違う世界
しんとした理科室で、私と
「資料集、忘れちゃって……」
弁解するように呟いてみる。
御手洗君は無表情で、相変わらず無言のまま、再び顕微鏡を覗きこみ始めた。
何、その反応。
帰りたいのに、帰るタイミングを失ってしまう。資料集を鞄にしまいながら、私は横目で彼の姿を窺う。
御手洗君は顕微鏡を覗きながら、何やらノートに書き込んでいるようだ。
……何だろう?
好奇心を抑えられず、何も言われないのをいいことに、私はそっと彼に近づき、横からノートを覗きこんだ。
「ぷっ……」
思わず、笑い声が漏れた。
そこには、下手くそなスケッチが描かれていた。
ふにゃふにゃした雲形の中に、歪んだ大小の丸が浮かぶ。正体不明の宇宙人みたい。
顔を上げた御手洗君は、心なしかムッとした表情に見えた。
「ごめん」
慌てて謝る。何やってるんだろ、私。
「何、見てるの?」
取り繕うような質問が口をつき、尚更焦る。突然、御手洗君が無言で椅子から立ち上がった。一歩脇にどき、そのままじっと動かない。
……もしかして、覗いてみろってこと?
まるで誰かに操られているように、さっきまで彼が座っていた丸椅子に腰掛ける。目の前には、顕微鏡と謎のノート。
喋るウサギが飛び込んだ穴を覗きこむ、アリスの気分。
アリスはどんな気持ちで、不思議な世界に飛び込んでいったんだろう?
顕微鏡を覗く。
途端、目の前に全く違う世界が飛び込んできた。
何、これ。
私は息を呑む。
「オオアメーバ」
御手洗君が呟いた。
低い、少し掠れた声。
真っ白な光に照らされて、アメーバの透き通る体が煌めく。
ゆっくりと、体の中を顆粒が流れてゆく。サイダーの泡みたい。原形質流動。授業で習った単語が頭を掠める。
流れに伴い少しずつ体の形が変わり、一部が突き出して仮足となる。気付けば、アメーバは体ごと移動していた。
音の無い世界の中で、アメーバはきらきらと輝き、躍動する。紛れもなく、生きている。
教科書で見た写真とは、全然違う。
生きて、動いているのを初めて見たから?
顕微鏡から目を離す。
何もいないように見える、プレパラート。この中に、さっきの世界があるんだ。
私は傍に置かれた鉛筆を手にとり、御手洗君のノートだということも忘れて、スケッチを始めた。
壊れそうに儚い、けれど力強く存在するこの世界を、自分の中に繋ぎ止めたかった。今ここで描かないと幻になってしまう気がして、一心に描いた。
「……できた」
御手洗君がノートを覗きこむ。
そこには、私のアメーバがいる。流れる原形質、変化しようとする一瞬を捉えた。
「遠矢さん、スケッチ上手いね」
ふと我に返った。
「私の名前、知ってたの?」
御手洗君は頷く。何でもないことみたいに言った。
「とおや。響きが、きれいだから」
響きが、きれい。
私は瞬きする。
そんなことを言われたのは、初めてだ。
「みたらい、だってキレイな響きだと思うけど」
素直にそう言ったのに、御手洗君の顔が少し曇った。
教室の風景を思い出す。便所、とはやし立てていた男子達。
……自分の名字、あんまり好きじゃないんだろうな。
「御手洗って、神社でお参りする前に、口や手を洗い清める場所のこと」
御手洗君は、ぽつりと言った。
神さまに祈りを捧げるために、自分を清める場所。やっぱり、キレイな言葉だと思った。
「だから……」
言わない言葉の先が、伝わるような気がした。
今は、まだ。
でも、いつか、きっと。
「じゃあ、何て呼ばれたいの?」
少し間が空いて、答が返ってきた。
「
私は頷く。
「真、だね」
言ってから、男子を呼び捨てにしてしまったことに気付いた。
でも、真はそのまま真って呼ばれたいんじゃないかと思ったのだ。
かなり親しくないと男女で名前呼びはしないとか、そういう暗黙のルールは、この人には無いんだろうなと感じた。
ふと、当初の疑問を思い出す。
「なんで理科室にいるの?」
「理科部だから」
「理科部!?」
そんな部活、あったっけ。考えてみたけど、同級生で理科部の人は思い当たらない。
「他の部員は?」
「前の3年生が卒業したから、僕だけ」
「……やりたい放題だね」
真が後輩を勧誘するとは思えない。このまま廃部になるんじゃないかと思ったけど、真は気にする風でもない。
「いつも顕微鏡、見てるの?」
真はこくりと頷く。
「イヤなこと、忘れられるから」
私は声が詰まった。
イヤなこと。
教室の真は無表情で、無言のまま。
でも、心は何も感じてない訳じゃない。
「……そうだね」
私も頷く。顕微鏡の中は、透明で煌めいて、別世界みたいだった。いつまでも眺めていられそうだった。
静けさを破って、不意に学校のチャイムが鳴りだした。気付けば、時計の針はずいぶん進んでいる。現実に引き戻され、私は慌てて自分の席に戻り、鞄を手にとった。
「もう帰らなきゃ」
真は無言で再び丸椅子に座り、私は通路を進む。理科室は再び静まり返り、私をゆっくりと押し出していく。外へ続く扉に手をかけ、振り返った。真は顕微鏡の傍らで、まだ私を見ていた。勇気を出して、言ってみる。
「また、来てもいい?」
無言のまま、真の頭が上下する。
私は笑って、手を振った。
扉を閉める。
瞬きした。
さっきと同じ教室、同じ校舎。
それなのに、全然違って見える。
初めて見た、違う世界だった。
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