第22話 夏の終わりに

「二宮君、美沙さん…」


いつも通り真奈美さんの補習が終わった帰り際、佐々木先生に呼び止められた。


「はい」


「はい?」


なんだろう、俺たちのほうにも用事があるのかな。


「いちおう確認なんだけど、夏休みの課題はちゃんとやっているわよね。あと一週間くらいしかないわよ」


ああ、そうか夏休みの課題か…。そうだよな。もう少しで夏休みも終わるんだよな。


「やってません」


「やってません」


正直者が二人。


「やりなさい」


職務に忠実な教師は一人。




 帰り道。駅のホーム。




 俺も美沙ちゃんも携帯を取り出す。俺は上野と橋本にメールを、美沙ちゃんは無駄なメールを送ろうとしている。


「美沙ちゃん、うちの妹は課題は一切やってない」


パケットを無駄遣いする必要はないことを教えてあげる。


「そうですか」


美沙ちゃんが携帯を閉じる。


 ブブブ…俺の携帯にメールの返信があった。


《二宮、写させてくれ》


ブブブ


《おまえやってるだろ。写させてくれ》


俺の送ったパケットも無駄遣いだった。


 課題って、どのくらいあったっけ…。けっこうな量が出ていた気がする。ちょっと気が遠くなった。


「…す?」


「え?真奈美さん、なに?もう一度言って」


真奈美さんを放置してた。いかんいかん。なんのための付き添いだ。


「わたし…課題…終わってるから…写す?」


友情篤い俺は、即座にハッピー橋本と上野にメールした。件名は『女神光臨』だ。


◆◆◆◆


 そして、二時間後。午後二時三〇分。家の居間に六人が集合していた。


 妹と美沙ちゃん。ハッピー橋本と上野に俺。そしてメシア様だ。


「「「真奈美さま!よろしくお願いします!」」」


ばっ!


 一糸乱れぬ一列横隊で、俺と橋本と上野がメシア様に頭を垂れる。


「…う…うん」


上野と橋本とは初対面だから、多少緊張しながらも真奈美さんがカバンを開ける。


 来た。


 輝かんばかりのお言葉が書かれた聖典が女神様から授けられる。


「おお…」


すごい。全部きっちり埋まっている。感涙にむせび泣きながら三人がうやうやしく神託を受ける。俺には英語と現代国語が、橋本には現代社会と古文が、上野には物理と化学と数学が授けられた。さぁ、写経タイムの始まりだ。


 学年の違う妹と美沙ちゃんには残念ながら授けられる聖典がない。二人はお勉強タイムだ。妹は成績がいいので、美沙ちゃんに教える予定だった。しかし、こいつの教え方は基本『教科書に、こう書いてあるから、こう書くっす』というだけで、まったく勉強になってない。事実、妹は教科書を丸暗記できる特殊能力だけで全教科を乗り切っているので、それしか教えようがないのもしかたないのだが、美沙ちゃんにして見れば詐欺もいいところだ。学年四位の秀才に教えてもらえると思っていたら、そいつは頭の中に教科書を全部しまっているだけのペテン師だったのだ。


「…あ、あのね。美沙…そ、そこ…」


と、思っていたら真奈美さんが美沙ちゃんに教え始めた。学校に行ってないはずなのに、ちゃんと教えている。


 実際、俺たちが写経しているご神託も豆粒みたいな字が多少読みづらいが、内容はすっきりはっきりしたもので実にちゃんとしている。おかしなところは一つもない。


「なぁ…英語の訳とか、これ丸写ししたらまずくないか?」


上野が言う。


「長文はまずいかもしれないな」


俺もそう思う。


「怒られるっすよ。実際、私、怒られたっす。つーか呼びだされたっす」


そういえば、コイツは一学期に丸写し罪で呼び出されていたな。


「英語長文のお話の日本語訳版を古本屋で見つけたっす。ちょーラッキーと思って、立ち読みして覚えて、そのまま書いたら呼びだされたっす。別に写したわけじゃないっすのに、丸写し言われたっす」


