第15幕 怪盗と再会


 窓の外を流れる川に、朝の光が反射するのを見るのが好きだった。

 シャカシャカと歯ブラシを踊らせながら、女はカーテンを開く。

 着替えはまだだ。寝間着代わりに使っている、ゆったりとしたTシャツ1枚の格好である。

 それで窓辺に立つのは女として不用心な気もするが、面倒くささが勝つ。


 都市の天井を覆う巨大モニターから偽物の太陽光が水面を照らす。

 街はまだ半分眠っていて、厳かな空気さえ感じられる。

 もっとも、もう少し経てば隣の敷地に置かれた工事機械が起き出して、そんな空気、遙か彼方に飛んで行ってしまうのだが。


 九尾鶴くびつる川というらしい細い川を見ていると、女はふと、昨日会った子供のことを思い出した。

 長い前髪の下、この世の不幸を一身に背負ったような顔を隠した少年。

 名前は聞きそびれた。


 ちゃんと家に帰れただろうか――。

 大人としては彼の家まで送っていくのが妥当な選択だっただろうが、彼女にはそうできない事情がある。

 無事帰宅したと信じるしかない。


 ――ぼちゃん。


「え?」


 なにか大きいものが、排水管から落ちた。

 それがなにか確かめようと、女は窓に顔を近づける。

 女の動きが止まった。口の端から歯磨き粉が垂れ、胸元に落ちる。


 1分後、女は寝間着にサンダルで部屋を飛び出していた。

 寝癖がついたままだが、かまってはいられない。

 川に足を踏み入れる。そう深くない。1番深いところでも、水面は女の胸下までしかなかった。

 女はジャブジャブと水をかきわけ、それに近づく。力なく水面を漂う子供に。


「キミ! キミ、しっかり! 起きなさい、キミ!」


 やはり名前を聞いておけばよかった――。

 子供の濡れてはりついた長い前髪をどけてやりながら、女は後悔する。





 マギアプリのおかげで、闇の中を進むのに支障はなかった。

 どこからともなく機動都市モビルコロニーに住み着いたネズミやコウモリを払いのけ、おそらくはペットの成れの果てであろう色素の退色した巨大ワニを撃退し、時には旧時代の遺産を発見したりもしながら、零次は水路沿いの通路を水の流れる方向に向かって進んだ。

 そうすればいつか外に出られるだろう、という読みは当たっていた。

 ただし、最後の最後に、歩き続けて疲れた身体には少し酷な距離を潜る羽目になったのだが。

 闇より暗い水の中に光が見え、外に出られたと実感した瞬間、酸欠が零次の意識を別の闇に引きずり込んだ――。


 既視感のある天井の下で、零次は目を覚ます。

 馴染みはない。だが最近同じものを見た気がする。

 部屋の中に入ってきた女の顔を見たことで、それが錯覚でないと零次は知った。


「……どうして、あなたが」

「それはこっちの台詞。どんな冒険を繰り広げたら、排水管から吐き出されてくるわけ? 将来は赤い帽子の配管工にでもなるの?」


 2度も同じ人物に救助されるという偶然を不思議がっている暇はない。

 零次は現時刻を確認し、持ち上げた上体を力なくベッドに落とした。


 時刻は午後7時。

 それも――3日目の。


 士族であれば大抵の人間はそうだが、母は1度口にした約束は必ず守る。

 つまり、3日待つと言ったなら3日間は確実に安心だが、4日目は絶対にない。


 あと5時間。あと5時間で忍者を探し出して箱を取り戻し、それを探偵に渡して、探偵がマルヤを袴田家から連れ出す口実にする――そんなことが可能なのか?


 どんなに心が叫んでも、頭は冷静に答えを出している。

 不可能だ。


「……もうおしまいだ。全事が万事、終わってしまった……」

「どうしたの、まだ若いんだから、なんとかなるって。ね?」


 事情を知らないなりに女が励ましの言葉を寄越すが、むしろ鬱陶しい。


「えっと――私は、灰木はいき矢鶴やつる。キミの名前、なんていうの?」

「袴田零次です」

「じゃあ零次君、お風呂わいてるから、入りましょう? 身体が温まったら気分もよくなると思う」


 遠慮を口にしようとして、けれど出てきたのはくしゃみと悪寒。

 零次は厚意に甘えることにした。


「えっと――」


 まず身体を清めようとして、零次は途方に暮れる。

 矢鶴の家の風呂は零次が知っているものと大きく異なっていた。

 ワイズチップによる操作は当然受けつけない。

 湯を出すにはどうすればいいのだろう。この赤い色のついた器具を動かせばいいのか。


 ハンドルを回転させた瞬間、シャワーヘッドから水が噴き出す――冷水が。


「ぶはっ!? 冷たっ!」


 違った。ならば青いほう。いやこちらも冷水だ。

 他に操作器具は見当たらない。では、シャワーの下についている蛇口はどこで操作するものなのだろう?

