第6話 第1問
そこは、何の変哲もない放課後の教室だった。
少し曲がった机の列、後ろに引いたまま放置された椅子、掃除され切ってない隅の埃、無駄に綺麗な黒板、前方のカーテンだけがまとまっていないところなど、俺が最後に教室を出た様子から一切の変化もない。異常と言ったら、先ほど落ちた暗幕と電源の入ったラジカセが教卓の上に置かれていることくらいだ。ラジカセについては正直気にしていなかったので、電源が消えていたかそうでないかも分からない。つまり、暗幕以外に非日常が存在しないのだ。
普段なら何だつまらんとがっかりしている。ただの悪戯だと割り切って自分の机に座り、落ち行く夕日を見ながら時間を潰しているだろう。あの張り紙さえなければ。
「どういうこと? 何で、何もないの? 流石にこれは——」
七海は顎に手を当てて考え込む。先ほどの俺ならば見とれていたのだろうが、今ではその様子が憎らしく見える。
だが、今そんなことを考えている暇はない。これでは、何も進まない。
無駄だと分かりながらもう一度見回す。やはり他に異常は見つからない。
流石にこれは——普通過ぎる。見慣れない暗幕と意味深な張り紙と不気味な開錠音。それに比べて、教室内の様子がいつもと変わらないというのは違和感がある。せめて、誰かいなければ理解も納得もできない。どこにささやかなプレゼントがあるのだろうか。
俺が考え込んでいると、何かしら思いついたようで不意に七海が顔を上げてこちらを見上げる。
「ねえ」
「何だよ」
「ここは、君の——式場君の教室だったよね? 君の机はどこにある? もしかしたらそこに何か——」
突然、ラジカセからノイズ音が流れる。そして、機械音声で作ったような歪な音が流れる。ボイスチェンジャーか何かを用いて加工されたようだ。
『あはは、ごめんねー。実は、時間がなくてね。この教室には特に何も手を加えてはいないのさ。ただし、次の場所を示した問題をどこかに隠してるよ。と言っても、もしかしたらホームズ辺りがもう見つけちゃったかな? ——まあ、いいさ。次はそこに来てくれ。次こそはもっと楽しませてあげるよ』
カセットはそこまでだったようでラジカセは小さなノイズすら発することはなくなった。あのラジカセは、仙鬼会が設置したものだったようだ。それならば、あのカセットを巻き戻してみると、何か残っているかもしれない。
そう思った俺は、カセットを巻き戻し最初から再生する。すると約三十秒、無音が続き突然ガチャと音がしたと思ったら再び無音に戻った。もしかして、先ほどの開錠音はこのラジカセから——?
それを聞いた七海は、はっと何かに気付いたように暗幕へと駆け寄る。
俺も彼女と同様に暗幕に近づくと、あることに気付いた。
暗幕を吊っていた紐が見つからないことに。
「紐がない? 勝手に浮いていたって言うのか、まさか」
「ねえ、それ本気で言ってる? 上見てみなよ」
そう言って、彼女は上方の壁を指差す。
そこには白く小さな釘が何本も刺さっていた。色が壁と同化し気付かなかったようだ。これに紐を引っ掛けて吊っていたのか。それでも紐が消える理由がない。 ……暗幕を直接引っ掛ける? いや、流石に無茶か。そんなことをすれば暗幕のどこかに跡が残るはずだ。まさか、自動的に紐が消えたってのか。
俺は思わず天井を仰ぐ。よく考えると推理は俺の領分ではない。
「——だめだ、意味が分からん。どういうことだ?」
「あの釘をちゃんと見なさい」
「はあ?」
目を凝らして釘をよく観察する。と言っても、白い釘の何を見れば……いや、待て。あれは、白いんじゃなくて何かがまとわりついているんだ。白い、紙——のようなものが釘全体にぴったりとまとわりついている。思い切り背伸びをし、触ってみると微かに濡れていた。ティッシュか? いやこれは——。
暗幕の方もしっかりと観察してみると、やはりこちらにも何かついている。もちろんこちらも微かに湿っている。