妹のチート記憶力は置いておくとして、問題はこの英語の長文訳をどうするかだ…。冗談じゃない。こんなものを真面目にやってられるか。かといって丸写しはまずい。さすがに、このくらいの長さになると書いた人の癖というものが出る。


「超訳しよう」


橋本が提案する。超訳とは、アカデミー出版がシドニィ・シェルダンの本の翻訳をするときに始めた、ちょっとソレはアレじゃないですかという翻訳の方法だ。第一段階として、なるべく正確に直訳する。その後、原文を一切に見ない別の訳者がとにかく読みやすい日本語にするのだ。


「それだ」


「それだな」


つまり、そういうことだ。英語の長文など読んでられるか。だが、真奈美さんの日本語訳なら読みやすい。しかも真奈美さんはとても几帳面に、かなりの直訳をしている。二つ以上の意味のある単語のいくつかは、括弧をつけて両方書いているほどだ。これを読んで、自分の日本語に訳すのだ。




 一時間で手が疲れた。シャーペンを持ちなれていないとこんなものだ。




「ちょっと休憩しようぜ」


「そうだな。飲み物もってくるよ」


「食い物もー」


上野、調子に乗るな。持ってくるけどさ。


「あ、私も手伝います」


美沙ちゃんが、ぱたぱたとかわいらしい足音とともについてきてくれる。無言で足音も立てずに、宙を浮く幽鬼のごとく真奈美さんもついてくる。


 飲み物は麦茶でいいとして…なにかお菓子あったかな。


 …あった。羊羹がまるごと一本。


「…それ…食べるの?」


「ん、まぁ、これしかないし…」


「…かして…」


羊羹を真奈美さんに渡す。真奈美さんはあちこちと戸棚を開けて、まな板と包丁と皿を人数分見つけ出すと、すいすいと羊羹を切り分けた。ぴったり十二等分して、一皿にふた切れずつの配分。まな板と包丁をささっと洗い、水気を取って元通りに片付ける。どうということはない作業だが、無駄のない動きだ。真奈美コーヒーのこともあるし、姉は料理が得意なはずですよという美沙ちゃんの言葉に間違いはないのかもしれない。


 麦茶と、羊羹を持って居間に戻ると、ダー○ベーダーがパツキン巨乳姉ちゃんを八つ裂きにしてた。当たり前だがゲームの話だ。プレイヤーで言うと、妹が橋本を叩きのめしていた。


「胸がでかけりゃえらいと思ってんじゃねーっすよーっ!死ねぇーっ!」


「……」


美沙ちゃんが可哀想な人を見る目で妹を見ている。正しいものの見方だ。でも、しかたないじゃないか美沙ちゃん。妹はAカップどころか、AAカップなんだから巨乳にコンプレックスがあるんだ。


「さぁ、次に死にたいやつはだれっすかー。前に出ろぉー」


妹、ノリノリだ。つくづくデスなセリフの好きなやつだな。


「よし」


上野がコントローラーを握る。


「あ、巨乳キャラ選ぶっすよー」


どうあっても巨乳を叩きのめしたい妹である。


「……お兄さんは、やっぱりあのくらいの大きさあったほうがいいですか?」


「えと…それは、胸ってこと?」


「ええ…まぁ…その…」


画面内では、三次元ポリゴンのゲームとはいえ現実にはちょっとお目にかからないサイズのそれを震わせながら戦っている。たしかに魅力的ではあるが、実際のところどうなんだろう。俺としては美沙ちゃんくらいが一番いい。


「どうかなぁ…」


集中力を乱したダー○ベーダーが見事にすっ飛ぶ。必殺技が決まって、ライフゲージは半分以下だ。


「…大きさは、あまり気にしないかな」


おっぱいは大きいのもいいし、小さいのもいい。どっちもいい。おっぱいは全てあまねく素敵なのだ。妹みたいにまったくないのは可哀想だが。


「…そうですか」


美沙ちゃんは間違っても小さくない。ゲームキャラみたいな爆乳じゃないけど。


「つまり、にーくんは形を重視すると言ってるっすー」


《そうだな》《その通りだ、形が重要だ》


橋本、上野…テレパシーで同意しないで言葉にしてくれ。このままでは俺だけが美沙ちゃんの前でスケベ男に認定されてしまう。お前ら、自分だけいい子になるとはどういう了見だ。


