちながら、それでもと望みを繋いで、やっとの思いで私の正面の席に座った人だったのだ。


 彼女が十何年と積み上げてきた努力を、時間を、人生を。

 私は、遊びで踏みにじった。

 どころか、侮辱さえしてしまった。


 だって、だって、知らなかったのだ。

 こんなに面白いゲームをしているのだから、勝っても負けても楽しいのは当たり前だって、って、私は本気でそう思っていたのだ。


 知らなかった。

 将棋ゲームで悲しくなる人がいるなんて知らなかった。


 私に負けた人が、みんな泣いていたなんて、知らなかったのだ――


『……全部、おれの責任や』


 その事件があった後、師匠は私に言った。


『お前に、一番大事なもんを教えられんかった……。相手を敬う。敗者にも敬意を払う。口では言ってきたつもりやったが……お前には、それでは伝わらへんかったんやな。考えてみれば当然の話やわ……。お前は、敗者の、弱者の、痛みっちゅうもんを、まったく知らんのやから……。普通の人間が痛いって思うときに、楽しいって思うてまうんやから……』


 師匠のつらそうな顔を見て、自分が本当にとんでもないことをしてしまったのだと、今更ながらに実感した。


『桜……ホンマに堪忍なぁ。不甲斐ない師匠で、ホンマ、堪忍やで……。もっと早くに気付いとったら、なんとかなったんかもしれん……。でも、お前……もう将棋指すの、怖いやろ?』


 私はずっと、ぼろぼろと泣いていた。

 どれだけこっぴどく負けても流れなかった涙が、とめどなく流れ続けていた。


『桜……お前には、将棋の才能がある。たぶん、この地球上のどの女の子よりも。歴史上のどの女性よりも。

 せやけど、勝負師の才能はあらへん。これっぽっちも……致命的にや。

 お前の将棋は、お前しか幸せにせんのや…………』


 私の将棋は、私しか幸せにしない。

 師匠のその言葉が、どうしようもなく深く深く、私の胸に突き刺さった。


『破門や、桜。――お前は、プロにも女流にも、ならんほうがええ』


 ホンマに堪忍な、と師匠はもう一度言った。

 私は泣いたまま、無言で頭を下げて、弟子ではなくなった。




 私には、才能があるらしい。




 けれどそれは、私自身しか幸せにしない才能だ。

 私の相手をしてくれた人も、優しく育ててくれた恩人でさえ、悲しい顔をさせてしまう才能だ。


 それは将棋だけに限ったものじゃない。


『――あなたさえ、現れなかったら』


 あのときの、姫乃先輩の、深いうろのような表情。

 泣いていないのに泣いているような、怒っていないのに怒っているような、真っ黒な無表情。

 

 また、傷付けたんだと思った。

 性懲りもなく。

 しかも今度は、誰よりも大好きだった人を。

 

 私は、ようやく完璧に諦めた。


 私は、楽しもうとしてはいけないのだと。

 私が楽しむほどに、私以外のみんなが傷付くのだと。


 ……なのに。

 なのに私は、その人のことを知ってしまった。


 何気なく覗いた上級生の教室。

 窓際の席に座り、異彩を放つその姿。

 周りには目もくれず。

 一心不乱に、小さな液晶画面を覗き込み――




 ――その先輩は、かつての私のように目を輝かせていた。




 ……完璧に諦めた、と言いながら。

 私は結局、負けず嫌いで、諦めが悪いから。

 心の隅には、まだ未練が残っていたのだ。


 もしかしたら。

 世界のどこかには、いるかもしれない。

 私の同類が、仲間が、いるかもしれない――と。




 そうして、私は先輩に出会った。


 運命の出会いだった。


 少なくとも、私にとっては。


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