「——なるほどな。トイレットペーパーか。水を多分に含ませることによって、トイレットペーパーを溶かし自動的に落ちるようにしたのか。だけど、そんなのでこのサイズの暗幕が吊れていたとはな」
「おそらく吊れるのは一瞬でよかったのよ。私たちが教室の前に来て、あの文章を読み終えるまで。もしかしたら、私たちがこの教室に入ると同時に出ていったのかもしれない。入る直前に水鉄砲か何かで濡らす。すると一部の紐が切れ、耐えられなくなった他の紐も切れ落下。そんなところでしょうね」
「なるほどなぁ」
あんな紙切れで暗幕が吊れるとはにわかには信じられないが、ここまで証拠があるのであればそうなのであろう。それでも違和感は拭い切れないが、信じるほかない。それに、今これは重要なことではないわけだし、実際どうだったかはどうでもいい。
もっともらしい推理に感心したように七海の方を向くと、眉を顰めこちらに呆れたような目線を向けていることに気が付いた。
「…………何だよ」
「……君、本当にモリアーティなんて呼ばれてたの? こんなことも分からないなんて。随分過大評価されてたみたいだね」
「……うるせえな。俺だって呼ばれたくてそう呼ばれてたわけじゃねえよ」
七海をにらみながら俺はそう言った。
誰が好き好んで悪役の名前で呼ばれたがるだろうか。どうせ呼ばれるのなら俺だって——
瞬間、嫌な記憶が脳裏を駆け巡る。それはもう記憶も定かではないほど昔の記憶。幼い俺にかけられた言葉。俺の生き方を勝手に決めた言葉。既にそれは呪いとなって俺の中に息づいていた。
うるさい、しつこい、黙ってろ。
七海から視線を外し、嫌な記憶を無理矢理抑え込む。
それでも、記憶の波はとどまることを知らず、無意識の底から無尽蔵に溢れ出す。
『悠人はさ——』
お前に何が分かる。俺の何がお前に分かるってんだ。
『是が非でも——はやりたくないというのなら』
分かってる。聞き飽きた。だから——
『——を殺すしかないんじゃない?』
だから——引っ込んでろ! そんなのはてめえが決めることじゃねえ!
再生を終えた記憶の波は、再び無意識の底へと帰っていく。
「……急に黙りこくちゃって。何? 言いたいことがあるならさっさと言えば?」
口調は挑発的だが、声音は先ほどより柔らくなっている。どうやら俺のことを心配しているようだ。
七海に心配されていることが屈辱に感じた俺は、こちらを覗き込む彼女を無視し自らの机へと向かった。彼女もぶつくさ言いながら俺の後に続いた。
机の中に手を入れてささやかなプレゼントとやらを探す。幸い、俺は置き勉はしない主義なので、件のブツはすぐに見つかった。
「これだな……何だ。紙ぺら一枚か」
「そのようだね」
それは、A4片面一枚だけだった。その紙を机の上に広げ、二人で覗き込むように見る。そこにはこう書かれていた。
『学校内で生徒が一人殺害された。容疑者はこの四人だ。この中に一人犯人がいる。君たちにはその犯人を見つけてほしい。しかし、この中に一人だけ嘘を吐いている者がいる。気を付けてくれたまえ。
音楽室「僕は人を殺してないよ」
美術室「私はしかと見たわ! 家庭科室が人を殺すところを!」
理科室「美術室か家庭科室は嘘つきだ。気を付けた方がいい」
家庭科室「どうせ図書室が殺したのよ、知らないけど」
図書室「僕が犯人だよ。……冗談さ。音楽室は嘘つきじゃないよ」』
「どうやらただの論理パズルのようだな」
あそこまで演出しといて肝心のプレゼントはただのパズルか。少しがっかりだな。まあ、あいつらの言葉通りならここはあくまで第一問でこの後も問題は続くようだから、最初はこんなもんか。
問題文を読むとどうやら嘘をついたやつが一人いる、と。このパターンは一人を嘘つきと仮定して——。
「解こうとしても無理よ。これだけじゃあ、犯人は分からないから」
考え始めようとした瞬間に、隣から茶々が入る。
「まさか、そんなことはないだろ……」
「信じられないなら、自分でやってみるといいよ」
むきになった俺は、一からパズルを解き始めた。