《対応しづらい話題に俺たちを巻き込むな》《お前一人で死ね》


「な、なぁ、ハッピー橋本。お、お前はどっち派よ?きょ、巨乳派?」


逃がさん。


「橋本さんには聞いてません」


美沙ちゃんがばっさり斬って捨てる。たまにそういうことするよね、美沙ちゃんって…。


「つまり、お兄さんはあれですか。女の子の胸を見るだけ見ておいて、形が気に入らないと『好みじゃない』とか切り捨てちゃう種類のアレなんですか?」


そんなわけないだろ。美沙ちゃん。ひどい誤解だよ。


「そうだぞ。二宮は、そういうやつだ」


「そのとおり二宮は、つねづねそう言ってる」


「にーくんは、そういうやつっすよ。美沙っち、間違ってもにーくんだけはやめておいたほうがいいっす!」


なっ…!なんという連係プレーだ!こいつら練習してたんじゃないか?


 今さら否定しても、ただの言い訳にしか聞こえない空気が一瞬で作られた。


「そうですか。やっぱり、お兄さんはそういう人だったんですね」


一人の人間の名誉が不当に踏みにじられた。


「それは、それとしてさ」


その信じがたいまでの人道に対する罪を上野が一言で隠蔽する。この時点で、俺の名誉回復の機会は永遠に失われたのだった。


「真奈美さんはゲームとかやんねーの?次、やる?」


「…そ、そういうのはあんまり…」


「そっかー。じゃあRPGとか?」


「ど、ドラクエはちょっとだけ…」


「ふーん」


「上野。今、お前、真奈美さんのことをライトゲーマーだと思っただろ」


バカめ。ナメんな。


「ちがうの?」


「真奈美さん、言ってやれ」


くいっ。


「…ほんとにちょっと…だから。ドラクエⅢを全部やったくらい…」


「最近のパーティの構成を、言ってやってくれないか?」


「…ゆ、勇者…」


「そりゃ、勇者は外せないだろ」


まだ、上野はわかってない。


「…だけ」


「だけ?」


「そ、そのまえは…あそびにんが…」


「あそびにん?」


「…三人…いたけど」


上野の顔に怯えの色が見える。


「…ゾーマ、弱すぎるから…ゆ、勇者だけにしたんだけど…まだ弱くてゾーマが…」


「うん。真奈美さん、ゾーマは弱くないよ。勇者が強すぎるんだと思う…」


真奈美さんはドラクエⅢを『全部』やってるんだよね。最後の1バイトも残さず楽しんでる。


「ってか、そろそろ課題やろうぜ」




 俺たちは、現実に帰った。




 真奈美さんのおかげで、夏休みを一週間残して残った課題は読書感想文だけになった。ハッピー橋本と上野と俺は、真奈美さんに誠心誠意のお礼を涙ながらに述べた。


◆◆◆◆


 翌日、学校の最寄り駅の改札。


「まだ来ないな」


携帯電話を見ると午前七時五十分だ。まだ到着するわけがない。今日は、また少し真奈美さんが一人で学校に向かう距離を伸ばしてみた。一人で駅まで行き、一人で電車に乗り、一人で学校の最寄り駅まで来るのだ。


 駅の改札で待つ。


 落ち着かない。やっぱりいつも通り、市瀬家の最寄り駅までは行ったほうが良かったかもしれない。電車だぞ。なにかがあって混雑したら他人とぐっと近づかなきゃいけない。途中で止まったりしたら、真奈美さんが他人に囲まれて一人でいることになる。


