第16幕 そのラインを踏み越えてこい
「――はい、そこでひっくり返してください」
「ひっくり返すって、左向き? 右向き? それとも縦?」
「ご自由に」
「や、やってみる」
眉間に皺をいっぱいに集めた矢鶴は、手にした得物を突き出した。
蒸気を立ちのぼらせるほど熱されたフライパン。その上で焼かれる挽肉と卵とタマネギと少量のパン粉の混合物――いってしまえばハンバーグ――の真下に潜り込んだフライ返しは、
「はあっ!」
矢鶴の気合とともに、見事ハンバーグをひっくり返した。
零次はさっとフライパンを動かして、そのまま床に落ちそうだったハンバーグをキャッチする。
「ワイズチップって便利よね」
「はい。視界の隅にレシピと参考動画を待機させてます。調理実習に使ったデータ、残しておいてよかった」
「私の頃は調理実習なんて5年生からだったけど、零次君のところは幼稚園からやるのね」
「小学生ですよ!」
しかも3年生だ。
「矢鶴さんもチップ入れればいいんです。『素』をちょっと注射するだけで、痛くないですから。あとは1週間ほどで周囲のタンパク質を使って回路を形成してくれます」
「んー、私は、ちょっと、ね」
矢鶴は困ったようにはにかんだ。
「どうせ、ここに住んでたらオフラインで使える範囲の機能しか使えないし」
「他の区に引っ越せばいいじゃないですか」
「うーん、この区の外に出るのは……」
「あ、もういいみたいですよ」
「――すごい、本当にハンバーグになってる!」
皿の上に盛りつけられたものは、誰がどう見てもハンバーグだった。
箸でふたつに割れば、ちゃんと中まで火が通っているのが見てとれる。
零次はおそるおそる小指の先程の量を箸で切り分け、トランプ・タワーを作るような慎重さで舌の上に乗せた。
「……うん、まあ、普通の味ですね」
「普通じゃないよ! すごく美味しい!」
矢鶴のほうは頬をハムスターのように膨らませ、満面の笑みだ。
もっとも彼女は毒のようなものでも美味しいと言って食べていたわけで、コメントに信憑性はない。
「零次君が手伝ってくれたおかげだよ、ありがとう!」
「……え、ええ、まあ」
零次は、むしろ困ったように肩を落とす。
風呂に入っている間に、零次は身の上話を矢鶴に聞かせていた。
なぜ会って間もない彼女に踏み込んだ話をしたのか、零次にはわからない。
親への愚痴も自分自身への蔑みも黙って聞いてくれていた矢鶴は、零次が話し終わると同時にこう言った。
「ご飯作るの、手伝ってくれない?」
その意図はわかる。
自分にはなにもできない、頑張っても周囲を不幸にするだけ――そんな固定観念に囚われた零次に、矢鶴は成功体験を与えたかったのだ。
零次が手を貸すことで、矢鶴が人並みの食事を作れるようになったという実績を。
だが実際のところ、零次には無駄に気を使わせてしまったという負い目しかない。
「……なんかすみません、ぼくのために、こんな」
「いやいや、私もまともな食べ物お腹に入れられるから問題なしよ」
「あ、まともじゃない自覚あったんですね」
「なんでそういうとこだけズケズケ言うかな?」
苦笑いを浮かべる矢鶴に、零次は微笑み返す。
だが胸に刺さる痛みがその笑顔をどこか歪なものにしていた。
目を背けようとしても、矢鶴の背後にかかった時計が視界に入ってしまう。
午後9時前。タイムリミットまで残り3時間。
入浴と調理で2時間近く浪費してしまっている。
「明日、人が来るから、その人と一緒に病院に行って。あんな汚いところから出てきたんだから、大きいところでちゃんと診てもらったほうがいい。私が連れて行ければ今からでも行くんだけど、私、この区から出られない事情が――」
「…………」
「零次君?」
「――え? はい?」
「……話、聞いてた?」
「あ……いやちゃんとできてるから、感動して。今度はお米もつけましょうね」
「はは……。ご飯炊くの、完全に忘れてたわ……」
そこで、矢鶴はなにかに気づいたように顔を上げた。
「っていうか、さっき『今度』って言った?」
「え?」
