フィナーレ 虚構世界における失くしたものは何ひとつないと願い続ける狂女の孤独
願う、願い、続ける
アンドレ・ブルトンの小説『ナジャ』のヒロインのナジャは、アンドレ・ブルトンに自分がどのように暮らしているのかを伝えようとして、ナジャは「朝、湯船につかっているとき、お湯の表面をじっと見つめていると体が遠のいていく」と説明したのだった。ナジャを頻繁に捕らえる放心状態は、「遠のいていく」身体の持ち主に固有の現象であるといってよい。そこでは精神と身体が互いによそよそしい関係におかれたままなのである。
ブルトンがパリの街角でナジャに会ったのは、1926年10月4日のことである。その女はひどく華奢なからだつきで、まるで目のところから化粧をはじめて時間がなくなったので途中でやめてしまったみたいな黒ずんだ目をしていた。ブルトンは名前を聞かずにはいられない。女の答えは完璧だった。「ナジャっていうの。なぜって、それがロシア語の既望という語の初めのほうの部分なんですもの」。
ナジャとの会話、ナジャとの長い散歩、そしてナジャがブルトンに語りかける言葉のなかで、ブルトンのうちに「呼応するもの」を見出したあらゆる要素。それは例えば、労働の拒絶についてのブルトンの熱にうかされたようなディスクールを聞かされたナジャが、ひとつの「星」が見えたと語ってブルトンを深く感動させた場面であったり、テュイルリー公演の噴水が描く狐をブルトンと自分の至高になぞらえてナジャが語った言葉が、ブルトンが呼んだばかりのバークリーの本のなかに挿入されている版画のイメージに重なるという事実であったり。ブルトンはこうして客観的偶然の織りなすシニフィアン的鏡面の上に描き出した――「ナジャと、そのそばにあるものごと」と共に。逆にいえば、これこそが、すなわち、このような「鏡」があること、そしてそこに自らの欲望の根拠が投影されることこそが、ブルトンにとっての愛の「条件」だった。
とすれば、ナジャはどうか?ブルトンのこの愛の条件は、ナジャによっても等しく共有されていたのであろうか。答えは否である。ナジャの愛は、いかなる鏡にも媒介されてはいない。ブルトンは自分がナジャを「自由な精霊」のように思っていたことを打ち明けるとともに、ナジャが自分をどう見ていたのかについて明確にこう記している――
「彼女のほうはといえば、この語の力の限りにおいて、私のことをひとりの神と思いなすこと、私が太陽であると信じることがあったということを、私は知っている」
二人のあいだに横たわる違いは明らかだ。遠いというより、「位相の開き」とでも言ったほうがよいかもしれない。つまり、ここにはほとんど接点すらない。ブルトンはナジャを直接見れない。何もかもが置き去りにされて、まわる、まわりつづける。
朝がくれば笑えるだろうか
あの日のように笑えるだろうか
失くしたものは何ひとつないと
願う 願いつづける
anNina『対象a』
ヴェールを被ったパレスチナの女性とイスラエルのレズビアンが手を組んで抵抗するといった、すばらしい周縁的な抵抗運動のはなしを聞くと、ヴェルナー・ヘルツォークの映画の素晴らしいタイトル『小人もはじめのうちは小さい』が頭によぎる。だが、小さい規模で始まるそうした出来事もまた、おそらく、小さく周縁的なままにとどまるのではないだろうか。だが、それでも、私は彼女達の持つ力を信じて。
崇高なる力の百合論 ラカン・レーニン・ヴァイニンガー HOD @meteorchan
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