 電車がやってくる。人が降りてくる。夏休み期間とはいえ、朝はそれなりに勤め人が多い。真奈美さん。真奈美さん。来ないな。


 人の波が途切れる。


 携帯電話を見る。七時五十三分。まだ早いってば…。


 美沙ちゃんが、後をこっそりつけるとは言っていたけど、同じ電車に乗ったらさすがにばれるから、一本遅らせると言っていたな。美沙ちゃんにメールする。


《さっき、電車に乗ったと思いますよ》


との返信。そっか、無事電車には乗ったのか。次くらいかな。いや。そんなことないな。十二分くらいだっけ…。なんで俺、こんなに焦れているんだ。予定通りじゃないか。八時ちょっとすぎにこの駅に到着する電車に乗って、真奈美さんがやってきて学校までは一緒に行く。そういう予定だ。


 学校か…。真奈美さん、まさか電車で真奈美さんをいじめた相手と偶然に遭遇したりしないだろうな。そんなのと一人でいるときに遭遇したら、百パーセントもらすぞ。


 電車がやってくる。人が降りてくる。人波の中、目を皿のようにして真奈美さんを探す。来ない。来ない。真奈美さんは来ない。おかしいな。そうか、まだ五十八分の電車か。次だ。


 いーち、にー、さーん。


 秒をカウントしてみる。五分は三百秒…。先がなげぇよ。


 電車がやってくる。人が降りてくる。真奈美さんがいるはず。どこだ?人波が途切れる。


 あ。


 よたよたと、階段の手すりにすがりつくように降りてくるヤシガニスタイルを見つけた。小走りに走りよる。


 指先が真っ白に血の気が引いている。顔色は前髪で見えないから、そこを見るしかない。


「真奈美さん。大丈夫?」


むぎゅっ。


 予想通りの抱きつき。


 はぁ…はぁ…はぁ…はぁ…。


 真奈美さんの息遣いが粗い。しがみつく腕が小刻みに震えている。そっと背中に手を回してさする。よくやった。さすがは真奈美さんだ。あんなに、人波になるほどの沢山の他人が乗っている電車に一人で乗って、よくここまで来た。


 駅で真奈美さんに抱きつかれるのは恥かしいな。


 でも真奈美さんが感じた他人の視線の怖さに比べれたら、このくらい俺も我慢しないといけない。邪魔にならない柱の陰になる位置に移動。しばし、真奈美さんを落ち着かせることにした。このまま漏らされるとちょっと困るなと思う。


