リッキーの一つ目の秘密

 きれいな和室だった。目のギュッとつまった畳から草の匂いがする。真ん中に置かれたこたつの温かな雰囲気がちょっと嬉しくて、やっと私は自分のかじかんだ指先に気がついた。

「リュウキ、突っ立ってないで座布団出しな」

 女の人が、私に対するよりずっと強い語気で言った。ゴリラの顔が見たことがないほど不機嫌そうに歪む。

「分かってるよ。うるせぇな」

「じゃあ、とっととやれ」

 女の人がゴリラの頭を小突いた。ゴリラはさらに眉間のシワを深くして、でも何も言わずに押し入れの引き戸を開け、三つの座布団を引っ張り出した。一つずつこたつの周りに並べながら、彼はうかがうように視線を上げて女の人が部屋を出ていったのを確認すると、

「ごめんな、うちのババア感じ悪くて」

 ゴリラは声を低めていたけれど、すぐに、聞こえてんぞ! という怒声が飛んできた。再びゴリラの眉間が歪む。

「お母さん?」

 私が尋ねると、彼は、そう、と嫌そうに言った。

 ゴリラはちょっと視線を横に向けて、隣に腰を下ろしたリッキーを見た。彼は相変わらず石みたいに硬い表情をしている。ゴリラは肩で息をすると、私の方へ向き直った。

「渡す物って、何?」

「これ……」

 ハッとして、私は人面キモかわマスクを差し出した。右頬に「待ってるよ」、左頬に「いなくてさみしい」、そして真ん中に「リッキー大好き!!」と書かれたピエロ風マスクを。それを見た瞬間、リッキーは目を丸くし、固まった表情が少し歪んだ。でも、彼はすぐに唇を噛んでうつむく。

「何これ、すげえじゃん!」

 ゴリラが楽しげに声を上げたけれど、その後には、ずんと重い雰囲気が漂った。

「こないだ、ケーキもくれたよな」

 ゴリラの声は暗がりに何とか灯りをともそうとしているような感じだった。でもその口調以上に、彼の口にした言葉が私の心にポっと火を灯した。リッキー、あのケーキ、ちゃんと食べてくれたのかな。トクトク胸が期待に鳴る。

「すげぇうまかったよ。ありがと」

 ゴリラが言うのを聞いて、ガクッと力が抜けた。パッと咲きかけた心がしおれていく。私が目に見えてガッカリしたからか、ゴリラはしまったと言うように顔をひきつらせた。

「もしかして、オレ、食べちゃまずいやつだった?」

 私は慌てて首を振った。振るしかない。ゴリラも彼に似合わないオロオロした様子で続ける。

「力也も食ったよ。あの……妹もいるから三等分になっちまったけど、でも食ったし……うまかったよな?」

 な? な? という感じでゴリラはリッキーを見た。リッキーも、こくんと頷く。そうして、ようやく口を開いた。

「ありがと」

 覇気や陽気さがごっそり消えた、細い声だった。でも、久しぶりに聞いたリッキーの声が、ちゃんとリッキーの声で、その当たり前のことが私はなんだかすごく嬉しかった。胸がジンと熱くなった。

「ばあちゃん、何か言ってた?」

 リッキーが細い声のまま聞いてきた。さっきのおばあさんの、辛いだろう、悲しいだろうことを優しい口調で話す様子が脳裏によみがえってきて、心が痛んだ。おばあさんがかわいそうで、私は言ってしまった。

「リッキーは、自分に怒ってるんだって、言ってた」

 リッキーはどこか痛んだかのように、顔を歪めた。

「怒ってない」

 囁くみたいにこぼした後、リッキーはさっきよりさらに深く顔をうつむけた。

 私はぐっと息を飲んだ。この間から、ずっと気になっていること、自分の嫌な想像が間違いなんだと証明して欲しいこと、それを確かめたくなってしまった。チャンスは今しかないと思うと、胸が絞られたみたいに痛くなった。

「リッキー」

 そっと、一つ一つの言葉を落とさないよう気をつけるみたいに、慎重に声を出した。

「近藤寛也って人、誰なの?」

 急に、部屋の空気が張りつめた。

「なんで、そんなこと知ってんだ?」

 返ってきたのは、ゴリラの声だった。でも、その口調は彼とは思えないくらい低く、攻撃的なきつさを帯びていた。声が詰まって、私はうつむいた。

 嫌な、奴だよ。

 また、力ない、か細い声がした。ハッと顔を上げると、リッキーはうつむいてじっとコタツの天板を見つめたまま、それでも僅かに口を動かしていた。

「あのさ、誰にも、誰にも言わないでくれる?」

 ドキッとした。リッキーの深い深いところへ足を踏み入れていることが、肌にピリピリ来て、何か大きな秘密が打ち明けられようとしている気配を感じ取って、心臓がバクバク鳴る。自分で聞いたことなのに、明かされようとしている秘密に、怯んでしまった。うん、という自分の声がする。リッキーは下を向いたまま、ゆっくり話しだした。