 自分の要領の悪さが身に染みる。

 こんなだから、友達1人守れないのだ。


「ああ、やっぱり使い方、わからないんだ?」

「お姉さん!?」


 タオル1枚の矢鶴が浴室に入ってきて、零次は自分を嘲るどころではなくなった。

 本能的に股間を隠す。


(なかなか大きいな)

(見ないでください!)

(なにを言ってる。私は灰木嬢のことを言っているのだよ)

(そっちはもっと見ちゃ駄目でしょうが!)


「……どうかした、零次君?」

「い、いえ、なんでも。というか、1人で大丈夫です」

「おやおや? 幼稚園児が一丁前に意識してるのかな? おませさん」

「小学生ですよ!」


 しかも3年生だ。


「こうやって使うんだよ」


 矢鶴がシャワーヘッドの向きを変え、少しの間放水する。

 やがてタイルに跳ねる水流から、湯気が発生した。

 湯が出てくるまでにタイムラグがあるらしい。最初から温水が出てくる、零次の家のものとは大違いだ。


 汚れが洗い流されていく。冷えた身体が温まり、少年が気持ちよさそうに震えるのを、矢鶴は微笑んで見守る。


「はい、目をつぶって」

「え? いえ、その、ここからは自分で……」

「ああ、シャンプーハットはないの。我慢してね?」

「そういうことではなく!」


 自分でやれるというのに、矢鶴は耳を貸さない。

 逃げる零次を捕まえ、泡にまみれた手で髪を掻き回す。


「ほら、暴れると目に入っちゃうよ?」

「うう……」


 零次は観念し、矢鶴が鼻歌まじりに自分の髪で遊びはじめるのを受け入れた。

 なに、頭だけだ。さすがに身体は自分で洗えと言うさ――。


「はい、頭は終わったから、次は身体ね」

「ええっ!?」

「背中なんか、自分じゃきちんと洗いづらいでしょ? あんな汚いところから出てきたんだから、キッチリ綺麗にしないと」

「それはそうですけど……」


 結局、零次が折れることになった。

 これは何の罰ゲームなのだろう。

 背中だけだ、絶対に前だけは死守してみせる、と零次は心に決めた。


「そんな緊張しないで」


 見てわかるほどに全身を強張らせる零次に、矢鶴が笑う。


「お母さんだと思って甘えてくれていいんだよ?」

「…………!」


 矢鶴の何気ない言葉は、ナイフで胸を抉られたような衝撃を零次に与えた。

 母。母親。自分に向けられるあの冷たい目、『敵』を見る目――。

 鳩尾の奥から突き上げるものがあった。

 零次の涙腺から、シャワーよりも熱い滴が吐き出されていく。


「――あの人に、甘えたことなんて、1度も、ない!」


 零次にとって母親とは甘える対象ではない。甘やかしてくれることを期待できるものでもない。

 自分を叱責し罵倒する冷酷な女暴君、それが零次にとっての『母親』だ。

 一満を打ち負かしたあの試合以前から。


 どこもそうなのだと思っていた。

 けれど小学校で他の士族子弟と接したり、磁駒衆として活動したりするなかで、零次は理解する。


 どうやら自分の家だけが違うらしい。

 いや。

 零次だけが、違う。


 兄弟全員がそうなら、あきらめもついた。

 だが三果はごく自然に母を慕っている。憧れの対象ですらあるようだ。

 一満にいたっては、言うまでもない。


 ――母上、お心遣いありがとうございます――。


 決闘直前に一満が言っていたことは彼の好意的解釈ではなく、事実だ。

 初穂は家の体面しか考えられない女ではない。ちゃんと我が子に愛情を注ぐことができる。

 零次以外には。


「なんで、ぼくだけ――」


 ひょっとしたら、痛罵も無視も嫌悪も、零次のためを思ってのことなのかもしれない。

 零次の側に問題があって、愛情を愛情と認識できていないだけなのかもしれない。

 でもその仮定は零次の心を救ってくれない。


 親に愛されない子供なんて、他にいくらでもいるはずだ。

 零次1人が不幸を背負っているわけではあるまい。

 でもその推定は零次の心を癒やしてくれない。


 母親との暖かい関係を当たり前のものであるかのように言う人間に直面するたび、9歳の少年の心は深い絶望と断絶に突き落とされる――。


「ごめんなさい」


 矢鶴の声と一緒に、なにか暖かくて柔らかいものが覆い被さってきた。

 零次は矢鶴の体温に包まれる。


「ごめんなさい――」


 自分からも抱きつきたいという衝動がこみあげてくる。

 けれどそれが自分などに許されることなのか、結局零次にはわからなかった。


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