 次の電車が到着する。


 がやがやと人の通り抜ける音が気になる。我慢だ。


 真奈美さんの匂い。甘いようなふんわりした香り。体温。今日は、汗の匂いが混じっているな。脂汗もかいたかもしれない。


「お兄さん?なにしてるんです?」


気がつくと、美沙ちゃんが正面に来ていた。


 じとー。


 目が据わっている。いわゆるジト目だ。


「真奈美さんを落ち着かせてる」


「……」


「ほんとだって」


「…わかってます。お姉ちゃん!もう落ち着いた!?」


ぜんぜん分かってくれてない系の声音だ。


「…う、ん…」


真奈美さんが離れる。刹那に前髪の間から目が合う。切れ長の目が長いまつげ越しに…。


 どき…ん。


 真奈美さんとは言え、この距離で女の子と目が合うのは心臓に良くない。前髪で唇が見えないのが救いだ。


「っ!!ほらっ!早く離れて!駅だよ!ここ!」


美沙ちゃんの手が俺の襟元と真奈美さんの首の辺りを押さえて、べりっと引き離す。


 ぎろっ。


 なんで睨むの?今日の美沙ちゃんはご機嫌斜めだ。虫の居所の良くない日なのだろうか。女の子だしね。月に一度くらいあるかもしれない。


「じゃあ、学校行くよ!お姉ちゃん!」


「…うん」


久しぶりのアグレッシブ美沙ちゃんだ。真奈美さんの手を引いてぐいぐい行く。繋いでいるのは片手だけど、連行に近い。


◆◆◆◆


「じゃあ、佐々木先生お願いしますっ!」


教室に入って、佐々木先生に真奈美さんを預けるのもアグレッシブスタイルにて行われている。


「はい。じゃあ、またお昼にね」


くすくす。佐々木先生が笑う。


「お願いします…」


「いいわね。素敵な高校生活で…。同じ学校内にいるくせに私は蚊帳の外だわ」


一瞬だけ、つばめちゃんの表情。そしてすぐに佐々木先生に戻る。


 それにしても、夏休みの午前中全部真奈美さんの付き添いで学校に通うのは素敵な高校生活なんだろうか?美沙ちゃんと毎日会えるのは素敵だけど。


「なにしてるんですか!お兄さん!行きますよ!」


今日の美沙ちゃんは、本当にアグレッシブ美沙ちゃんだ。これ以上怒らせないように走って教室の出口に急ぐ。


 食堂に向かう道すがら、ご機嫌の傾斜角の計測を試みる。真横というわけではないが、四十五度に近い。これ以上、ご機嫌角度が傾くと自重で一気に真横に倒れかねない。


「み、美沙ちゃん。なにか飲む?」


食堂の自販機でご機嫌の建て直しを計る。


「いりません」


無理だった。


 ぎゅぱっ!


 一流のバスケットボールの選手のような速度で、美沙ちゃんがこっちを向く。スクリーンアウト。


「お兄さんはっ!…お、お兄さんは、なんでお姉ちゃんの背中に手まで回すんですか!」


うわっ。


 マジ怒りだ。


 土下座するべき?それとも、土下座するとスカートの中を覗こうとしているという疑惑を呼びかねない?どっちだ?


「スケベすぎます!変態です!お姉ちゃんの髪の匂いまで嗅ごうとしてましたよね!」


「…はい。してました」


俺は、素直な男子高校生。


「お兄さんはっ…!お兄さんは!ホントに、ホントに変態野郎です!スケベです!痴漢!犯罪者!」


ちょ…、いくらなんでも言われすぎじゃね?


 でも、真奈美さんの髪の匂いをかいだのは本当だしな。あと、汗の匂いがするとか思ったのは、たしかに変態っぽかったかもしれない。ただし痴漢と犯罪者よばわりには、まだ多少の反論の余地がある。それに美沙ちゃんは、お姉さんを取られるんじゃないかと思っているだけなんだから…。


「…わ、わかったって。悪かったよ。でも、真奈美さんを取ったりしないから、安心してくれ…」


「はぁっ!?」


うわっ。火に油だったか!?


「だれがお姉ちゃんのことなんて言いましたっ!?」


美沙ちゃんが言いました…と言ったら、火にニトロになる。黙る。ってか、もうすでに大炎上してて、どの消火活動も間に合わないんじゃなかろうか。もう燃え尽きるまで放っておくしかないのかな?俺、本当になにをしちゃったんだろう。


「気づいてないとでも思ってるんですか!?お兄さん、私に会ったときから、ちらちら私の胸に視線落としてましたよねっ!」


それか?


「ワンピース着てお兄さんに会ったときは襟元に視線落ちてたし!お兄さんは、おっぱい星雲からやってきた、おっぱい星人ですか!変態っ!十四万八千光年も遠くからご苦労なことですねっ!」


そっちで2コンボだったか?あと、後半が良くわからない。十四万八千光年は大マゼラン星雲イスカンダルだと思う。


「水着買いに行ったときは、明らかに動揺してましたよね!私が、試着して水着姿見せたときなんて目が完全に泳いでましたよねっ!ってか、目が溺れてましたよね!」


3コンボ。


 なるほど、燃料をじわじわ積み上げて火をつけてしまったのか…。女の子って難しいな。その都度、怒ってくれよ。


「一緒にプールに行こうって誘ったら、気持ち悪いくらいニヤけてたしっ!」


そんなのもあったか。結局、プールには行けなかったんだから、損しただけだ。なんてことだ。せめて美沙ちゃんの水着姿を拝ませてもらったんだったら、少しは納得できるんだけどな。


 うん。とにかく謝ろう。ごめんなさいは魔法の言葉だ。


「美沙ちゃん」


「…っ。な、なんですっ?」


「ごめん。もう、スケベな目で見たりしな…」


ぱぁんっ!


 左の頬に熱が走る。叩かれた?