 ばあちゃん、今、ちょっと調子悪くて働いたりできないんだ。でも、オレのこと育てるには金がいるから……知り合いの、近藤ってそいつに金もらってるみたいでさ。オレ、全然そのこと知らなかったんだ。そいつは……近藤は、偉そうで、冷たくて、ばあちゃんやオレのこと、虫けらみたいに扱うようなひどい奴なんだ。そんな奴に金もらってるなんてさ、オレのために、そんな奴にペコペコして金もらわなきゃなんないなんてさ、我慢できなかったんだよ。あいつ……あいつは、家に電話してきて、たまたまオレが出たら、ばあちゃんが金たかってくるって、迷惑だって、でかい家持ってんだからそれ売って安アパートにでも越せばいいだろって、言ってきてさ。すげぇムカついて、オレ、じゃあそうするっつったんだ。ばあちゃんにも話した。こんな家、売って引っ越せばいいって。でも、ばあちゃんは、なかなか買い手がいなくて無理なんだって。引越し先も、この辺りじゃなくなるだろうから、オレが転校しなくちゃいけなくなるって。だったら、あの人に頼んだ方がいいって言って……。

 リッキーは言葉を切り、メガネを外して目元を拭った。そうして、また話し出す。

 でも、オレ、本当に嫌で……自分のしたこととか責任とか、全部棚に上げて、ばあちゃんのこと、あんな風に悪く言ってくるような、そんな奴に頭下げて見下されて金もらってって、ばあちゃんにそんなことさせんの本当に嫌で……オレ、転校すんのも平気なのに、ばあちゃんはだめだって言って、もう、なんかどうしたらいいか分かんなくなっちゃったんだよ……。

 リッキーはぎゅっと目をつぶって下を向いた。

「オレ、ばあちゃんに怒ってない。全然怒ってない。ただ、ただ……あいつのことが嫌いなだけなんだ」

 縮めた肩を小刻みに震わせるリッキーを見て、胸がジクジク痛んだ。目の中が熱くなった。こんな風に男の子が泣いているのを見るのは、もう何年もなかったことで、ひどく心に来た。

「リッキー」

 喉をしぼって出した自分の声が、ものすごく頼りなく聞こえた。顔の筋肉が変に強ばっている。

「『あいつ』って、近藤って、リッキーとどういう繋がりがあるの?」

 リッキーはうつむけた顔を、そっと上げた。私と目が合うと、彼は視線を下げる。

「オレの父親」

 もしかしたら、と思っていたこととリッキーの言葉が重なって、ゾワリと背筋が冷たくなった。

 力也。ゴリラがリッキーの肩に手を置いた。

「もういいよ。そこまで話すことない」

 リッキーは首を左右に振った。それから、少し鼻をすすって、

「かな、絶対、絶対、誰にも言わないでくれな」

 心臓をわし掴みにされたようになった。何かもっと重大なことが明かされようとしている。それに、転校後、初めてリッキーに「かな」と呼ばれたことにも胸を突かれていた。

「うん」

 声に力を入れて答える。

 リッキーは下を向いたまま、ゆっくり口を開いた。

「オレ、本当は母さんの子どもじゃない。ばあちゃんの子どもなんだ。母さんとは年の離れた、父親違いのきょうだいなんだ」

 えっ、と喉から声が出そうなくらい、びっくりした。自分でも分かるくらい、目を見開いていたけれど、リッキーは、私の驚きになんて構わず、じっとこたつの茶色い天板を見つめていた。

「ばあちゃんは、オレがそのこと知ってるって、知らない。でも、向こうで一緒に暮らしてた母さんの結婚相手が、オレに言ってきたんだよ。お前はばあちゃんの子どもだって。だから自分たちには邪魔なんだって。ばあちゃんのとこに帰れって」 

 心がナイフで突き刺されたみたいだった。目の前のリッキーは、うつむいて、肩を震わせて、口から時々おえつを漏らしていて、その姿が余計に胸を切なくした。

「ひどい」

 言葉が見つからなくて、でもこの悲しみを、辛さを、口にしないではいられなくて、私はそう言った。一度声が出ると、心につかえていたものが数珠つなぎに言葉になっていく。

「それでお母さんと一緒に暮らせないの? お母さんは、その結婚相手の人と一緒にいるの?」

 リッキーは、ブンブン音がなりそうなくらい強く首を振った。

「違う、違う。母さんはそんなことしない。母さんは、本当にオレのこと大事にしてくれたんだ。自分がひどい目にあっても、オレのこと守ろうとしてくれたんだ。自分のことより、オレのこと考えてくれたんだ」

「じゃあ、なんでお母さんは一緒にいられないの?」

 少し間があった。

「それは言えない」

 そう言って、リッキーは、またメガネを外し、袖で涙を拭った。彼の背を、ゴリラがそっとなでる。

「もう十分だよ」

 ゴリラはリッキーを、やわらかい、あたたかい、でも少しさびしげな眼差しで見つめていた。その視線が、ふいっと私に向けられる。彼は引き戸の方をあごでしゃくった。もう帰れ。そういう合図だ。自分をよそ者だと言われたような気がして、悔しいような、悲しいような気持ちが胸に突き上げてきた。

 

 私が、そろそろ帰ります、と言いに行くと、ゴリラのお母さんは驚いたように目を丸くした。

「あれ? 帰っちゃうの? 夕飯も食ってけばいいと思ってたのに。ゆっくりしてけるように、お菓子も準備してたんだよ」

 ほら、とお母さんは、お菓子のたくさん入ったお皿を見せてくれた。

「帰るっつってんだから、いいだろ」

 背後から声がして、振り返るとゴリラがいた。お母さんの声が急に尖る。

「じゃあ、あんた家まで送ってきな」

「分かってるよ」

 ゴリラは最後に小さな声で、ババア、とつけ加えた。お母さんが平手でゴリラの頭をバチンと叩く。

「あんた、次ババアっつったらぶっ殺すよ」

 ゴリラは叩かれたところをちょっと手でさすり、ハイハイと呆れたように口にして、私に「行くぞ」と言った。

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