顕微鏡

プラナリア

教室

 頬を撫でる風にそっと瞳を開けると、大きな窓が視界に入った。

 教室には、午後の気怠い日差しが差し込んでいる。クリーム色のカーテンが、開け放った窓から吹く風に、ふわりと膨らむ。


 ……いつの間にか、寝ちゃってたんだなぁ。


 黒板には整然と文字が並び、先生の淡々とした声が響き続けている。

 私は頬杖をついた。果てしない繰り返しに思える日々。けれど、いつか終止符は打たれる訳で。


 いつか遠い未来のが振り返った時、今の私はどう映るんだろう。


 風に揺れるカーテン。窓越しに見える、遥かな青空。中学2年生の私の、いつもの景色。

 大人になっても、こんな風景ばかり覚えているような気がした。


 今回の席替えで、窓際二列目、前から二番目が私の席になった。

 去年の担任はくじ引きで席替えをしていたけれど、今年の担任はあらかじめ班のメンバーを決め、席替えをしている。

 今回、ちょっと不思議な班になった。

 私の前の、空っぽの席を眺める。


 木原千津さんは、時々学校を休む。体が弱いと聞いたことはあるけれど、詳しいことは知らない。

 木原さんは、なんとなくウサギに似ていると思う。

 真っ白な肌。潤んだ瞳。か細い声。

 こどもの頃、動物園で抱いたウサギは、私の腕の中で体を強張らせ、微かに震えていた。

 木原さんを見ていると、あの日のウサギを思い出す。


 それから。


 私は視線を隣に移す。

 御手洗みたらい君は、いつも通りの無表情で黒板を見つめている。

 ボサボサの前髪に、黒縁眼鏡。長身を隠すように折り曲げられた背中。

 もう6月の終わりだけど、御手洗君が誰かと喋っているところを見たことが無い。御手洗君の周りだけ、見えない分厚い壁で閉ざされているみたい。

 授業で指されれば、答える。でも、それ以外は沈黙している。

 成績は抜群にいい。彼の場合はそれが盾になって、クラスで表立って攻撃されることは無い。少なくとも、今のところは。

 でも、たまに一部の男子から、「便所くん」なんてからかわれているのを見たことがある。

 御手洗くんは、相手に何もしていないのだけれど。

 御手洗くんの存在自体が、相手にとっては異質なのだろう。

 確かに、教室の中でここだけ空気がちょっと違うみたいで、なんだか落ち着かない。


 教室。

 この大きな学校で、ひとつひとつの教室に、同じ年齢の同じ制服を着た同じような人達が詰め込まれ、一斉に授業を受けている。


 この閉塞感は、何事だろう。


 バランス、バランス。

 バランス崩せば、落っこちる。



 次は理科だ。理科室に移動しようと席を立つと、尚子なおこと、まやちゃんが傍にやって来た。

 「泉! さっき寝てたでしょ」

 尚子が私に飛びつき、肩を小突く。

 「泉ちゃんだけじゃないよ、皆だよ。尚子も寝そうだったじゃない」

 まやちゃんが、ふわりと笑う。首を傾げた拍子に、長い三つ編みが一緒に揺れる。

 「私は辛うじて耐えたもん」

 「でも、何度もガクッてなってたよ。可笑しかった」

 二人のやりとりに、私も笑う。

 尚子とまやちゃんは、幼馴染なのだという。二人とも、2年生になって同じクラスになり、仲良くなった。

 ショートカットで、屈託なく笑う尚子はバレー部。おっとりしたまやちゃんは、吹奏楽部。タイプが違う2人は、私の名前もそれぞれに呼ぶ。

 私は中学になって、苗字から「遠矢っち」とか、名前から「いずみん」とか呼ばれるようになったけど、なんだか違和感を感じてしまう。そう呼ぶのは大抵、普段やりとりの無い子達だ。耳慣れない呼称に笑顔で頷く私は、ちゃんと笑えているのかなと思う。

 この二人に名前を呼ばれるのは、好きだ。

 泉、と呼ぶ尚子の真っ直ぐさ。

 泉ちゃん、と呼ぶまやちゃんの柔らかさ。


 ホームルームが終わると、教室から解放された皆は、それぞれの場所に散らばっていった。

 私は部活に行く尚子やまやちゃんと別れ、校舎の別棟に向かった。帰りに自分の机を覗き、理科の資料集が無いのに気付いたのだ。どうやら理科室に忘れてきたらしい。面倒だけれど、今日のうちに回収しないと余計に面倒だ。足早に校舎から去っていく皆と逆方向に歩いていると、自分が透明人間になったような気がした。

 放課後は、自由な時間だ。

 1年の時、美術部に入ったけれど、部活内で揉めて辞めてしまった。同じ美術部の同級生達と、気まずくなったのだ。

 仲の良かった友達が辞めると言い出した時、私も辞めてしまった。その子とは、今は話さなくなった。

 今更、また美術部に入ろうとは思わないけれど。

 本当は、絵を描くの、好きだったんだけどな。


 理科室がある辺りは校舎の外れで、しんと静まり返っていた。グラウンドから遠く響く、野球部の声。廊下の窓から差し込む、淡い光。静けさを破りたくなくて、私は足音を忍ばせて廊下を歩く。

 理科室の扉に、そっと手をかける。軋む音が思いの外響いて、思わず身がすくんだ。そそくさと室内に入ってから、鍵が閉まっていないことに気付いた。先生、閉め忘れたのかな?

 授業中座っていた席へ行き、机の中を覗くと、そこに資料集はあった。手に取って入口に向かおうとした時、背後で小さな物音がした。

 振り向いた私は思わず声を上げそうになり、口を押さえた。


 理科室の一番後ろの席に、御手洗君がいた。彼の手元にはなぜか、顕微鏡があった。御手洗君は一心に、顕微鏡を覗きこんでいた。まるでお祈りでもしているかのような、敬虔な横顔。彼の周りだけ、空気が違う。どこまでも透き通った、静謐な世界。教室で感じる違和感は無く、ここが彼本来の世界なのだと、私は気付いた。私の方が、異質な侵入者だ。

 立ち去ろうと思った瞬間、御手洗君が顔を上げた。

 初めて見た彼の瞳はまっすぐで、深い森のような静けさに満ちていた。










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