「そ……っ!そ…んなこと言ってないっ!死んじゃえっ!」


美沙ちゃんは俺の横をすり抜けて、走って行ってしまった。


 追いかけて…は、いけないだろうな。今度はストーカー呼ばわりされる。


 ごめんなさいも言わせてもらえないとは、これはどうしたものかな。「死んじゃえ」が「リアル切腹で詫びるしかないんだよ」という意味じゃないといいな。


 ……。


 俺だって、落ち込むことはあるんだ。


◆◆◆◆


 当たり前だが、帰りは真奈美さんと二人だけになった。


 怪訝な顔をしながらも、佐々木先生はなにも言わない。言われても困る。俺だって、なにがなんだか分からないんだからさ。


「…美沙、怒ってた?」


真奈美さんが帰りの駅で尋ねてくる。真奈美さんも気になっていたか…。


「怒ってたな。俺が美沙ちゃんの胸ばかり見てると怒ってた。」


そこは分かる。スケベな目で美沙ちゃんの胸を見てたのは事実だ。というか、美沙ちゃんに会うたび『おお。今日も眼福。神様ありがとう』と思っていた。


「……胸、見られたのを怒ってたの?」


「怒ってたなぁ。激怒と言ってもいいくらい怒ってた」


「…そうなんだ」


電車がやってきて、乗り込む。相変わらず、どんなにシートが空いていても座らないヤシガニさん。お気に入りのポジションはドアの近くとたぶん椰子の木。椰子の木はないので、ドアの近くにポジションを取る。


 ドアのガラスに顔を押し付けて、外を見る。この電車、意外と速いよな。遠くを見るとそうでもないけど近くを見ると、はえー。会話はなくなっている。真奈美さんとの移動では別に珍しいことじゃない。むしろ真奈美さんが饒舌だったら驚く。


「えーと、あがらないで帰るよ。美沙ちゃん、怒ってるし…」


市瀬家まで送り、門の前で真奈美さんと別れて駅に戻る。


 途中、ふと思い立って真奈美さんと遊んだ児童公園に立ち寄ってみる。ブルーな気分には公園だ。自己憐憫プレイスの定番である。子供がたくさんいた。公園内を笑いながら全開で周回するという、エキサイティングな遊びが公園内を席巻している。お母さんたちが、じろりとこっちを見る。不審者じゃないよ。自己憐憫するには少々ふさわしくない空気だったので折り返す。結局、まっすぐ駅に行くしかない。


 こうやってみると、俺って行き場所が少ないよな。家か、学校か、そんなところだ。みんな家にも学校にも行きたくないときって、どこに行っているんだ?


 しゃーない。


 家に帰ろう。妹が出かけててくれるといいな。一人でいたい気分だ。


◆◆◆◆


 家に帰ると、部屋で妹が俺の秘密アイテムをずらりと床に並べて一覧中だった。一人でいたい気分だったのだが、一人で痛い気分になった。


「いつのまに、こんなに集めたっすかー」


いつの間だろうな。こうやって、全部の隠し場所から全部取り出されて床に並べられると、俺もちょっと驚くよ。自分でも、どうかと思ってしまった。


「…変態かな?」


「変態っすね」


躊躇いないな。妹よ。


「そうか…」


美沙ちゃんと妹と両方から変態認定を受けてしまった。高校一年生的には、俺は変態らしい。


「…にーくん?」


「なんだ?」


「反撃しないっすか?」


「してほしいのか?」


「うわぁ…にーくん、妹にむかって『してほしいのか?ほぉれ?なにが欲しいんだ?』とか言ったすよ」


「…わるかったな」


「…にーくん?」


「……」


「反撃しないっすか?」


どう答えるべきだろうね。


「すまんな。お前と遊んでやる気分じゃないんだ。それ、全部もとのトコにしまって、出て行ってくれるか?」


「エロゲ、借りていいっすか?」


「もってけ」


「エロ本も借りていいっすか?」


「もっていってもいいけど、お前、それでなにするんだ?」


「きしし、聞きたいんすかー。にーくん?」


「聞きたくない」


あぶない、また変態呼ばわりされるところだった。それにしても、兄のエロゲとエロ本を借りたがる妹の方が変態じゃないかな、と思わなくもないけど、美沙ちゃんにさんざん変態と言われた俺のメンタルのHPはとっくにゼロで戦闘不能だった。


