第9回

「稲澤さん、稲澤さん」

 帰宅しようと荷物を纏めていると、傍らから声をかけられた。振り返ってみれば徳永さんである。微かに茶色っぽい長髪と、くっきりした目鼻立ち。あまり話したことのない相手だったので少し驚いた。

「就任祝いってことでさ、カラオケでも行かない? ひまちゃんと史郎は行くって」

「合唱コンクールの?」

「うん。今後、絡むことが増えると思うんだ。だからこう――親交を深めておきたくて」

 ひまわりと楢崎くんが近づいてきた。こうして並んでいると身長差がますますはっきりする。徳永さんが楢崎くんを見やりながら、

「でかいけど無害な生き物だから。一日の大半は眠って過ごし、時期によっては美しい声で鳴くことがあります」

「なんの時期だよ」

「発情期? 万年発情期だから関係ないか」

「鼓さんの真似がしたいなら、せめてもう少し賢そうなことを言え」

「しょうがないじゃん、馬鹿なんだから。史郎、プテラロロンが恐竜じゃないって知ってた?」

「プテラロロンなんつう珍妙な生き物さんが、何時代のどこにいたんだよ」

「プテラノドン。噛んだんだよ。文脈を理解する能力がないのか」

 駅前にあるカラオケ店に行くことになった。ひまわりと楢崎くんは自転車で、普段バスで通学している私と徳永さんはバスで、目的地に向かう。

「――就任祝いだったら、内田さんと相川くんは?」

 座席で思いついて訊ねると、徳永さんは笑いながら手を振って、

「あのふたりはほら、ふたりでやるんじゃない?」

 私は瞬きしてから、

「あのふたりってそうなの?」

「逆に知らなかった? 毎日あいだに挟まってるのに」

「気付かなかった。席順は不可抗力にしても――邪魔だったかな。明日からは休み時間、どっかに行ったほうがいいかなあ」

「こっちに来れば。寺窪、よく三組に出張してるから。空いた席を占拠すれば、鼓、稲澤、徳永、楢崎の並びになるじゃん」

 座席の配置を思い浮かべる。ちょうど教室の真ん中の列だ。

「そういえば、あいうえお順なのってうちのクラスだけだよね。一年間固定なのかな」

「固定じゃない? 提出物とか回収するの楽だし。私は今の席、わりと好きだけどね」

「徳永さん、ひまわりと仲いいもんね」

「もちろんそれもあるけど」

 私たちに少し遅れて、ひまわりと楢崎くんが到着した。自転車は近くの駐輪場に置いてきたという。店の会員証を持っていた徳永さんが、学生料金にするから、と言って全員の生徒手帳を回収する。常連であるらしく、受付は手早かった。ドリンクバーのグラスを持ち、部屋に移動する。

「ここかよ」

 とドアを開けた楢崎くんが笑い声を洩らす。ポップな色彩が目に飛び込んでくる。キッズルームに割り当てられてしまったらしい。

「料金は一緒なんだから文句言うな」

 徳永さんが椅子に陣取る。部屋の奥には、小さな滑り台まで付いたボールプールがあった。本格的に幼稚園めいた光景に、私はつい頬を緩ませた。プールの縁に座る。

「私もこっちでいい?」

 ひまわりが私の隣に腰を下ろし、グラスをテーブルに置いた。体を傾け、掌でボールを取り上げて弄ぶ。意外とこの部屋が気に入ったのかもしれない。

「恐竜いるじゃん」

 と徳永さんがマイク越しに言った。壁には確かに恐竜の飾りがあしらわれていた。キャラクター調にデフォルメされた、可愛らしい雰囲気のものだ。肉食恐竜も草食恐竜も一緒くたになってパレードしている。

「ひまちゃんのすぐ上の首の長いやつ――首長竜?」

 ひまわりは別のマイクを取ってビニールを外し、

「竜脚類」

「ブラキオサウルス?」

「ブラキオサウルスは『腕トカゲ』って意味で、前足が後足より長いの。この絵だと後足のほうが長いから――ディプロドクスかなあ。でもディプロドクスだったらもっと体格を華奢に、尻尾は長くするかな。アパトサウルスのほうが近いかも」