理科室の発言が嘘だと家庭科室と図書館が矛盾するからこれは本当。だから美術室か家庭科室が嘘つきであることが分かる。家庭科室が嘘を吐いていると考えると、家庭科室と図書室が犯人となり問題文と矛盾する。つまり——
「美術室が嘘つき、で止まっちゃうでしょ。これじゃあ、犯人なんて導き出せない。この
ままじゃあ答えは出な——」
「何だ。答え、出てんじゃねえか。全く紛らわしいこと言いやがって」
「…………………はい?」
こいつやっぱり馬鹿ねとでも言わんばかりの顔を向けてくる七海。お前は単純、いや、素直過ぎだ。
「どう見たって、犯人、美術室じゃねえか」
「ちょっと待って! 美術室は嘘つきってだけで犯人じゃ……!」
「こんな状況で犯人以外が嘘を吐く理由は何だ? まさか嘘つきと犯人が違うとでも思ったか? そりゃ偏見てか決めつけ過ぎだ。じゃあ、美術室が嘘を吐いているだけだとして、誰が犯人たり得る?」
「たとえば図書館とか——」
七海は思わず言いよどむ。それでは、問題文と矛盾することが明らかだからだ。
「てことは図書館も嘘つきか? そりゃあ、うまくねえな——間違ってるところで、こいつ以外に怪しい奴がいない。たったそれだけのことで犯人として可能性が一番高くなるんだよ」
「でも……!」
何やら反論がありそうだが、どうやら俺を言い負かす論理が思いつかないらしい。七海は悔しそうに眉を寄せ下唇を噛んでいる。
確かに美術室がやったという証拠はない。物的だろうが、状況的だろうが、もちろん人的だろうが。だから、いくらでも反証可能性はある。僕がやったというやつが出てきただけで、結論は反転する。だが、反証を待っている時間はないし、一々反証を待ってやる義理もない。
一つの嘘で転落人生。そんなこと世の中にはざらにある。これはそのうちの一つだっただけだ。
まだ何か言いたげな七海を尻目に、俺は出口へと向かう。
「さあ、さっさと行くぞ。何問あるか分かんねえんだ。急がねえと時間が無くなるかもしれない」
キッときつい視線を後ろから向けられる。
「何よ、そんな決めつけて! 何でそんな簡単に決められるのよ! そんなどうでもいいみたいな態度で……! そんなんだからあんたは——」
七海は何か言いかけて——途中でやめる。
「次からはあんたが決めつける前に、私が反論の余地のない真実を見つけ出してあんたの鼻っ面にたたきつけてやる! 次からはあんたは口を出さなくていい! 私一人で十分よ!」
それだけ言うと大股でずかずかと先を歩いて行ってしまう。
その後ろ姿を見ながら、さきのこいつの発言を反芻する。
『そんなんだからあんたは』。何だよ。こんな俺が何だって言うんだ。てめえが適当なこと言うかまた思い出しちまうだろうが。
また頭の中に誰かの声が響く。さっき頭を過った声——言葉と一文字も違わないその記憶が再度思い起こされる。
それは男の声ようで、でも女の声のようにも聞こえる。遠い過去だが、昨日のことよりも思い出せるほど痛烈な言葉。脳髄に刻み込まれた呪詛の記憶。
『悠人はさ、ヒーローにはなれないよ。だって、お前はそんな上等なやつじゃないだろう? そんなすごい奴じゃあないんだよお前は。精々、主人公を引き立てる悪役くらいがお似合いさ』
黙れ。もう顔も思い出せないような陰険野郎はさっさと忘却の彼方に消え去れ。鬱陶しいんだよ。
『でもね。もし、それでも——是が非でも悪役はやりたくないというのなら方法は一つだろ』
ああ、分かってるよ、しつこいな。子どもの頃からもう何年もお前に言われ続けたことだ。聞き飽きたぜ。痛いほど理解もしているし、苦しいが納得もしている。それにそんなこと——お前に言われるまでもねえよ。
『——主人公を殺すしかないんじゃない?』
ヒーローを殺して俺がヒーローになる。単純な話だ。覚悟は決まってる。七海をその座から突き落としてやる。そして、俺が——。
俺は視界から完全に消えた七海の後ろ姿を追った。
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