 ひょいひょいと、俺の秘蔵エロゲとエロ本数冊を持って妹が出て行く。片付けていけよ。


 気力がないので、そのままベッドの下に蹴りこんで終わりにする。


 ベッドの上に転がる。フテ寝はかっこ悪いな。どうすりゃいいんだ。


 ブルーしていると、妹が部屋に戻ってきた。


「忘れ物っすー」


片付けるなら、ベッドの下だぞ。


 だんっ。むぎゅ。ぐえ。


 妹のフライングボディプレスをまともに食った。なにすんだ、こいつ。そのままマウントポジションに移行される。


 しまった。このバカ、また人生相談の手順とか言って攻撃する気か!?兄をマウントポジションで殴打するのは、人生相談の必須手順じゃないっての!


 がっ。


 頭を両手でホールドされる。やべぇ!油断してた!頭突き攻撃か?妹の頭が迫る。


 ちゅ。


 へ?


 おでこにキスされた。妹に。


「きしし…。傷心にーくんに伝言っすよー」


「お前、アタマ大丈夫か?」


妹の頭がおかしいのはいつものことだが、こういう方向じゃなかったはずだ。


「…にーくんが、望むならもう少しサービスするっすよ」


「超いらねー。とっとと出てけバカ」


ベッドから放り出してやりたいが、よりによってミニスカート穿いてる。妹のパンツとか見たくない。


「わかったっすー」


妹が出て行って、ようやく部屋が平和になる。


 あいつはアホか。おでことは言え、実の兄にキスするとか、いかれてる。実は、あんな子供みたいな体形でビッチなんじゃないか。ロリビッチか。ロリコンから見たら、高校一年生とかすでにババアだぞ。ロリコンなめんな。俺はロリコンじゃないし。




 おでこ付近が落ち着かない。ほんと、アイツふざけんな。


◆◆◆◆


 翌日、八月二十八日。夏休み、残り四日。


 学校の最寄り駅で真奈美さんを待つ予定だったが、昨日のあの様子では美沙ちゃんが後方の備えをしてくれる気がしない。しかたなく、市瀬家の近くの角で様子をうかがう。真奈美さんをこっそり後ろから見守るしかない。こうやって早朝から美沙ちゃんの家を見ていると、まるでストーカーみたいだ。警察を呼ばれて、今の美沙ちゃんに事情を聞かれたら有罪になってしまう。


 真奈美さんが出てきた。


 美沙ちゃんは…いないな。


 視界ぎりぎりに真奈美さんを収めて、そうっとついていく。これじゃ、本当にストーカーだ。もう、いっそのこと真奈美さんに駆け寄って一緒に行くか?だめだ、何のために練習させているんだか分からなくなる。こっちの事情で復帰手順を乱してどうする。


 真奈美さんが立ち止まった。大丈夫かな。


 しゃがみこんだ。いかん。


 駆け寄ろうとしたところで、真奈美さんが立ち上がって歩き始める。


 その後も、何度かふらふらとしながらも駅にたどり着く。


 これは、あれだな。初めてのおつかいを見ている状態だな。と連想する。


 真奈美さんがホームにあがって行ったのを確認して、反対側の階段でホームに上がる。


 電車がやってくる。一つ離れた車両に乗り込む。


 不安だ。真奈美さんが、隣の車両で吐いても、このくらい混んでいるとすぐに行けるかどうかあやしい。


 十二分が長い。


 特に、隣の車両で騒ぎが起こったりせず、目的の駅に到着する。


 ぞろぞろと降りる人波に流されて、俺も降りる。真奈美さんは?