「この絵だと、そこまで意識して描き分けてないと思うけど」

 と私。徳永さんは続けて、

「隣にティラノサウルスがいるじゃん? 食う?」

「アパトサウルスを? ティラノサウルスは白亜紀後期、アパトサウルスはジュラ紀後期の恐竜だから、時代がぜんぜん違うよ。ジュラ紀の有名な肉食恐竜だったらアロサウルス」

「食う?」

「なにがなにを?」

「――アロがアパトを」

「捕食したっていう説はあるけど、アロサウルスじゃ大型の竜脚類を襲うにはちょっと華奢すぎるっていう説もある。体重が二、三トンしかない生き物が、三十トンのと戦うのは厳しいじゃんか。子供とか病気の個体だけ狙ったのかもしれないね」

 徳永さんは観念したようにマイクを下ろして、

「さすが」

 歌おうぜ、と端末を引き寄せながら楢崎くん。

「なににする? 恐竜のパレード?」

「怪獣のバラードだろ」

 彼は本当に『怪獣のバラード』を選曲した。

「全員で」

 私たちはくすくす笑いながら、しかし思いのほか本気で、それを歌った。感動的だったのは楢崎くんの歌声だ。噂に違わぬ朗々たる美声だった。曲が終わるなり、私はすっかり感心して、

「楢崎くん、すごく上手いね。びっくりした」

 照れたように頬を掻いた彼を、横から徳永さんが睨んだ。睨んではいなかったのかもしれないが、私には一瞬、そう見えた。楢崎くんのほうはとくべつ気に留めた様子ではなかった。

 ひまわりはいつの間にかタンバリンを持っていて、しゃらしゃらと手許で音を出しながら、

「私もびっくりした。莉々ちゃん、よく史郎くんと来るの?」

「わりと久しぶりかな」

「じゃあ改めて驚いたんじゃない?」

 徳永さんは横を向いて、なぜか少しぶっきらぼうに、

「まあね。上手いは上手いんじゃない」

 私たちは交代しながらしばらく歌いつづけた。ひまわりは日本の曲を意外とたくさん知っていて、歌うのはむしろそちらが中心だった。カラオケ好きらしい徳永さんは、ほかの人が歌っているあいだもコーラスをしたり、楽しげに体を揺らしたりしていた。

「飲み物取ってくる」

 と立ち上がった楢崎くんに、徳永さんが空のグラスを押し付けて、

「私のもついでに。ひまちゃんたちは?」

 まだ大丈夫、とふたりでかぶりを振る。

「了解。徳永はまたメロンソーダ?」

「アイス付きで。スプーンのストロー、一緒に持ってきて」

 トレイを抱えた楢崎くんが出ていった。いったん休憩という感じだ。曲の途切れた画面では、MC役のアイドルが、最近話題のバンドにインタビューをしている。

 ひまわりがプールの縁から徳永さんの隣に移動した。小声で言葉を交わしているが、私のところまでは聞こえてこない。歌う順番をシャッフルするための席替えか、と思っていると、彼女はあっさりこちらに戻ってきて、やはり小声で、

「協力して」

「なにに?」

「莉々ちゃんの恋路」

「え?」

「だからさ」

 ひまわりが人差し指を小さく振って、椅子の隅に置いてある楢本くんの荷物を示す。私はドアの様子を伺ってから、声のヴォリュームをさらに絞って、

「あのふたりってそうなの?」

「そうっていうか、莉々ちゃんが史郎くんに。鈍感すぎて気が付いてもらえないってやつ」

「協力って――なにすればいいの?」

「簡単。今すぐここから消える」

 言うなり、ひまわりは財布からお金を抜き出してテーブルに置いた。私が困惑したように自分のバッグを弄っていると、

「いったん私が出しとく。史郎くん、戻ってきちゃうよ」

 飲み物を勢いよく飲み干して、急かすように手招く。真似て自分のグラスに口をつけたが、炭酸だったのでつい咳き込んでしまった。私はいちいち間が悪い。

「これも飲んじゃう」

 ひまわりはためらいなく、残った私のコーラを一息で空にした。それから芝居がかった仕種で親指を突き出し、徳永さんに向けて、

「じゃあ莉々ちゃん。ゴッドスピード」

 徳永さんは手を合わせて顔を上下させている。ひまわりがドアを開けた。静かな、しかし素早いスパイのような足取りで、カラオケ店を抜け出す。エスカレーターで地上へと至るまで、私たちは顔を見合わせて笑っていた――。

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