「また一緒に作ってくれるの?」
「いえ、あれは、お姉さんが次に調理する時はという意味で――」
「いいじゃん、一緒に作ろうよ。というか、おウチに帰れなくなってるんだよね? いっそここに住む?」
その生活模様が具体的な映像として脳裏に描かれる前に、零次は慌てて消し飛ばさなければならなかった。
なぜなら――零次に『今度』はない。
「ごちそうさまでした」
晩餐は終わった。最後の晩餐が。
食器を片付ける矢鶴に気づかれないよう、零次は立ち上がる。
畳に張りついてしまいそうな足を力ずくで動かし、玄関へ。
「……お世話になりました」
零次は部屋を出た。外を吹き抜ける風がいやに冷たい。
スカイスクリーンに映る満月が、まるで生まれて初めて見るもののように思えた。
満月だけではない。夜の街並みが、どこかいつもと違って見える。
廃墟と見分けのつかない建設中の建物さえ、古い神殿のように神々しい。
それは世界が変化したのではなく、零次の心境の変化によるものだ。
これから、零次は死にに行く。
箱の入手が不可能となり、タイムリミットが迫る今、マルヤを救うため零次に残された道は、ただ1つ。
袴田家に殴り込み、マルヤを力ずくで奪還することだ。
勝算はない。一満を退ける方策など、これっぽっちも思い浮かばない。
浮かぶのは矢鶴の顔だ。矢鶴と親子のように暮らす自分の姿だ。
(それでいいんじゃないかい、零次君?)
(よくありません。ここでマルヤをあきらめてしまうようなぼくなら、お姉さんの困ってるときだって、きっと見捨ててしまう)
(子供というのは、変なところで潔癖だから……)
「――零次君!」
スニーカーのかかとを踏みつけにしたまま、矢鶴が追いかけてくる。
零次はかまわず歩き出した。
マギアプリを使えば引き離すのは容易い。そうしないのは無駄な疲労を負いたくないからで、他意はない。ないのだ。
「待ってよ」
いよいよ追いつくというところで、だが矢鶴は足を止めた。
両者の間に障壁はなにもない。
ただ、区の境があるだけだ。
だがそこに断崖が口を開けているかのように、矢鶴は1歩も前に進もうとはしなかった。
「……私、なんか悪いことしちゃったかな?」
「いいえ。お姉さんは、とてもよくしてくれました」
「じゃあどうして行っちゃうの? 料理が下手だから? 片付けができないから? 25なのに30過ぎに見えるくらい老けてるから?」
「ぼくには助けなきゃいけない人がいるんです」
「自分を殺してまで?」
矢鶴は手を伸ばす。
しかしそんなことをしたって、零次との距離は到底埋まらない。
彼女がそれを望むなら話は簡単だ。ほんの数メートル進めばいいだけ。
なのに矢鶴の足は釘で打ちつけられたように動かない。
「……ぼくは犯罪者で、何の取り柄もない子供です。お姉さんに迷惑をかけるのは明白だ」
「いいじゃん、迷惑。私、気にしないよ。だって私も仕事が遅いとか、雑とか散々言われてきたもの」
「でしょうね」
「そこは否定するか慰めるかしてよ。ホント、思いやりがあるなあキミは」
矢鶴は笑った。
けれど零次は笑わなかった。
「完璧って言葉は、人間には遠すぎるんだよ零次君。自分がされて嫌なことを他人にせずに済んだらいいけど、それはやっぱり不可能なんだよ。だから……迷惑をかけた自分も、迷惑をかけてきた相手も、許してあげるべきだよ。だから……」
生きよう。
そう言って手を伸ばす前に、零次は首を横に振る。
「それでも怖いんです。あの剣道の試合みたいに、ぼくの幸せが、お姉さんの不幸になったらって思うと」
だから。
「それに比べたら――ぼくが死ぬのなんて、たいした問題じゃない」
零次の姿が突然消えたように、矢鶴には見えた。
矢鶴は足元にある見えない境界線を睨む。
急かすような心臓の鼓動だけが、矢鶴の聞こえる音の全部になった。
やがて大きく深呼吸した矢鶴が足を踏み出した瞬間、すべてを白く塗り潰すようなヘッドライトが彼女を照らした。
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