 いた。


 降りたすぐ近くの柱に隠れるように立ち止まっている。周りを不審そうに、迷惑そうに人がよけて歩く。真奈美さん、大丈夫か。吐くなよ。祈りながら真奈美さんの視界に入らないほうの階段から先に改札のある階に下りる。


 はらはらしながら真奈美さんを待つ。人が少なくなってから、ようやく階段の手すりにすがりつくようにしながら降りてきた。もう、よかろう。早足で真奈美さんに歩み寄る。


「真奈美さん」


「…っ!」


むぎゅっ。


 うん。がんばったね。


 家を出るところから見守っていたら、いつもよりも素直に真奈美さんハグを受け入れられた。美沙ちゃんには変態とかスケベとか言われるけど、必要なことじゃないかな。これは…。自分に都合のいい言い訳を並べて、俺は卑怯者だなと思いながら真奈美さんの背中を二、三度さすって落ち着かせる。


「じゃ、学校行こう」


「…はい」


真奈美さんの目が至近距離で瞬きする。いつのまにか、目に光が戻ってるな。静かに、それでも力強い光が灯っている。五月に初めて見たときの濁った目じゃない。真奈美さんは、もう大丈夫だ。




 俺は大したことができなかったけど、少し誇らしい。高校二年生の夏休みの成果にしては上出来だと思う。




 教室に真奈美さんを送っていく。いやだな。佐々木先生もつばめちゃんも大人すぎて、こういうときは嫌だ。


「二宮君」


…ほら。


「なんすか?」


ちょっとぶっきらぼうになってしまうくらいは、許して欲しい。


「大丈夫よ。二宮君が思っているようなことじゃないと思うわよ」


ほら見ろ。なにもかも見通してる。これだから、年上の女の人は嫌なんだ。そのまま返事もせずに教室を出た。


 今日は、一人か…。


 図書室に行くと、あいつがいるな。三島ロケット由香里ⅡAがいる。やめよう…と、思ったところで課題の読書感想文を書いていないことを思い出した。思い出してよかった。


 やっぱり図書室に行って、書いてしまおう。


 多少、気になるところはあるが、やはり読書感想文の課題は図書館でやるべきな気がした。


「二宮…久しぶりじゃない」


やっぱりいたか。三島ロケット由香里。


「…課題の読書感想文を書こうと思ってな。それだけだから」


そういえば、こいつにも変態扱いされてちらちらと監視されていたっけ。やっぱり客観的に見て、俺は変態なのか?


 課題用の原稿用紙をカバンから出す。


「なんの感想文にするの?ダブルスター?あなたをつくります?」


「…ふたりがここにいる不思議、のトインビーコンベクターにした。短編はお話を覚えていられるから感想文が書きやすくていいや」


「ブラッドベリね。二宮って、意外と素敵な本を読むのね」


美沙ちゃんの影響でね。これからも読むかどうかは、ちょっと怪しいな。


「あの短編集を読んだってことは『号令にあわせて』も読んだ?」


「読んだ。あれより『トインビーコンベクター』がいい」


「そう?私は『号令にあわせて』の方が好き」


「ふーん」


「うちにも本が沢山あるのよ」


「うちには、あんまりないな」


「今度、いろいろ貸してあげよっか」


「…まぁ、そのうちにな」


「つまんないわねー。文脈の読めてない男はもてないわよ」


真奈美さんにはモテてる気もするが、あれは真奈美さんに選択肢がないだけだ。いつか、もっと自信を持って、顔を出すようになったら…。真奈美さんも俺から離れていくのだろうか。


「そろそろ黙れよ」


「そうね。悪かったわ」


カバンから、美沙ちゃんと交換した『ふたりがここにいる不思議』を取り出す。トインビーコンベクターはとても短い話だから、読み直すまでもないんだけど。


「…二宮。あと、一つだけ」


「コロンボかお前?」


「うちのかみさんが、言うのよねー。二宮。あの一年生にフラれたら…言ってね。お、おもしろいから」


うるせー。なに?俺が美沙ちゃんに叩かれたの有名な話になっちゃってんの?


「…うるさいな」


「悪かったわ」




 図書館は静かで、三島の本を読むページをめくる音はリズミカルで、集中できた。




 二時間ほどで感想文は出来上がった。暇になった。


 机に突っ伏して寝ることにした。


 机、硬いな。


 美沙ちゃんの膝枕とか…。あれは夢だったのか。






(つづく)

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