fragment:26 ドロップハウス

 雨の日は忙しい。部屋干しの洗濯物をかき分け、支度を整える。たくさんのタオルとおやつを抱えて縁側に行き、クッションに腰かける。この家の庇は大きくて、雨戸を立てなくても濡れない。でも少し冷えるから熱いお茶もポットに詰めた。あとは待つだけだ。来ても来なくても、どちらでも構わない。だけどいつ来てもいいように、準備を整えておく。だから雨の日は忙しい。けれど、のんびりしている。


 ぴぴ、と小さな声で本から顔を上げる。庭の梅の木に小鳥が留まっていた。

「おいで」

 声をかけると、差し出したタオルめがけてまっすぐに飛んできた。ほうじ茶みたいなあたたかい色の羽がすっかり濡れている。水滴を拭ってから、温めるようにしばらく包む。小鳥はまんまるの黒い目を閉じてじっとしていた。このあいだより、少し体が大きくなったように思う。もうすぐ小鳥も卒業だ。おやつの雑穀を手のひらに出すと嬉しそうに食べる。お腹が空いていたところに雨が降り出したのかもしれない。おかわりをくれと言うよにくちばしで軽くつついてきて、くすぐったい。もうすぐ、食事も上手に取れるようになるだろう。

「でも、いつ来てもいいからね」

 小鳥はぴい、と小さく鳴いて答えた。


 雨音が庭の輪郭を鳴らす。そこに、そっと草を踏む音が混じって目を開いた。新しいタオルを取って、床に広げる。ちょうど踏み石から一歩上がったところだ。足跡は可愛いけれど、汚れるのは困る。なのでそんな習慣がついた。

「おいで」

 それを待っていたように、猫はこちらへ近づいてきた。キジトラの毛皮から水が滴る。むやみに体を揺さぶったりせず、まずはタオルのうえにぺたりと座ってこちらを見る。すかさず頭から包み込んで拭く。ごろごろと喉を鳴らすのがタオル越しに聞こえる。ひと通り水分を取り除いてから、ようやく身震いする。そばで様子を眺めていた小鳥に気づくと鼻先で挨拶した。最初に顔を合わせて以来、手を出すそぶりは一向に見せない。今日も優雅に煮干しを齧りながら、背中に小鳥を歩かせている。

「賢いね、おまえは」

 猫はゆっくりまばたきして答えた。


丸くなった猫の腹に埋もれるようにして小鳥が眠っている。お茶をもう一杯マグに注ぐ。雨はまだ降っている。


 くうん、と鼻を鳴らす客は記憶にない。読書を切り上げて庭を見渡した。

庭の端に白いものが座っている。垂れた耳も毛皮もずぶ濡れだった。

「おいで」

 タオルを束で掴み、庭へ降りる。犬はしょんぼりと尾を垂らしたまま歩いてきた。首輪にはリードが繋がったままだ。散歩中に逃げ出してしまったのだろう。そうしていつの間にか知らないところへ来てしまい、雨が降ってきた。そんなところか。頭からわしわしと拭いてやる。綺麗な毛並みだ。大事にされているに違いない。ざっと拭き終わったところで離れると、仕上げとばかりにぶるぶるっと震えた。縁側に上げると慎ましく隅に行き、顎を床につける。

「心配ないよ、すぐ会える」

 疲れた横顔はふうっとため息をついた。


 ハルがいなくなった。

 ぼくがうっかり、リードを離してしまったからだ。いつもの散歩道で、急に飛び出してきた自転車にびっくりして、走っていってしまった。どこを探してもいない。走り回っているうちに知らないところまで来ていた。寒くてさびしくて、どうしたらいいかわからなくなった。そうしたら、大きな庭が見えた。

 青い屋根の、古い家だった。庭に木が生えていた。おばあちゃんちで似た木を見た。多分、梅の木だ。縁側に誰かがいるみたいで、ぼくはふらふらとそっちへ歩いていった。門をそっとくぐると、わんわん、と大きな声が聞こえた。ハルの声だった。庭の真ん中で、ぼくを見てしっぽを振っている。縁側にはやっぱり人がいて、ぼくを見て少し驚いた顔をしてから、にこっと笑った。

「おいで」

 お茶はあたたかくて美味しかった。ハルはすっかり安心して、ぼくの膝に顎を乗せている。濡れてしまった靴と靴下は、ストーブのそばに干してもらった。裸足の指をぎゅっと開いて閉じる。

「すぐ迎えに来てくれるって」

 その人は――マコさんは電話を終えて戻ってきた。ぼくの名前と家の電話番号だけを尋ねて、何があったとか、そういうことは全然聞かなかった。

「ごめんなさい」

 ぼくがそう言うと、何か四角いものをぼくに差し出した。受け取るとからから音がする。ドロップの缶だった。

「こんなものしかなかったけど」

 蓋を開けると真っ白な粒が出てきた。ハッカ味だった。ぼくの一番好きな味だ。みんなは変って言うけど、マコさんはそうじゃない気がした。

「ぼく、これが一番好きです」

 マコさんは白いドロップを見て、やっぱりにこっと笑った。

「そう。よかったね」

 ハルはすうすう寝息を立てて眠っている。猫と小さな鳥がハルにくっついて一緒に寝ている。ハッカのドロップを舐めながらお茶を飲むと不思議な味がして、でもぼくはそれが好きだと思った。


 車で来てくれたお母さんは、マコさんに何度も頭を下げた。マコさんは丁寧に返事をして、干していた靴と靴下を持ってきてくれた。ぼくは、お母さんに聞こえないようにマコさんに話しかけた。

「また来てもいいですか」

 マコさんは少し考えるような仕草をして、ぼくではなくハルに話しかけた。

「道は覚えた?」

 ハルはしっぽを振って、マコさんをまっすぐ見た。もちろんです、と言ってるみたいだった。

「じゃあ、次は二人で一緒にね」

 そう言って頭を撫でてくれた。お茶みたいにあたたかい手だった。


 洗濯機が回っている。うちにあるのは高いやつだから、タオルはやわらかく仕上がる。ふわっとしていて、雨をよく吸う。

 小鳥と猫は二人を見送ってから昼寝の続きを始めた。ポットに残ったお茶を飲むと、ふうっと深い息が漏れた。本の続きより、今は昼寝がいい。頭にクッションをあてがって横になる。

 水滴の落ちる音がする。雨は多分、もうしばらく降る。

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