色彩のないモンマルトルの夜の雨
宝や。なんしい
言葉の力
「あのね」
「うん」
「あのね、佐伯部長」
「何?」
「部長がそこに立っておられると後ろの時計が見えないんです。そこ、どいていただけます?」
「え? ああ、すまない」
螺緒音は真面目な顔をして、いつもこんな風にして僕のことをからかう。
螺緒音は僕が中学生の頃、あまり馴染みの無い名前の外国から転校してきた、帰国子女の
きらきらと光る新緑の風が窓際の席に座る真魚の長い艶やかな髪を揺らす。
真魚は眠そうで眩しそうな長い睫毛の瞳をゆっくりと閉じたり開いたりしながら、校庭の向こうに見える深い森を眺めていた。
机に右手で頬杖をついて、細い血管が青く透けて見える華奢な顎を支えていた。彼女がどんなにだらしない格好をしていても、それはすべて計算され尽くしているかのような、完璧な造形を見ているようだった。
それを恋と呼ぶにはあまりにも気高くて、ガキで稚拙な僕なんかにはとても手に負えるようなシロモノではなかった。
自分がこれほどまでに軽薄でみすぼらしく感じてしまうほど、高尚な彼女の与える僕への劣等感はひどいものだったのだ。
だから螺緒音が、ここへ配属されて僕の部下になってからというもの、とても平常心ではいられなくなってしまった。顔や声はまったく違うけれど、時々真魚がそこに立っているんじゃないかと思うくらい、纏う雰囲気がそっくりで。僕と螺緒音は十九歳も歳が離れているというのに、僕は自分の歳をすっかり忘れて、あの頃のように、ひどくドギマギしながら螺緒音に接してしまうんだ。
螺緒音が僕に対してどのような気持ちを持ち合わせているのかは分からない。いつも貫くような真っ直ぐな瞳が僕を串刺しにしていることを、彼女は気づいているのかそうでないのか。しかし彼女にようやく触れることができるようになったのは、やはり酒の力を借りるしか凡人の僕には出来なかった。
あの日、したたかに飲んでひどく酔っぱらったふりをして、彼女を抱きしめた。螺緒音は何も言わず、拒まず僕に身体を委ねていた。すべすべした白く透き通る肌は石膏の像のようだった。表面はしっとりとして、とても生きているとは思えないほど、冷たかった。
僕はみっともなく震えていたのじゃなかっただろうか。
暗い、全面が打ちっ放しのコンクリートの壁の、落ち着いた雰囲気のホテルの一室で、僕たちは愛し合った。煙草のくすんだ匂いを纏わせて、僕は深い深い意識の中に決して消滅することのない真魚の影を抱いていた。
螺緒音は素っ裸のまま、ホテルの小さな窓から音の無い雨の落ちる人通りの少ない暗い街角を見つめながら、静かに言った。
「あのね」
「雨の匂いが好き」
抱きしめても抱きしめても、螺緒音が、真魚が、どんどん離れていってしまうような不安に襲われていた。蒼い海の底に、ずぶずぶと沈んでいく。光は失われ重力のない空間で、漂いながら、何か大きな悲しみに包まれていくのを感じていた。
螺緒音はユトリロが好きだと言った。「あのね」と前置きをして、まるで僕たちの関係のようだとも言った。僕には彼女の真意は分からない。果たして、破滅なんていとも容易いのだということを言いたかったのだろうか。
僕は不安だった。螺緒音のことを好きになればなるほど、もったいつけた「あのね」が怖かった。「あのね」の続きが怖かった。
「あのね、佐伯君」
真魚は逝ってしまう前日に、僕に何かを伝えようとしていた。
「うん。何?」
「…やっぱいいや。何でもない」
そう言って真魚は珍しく屈託のない笑顔をみせた。綺麗に並んだ真っ白い歯が僕を淫らな気持ちにさせた。また明日ね、と手を振って去っていった軽やかな肢体が僕の真魚への思いを綴る記録の、最終ページを飾ることになった。そして真魚は一四年の人生にあっさりと幕を降ろしてしまったのだ。暗くしとしと降る雨の夜。ひんやりとした雨の匂いが町中を包む静かな夜だった。
「あのね」
「あのね」
「あのね」
僕はあれからずっと待っている。あのね、の続きを。期待しつつも不安で押しつぶされそうになりながら、「あのね」、それから?
僕が螺緒音に恋をしたのは、「あのね」の続きを知りたかったからかも知れない。でも螺緒音は気づいている。僕が「あのね」の亡霊に取りつかれていることを。そして、知っていながら、僕をからかうんだ。
螺緒音は真魚の生まれ変わりなんだろうか?
そんな子供じみた馬鹿馬鹿しいことを真剣に考えながら、それでもこの恋に溺れていってしまう自分を冷静に見つめていた。もうどうしても後戻りできない。いくつもの「あのね」の続きを聞いても、僕は決して満足できないし、正解がこの世に存在しないことを知っているから。
酔いどれのユトリロの描いた狂ったデッサンの、さしずめあのホテルは、僕たちにとって色彩の乏しいモンマルトルの風景の中。
今夜も静かに雨が降る。
色彩のないモンマルトルの夜の雨 宝や。なんしい @tururun
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