第8話
広場はガラクタの山で道が入り組んでいるものの決して広くない。ガラクタを見ながらゆっくりと歩いていても、秋ちゃんがいた場所にはすぐに辿り着いた。商店街の通りから管理所に向かう道を最短で行くためには、真ん中の道をなるべく横に逸れずに真っ直ぐ向かえばいい。その道を二本ほど左に逸れた道の奥、管理所の長い建物の壁沿い、張り出した二階バルコニーを庇として、彼女は座っていた。
秋ちゃんは、僕が案内したその場所に立ち、バルコニーを見上げて、それから僕の方に向き直るようにくるりと半回転する。壁にもたれるように背を付ける。
そのまま瞑想するように視線を落とし黙ってしまった秋ちゃんを見詰めながら、僕は何を言うこともできずに、ただ木偶の坊のように突っ立っている。
耳元で雨の音が響く。ような気がする。あれはいつの話だったろう。濡れた髪から目に滴が垂れて、もういくら泣いたか分からないほどに腫れた瞳を再び潤ませる。傘がかけられて見上げた先には優しい笑顔。けれどそれはぼやけて揺らいで、男か女かも分からない。小さいのか大きいのか、年さえもよく分からない。ゆるゆると夢の中のような曖昧さで世界が溶けて、次第にそれは現実ではなかったかなと思い始める。
まどろむように意識が離れたところで、自分を呼ぶ声で目が覚めた。
「春さん?」
瞬きをして白昼夢から覚めたのと同時に、思わず仰け反る。確信犯か、と突っ込みたくなるくらいに近くに秋ちゃんがいた。そもそも何の確信か、という問いと、落ち着いて見れば覗き込むように首を傾げて見上げているだけで二人分ほどの距離は開いているという事実に情けなくなりながら、それらの感情を包むように微笑んだ。
「ごめん。ぼうっとしてた」
秋ちゃんは体を離し、もう一度バルコニーを見上げる。
「駄目ですね。やっぱり何も思い出せません。思い出すことは目的じゃなかったはずなのに、いざ何も感じないと結構ショックです」
僕もつられるように頭上を見上げて言う。
「そんなもんだよ。それでも僕もみんな普通に生きているし、毎日そこそこ楽しくやっている。忘れた日々がなくても人は思いのほか順応してしまうんだよ」
そう言って、顔を戻すと秋ちゃんが僕を見ていてたじろいだ。
「どうかした?」
「普通ってどんな日々なのでしょう。私、春さんに出会ってお兄ちゃんやスノーに良くしてもらって、毎日そこそこ忙しくて楽しくて、思った以上にすぐに生活に馴染んで、まだ数日しか経っていないのに違和感がないんです。忘れる前だって『普通』に生活していたはずなのに、その『普通』が今の『普通』に塗り替えられてしまう気がして。前と今とは何かが違うはずなのに、形容する時は同じ『普通』の一言で済んでしまうのももどかしい」
一言でそうまくし立ててから、彼女は溜め息を吐くように苦笑した。
「すみません、よく分からないですよね。私もよく分からないんです」
その感覚は僕にはなかった。彼女が言うような前の生活の『普通』なんて空気を掴むのと同じくらいに感覚がなくて、今の『普通』が僕の生きるべき環境であり、体感する『普通』であるから、そこにもどかしさを感じたり不安を覚えることはなかった。
想像しようにも『普通』と形づけられる日常、が四季や夏兄やナズナやスノーがいる日常以外にない。塗り替えられるような日々が果たして僕にあったのかと言いたくなるほどに現実味がなかった。
黙ってしまった僕に焦ったのか、秋ちゃんがすかさず「そろそろ行きましょうか」と声をかけてくれる。
うん、と返しながら僕は彼女を遠く感じる。
彼女が僕とは違う場所に立っていることを、なぜか唐突に思い知ってしまった。同じような道筋を辿って、同じ場所に立っているのに、僕は彼女にはなれないのだと、はっきりと気付いてしまった。
「連れてきてくれてありがとうございました」
秋ちゃんはそう言って笑う。遅れて僕は「どういたしまして」と返す。なかなか歩き出さない僕を気にしてか、秋ちゃんが前に立って歩き出す。数歩先で立ち止まって僕が並ぶのを待つ。
僕はもう『普通』に戻って彼女の横に並んで歩き出す。
彼女が僕をどこまで理解してくれるのか、僕は彼女を理解できるのか、僕は何を期待しているのか、心の奥底ではきっとわかっている自分自身が何よりも残酷で恐ろしかった。
僕の顔はやっぱり笑顔で、秋ちゃんの横に並んで話すことにも抵抗はない。それが当然であり、そうしなければならないからだ。無理している訳でも、虚勢を張っている訳でもない。それが僕であり、僕の全てなのだから。
彼女と僕の違いは畏怖するほど決定的で、それは怖いながらも僕を惹きつける。ああなりたい、と側にいたいと感じるものがある。
「そういえば春さん」
秋ちゃんが僕を呼んだ。
「私の前ではいつでも笑わなくていいですよ」
言葉の意味を理解するのと同時に、足が止まった。数歩先から秋ちゃんが僕を見ていた。後ろに手を組んで、僕を見上げるように首を傾げる。
「春さんの長所は、気まずい空気を和ますための笑顔でしょう? 取り繕う必要もない場所で、笑いたくもないのに笑わなくていいんですよ」
上手く言葉が出なくて、開いた口をもう一度閉じ、それからまた開く。
「秋ちゃん」
掠れた声が零れて、張り付けた笑顔が剥がれていく。
ひどく懐かしい心地がした。何かが脳裏を掠め、けれどもそれは形になる前に消えていく。
それが靄となるのと同時に四季の言葉が蘇り、俯いた顔が本当の笑みを浮かべた。言葉にされただけで驚くほどに安心する自分が情けない。
「ほら、じゃあ行きましょ。私、商店街ぶらぶらしたいです」
再び歩き出した秋ちゃんについて行くために小走りに追い付く。
秋ちゃんの横で無意味な話をしながら、彼女が嫌な素振りもせずに相槌を打つのを見ながら秋ちゃんが欲しい、と。
僕の胸に再び落ちた感情は、最初に秋ちゃんに会って感じた浮足立つ幸福ではなく、もっとまとわりつくような感情に近い。
この世界に喪失者がいる。それは世界を顕著に示し出す。
この世界に必要な人間なんていない。個人が必要とするのは他人であって、個人ではない。確かに人は一人で生きていけないだろう。しかしそれは、誰かが必要なだけであって、個人が欲しい訳ではない。
特別この人が好きという感情が存在することは認める。僕は秋ちゃんに恋しているのだろう。どうしようもないくらいに、彼女を自分のものにしたい。触れたい。抱き締めたい。構われたい。必要としている。
しかし秋ちゃんがいなかったつい最近まで僕は生きてきたし、『普通』に生きていけると分かっていた。別に秋ちゃんに会わなかったとしても僕の日常は続いていただろう。
残酷だ、と思う。
彼女は僕と同じではない、理解はしてもらえても共有はできない。この数日で、悟った。悟っても、恋をした。一目見た瞬間から、この子の側にいたいと思った。けれど側に堂々といられるだけの何かを僕は持っていない。彼女の眩しさに憧れてその光にあやかりたいと思っているだけではないのだろうか。秋ちゃんでなくても、同じように僕に利益がある人間なら僕は好きになるのではないだろうか。
果たして誰がそれを否定できるというのか。
それでも、彼女が欲しいと、それだけはとてつもなく純粋な感情として、僕は思った。
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