第4章 第2話 危うい関係 その6

「そろそろ動くか」

 見渡す限りを機械が埋め尽くす部屋で、博士は一人呟く。

 モニターを始めとした大型の機材が四方を囲むその部屋は、中心に一人分の椅子が設置されている。その椅子は、この部屋に入る唯一の出入り口でもあった。

 本部の最奥に作られた、博士だけが立ち入る事のできる部屋だ。組織のあらゆる情報が、ここにある。

 博士のプライベートルームとも言うべきその部屋で、彼女はモニターに表示された情報を確認していた。

 現在動いているプロジェクトにおいて、最重要とも言うべき警護対象が誘拐されたと報告を受けた博士は、すぐに一人でこの部屋を訪れた。

 護衛の二人からは増援の要請があったが、彼女は却下した。

 情報収集や必要な装備の手配、事後処理はするが、それ以外の援護は全て禁止してある。

 安藤龍二の身柄を軽んじているわけではない。むしろ、誰よりも重要視していると言ってもいい。

 プロジェクト的にもそうだが、博士個人にとっても安藤龍二は貴重な存在だ。

 今回の事件には、それを危険に晒す価値があると判断したのだ。

 そして事態は、彼女が目論んだ通りに推移している。

 本部の援護がないと知った二人が、そのまま大人しく情報を待っているとは思っていなかった。

 当然、独自の判断で動く。

 その際、どういった行動を取るのかが、関心の一つだ。

 報告によれば、安藤奏が誘拐されたのは、安藤龍二よりも先だった。

 安藤龍二が誘拐された時、神無城うてなは犯行グループに追いついた。

 にも拘わらず、見逃すという失態を犯した。

 いや、失態ではない。奪還できる状況でありながら、見逃したのだ。

 理由は単純、安藤奏が人質として利用されたからだった。

 およそエージェントとしてはあり得ない判断だが、神無城うてなは正式なエージェントではない。

 そういう判断をしたとしても、なにもおかしくはなかった。

 博士もそれを咎めるつもりはない。むしろ、それでこそだとすら思う。

「ほう、あの車両を使うつもりか。これは面白いデータが取れそうだ」

 博士がずっと監視しているのは、深月とうてなが作戦基地として使用している一軒家だ。

 基地周辺と内部の監視カメラは独立しているため、本部では映像を確認する事ができない。録画したデータならば共有可能だが、リアルタイムではできない仕様になっている。

 すでに基地が稼働して数ヶ月になるが、間に合わせの設計だったためにそこまでしている余裕がなかったのだ。

 その後の任務でも改修する必要性がなかったため、そのままになっていた。

 映像や音声をリアルタイムで監視できれば最善だったが、それはそれで得られる情報を読み解く楽しみが増えると、彼女は心を躍らせていた。

 深月には独自の判断で行動する許可を与えているが、作戦行動を起こすのならば通常、本部に報告してくるはずだ。

 だが今回は、その報告がない。

 だというのに、彼女たちは今、動き出している。

 開発部の自信作でありながら、公道で使用するのは不適切とダメ出しされた車両を使用して、だ。

 本部が収集し、分析している情報でも、まだ誘拐したグループの潜伏場所は特定できていない。

 誘拐に使用された車両を監視カメラのネットワークで追跡していたが、発見した時にはすでに乗り換えた後だった。

 乗り換えた車両も特定は済み、現在改めて追跡中だ。

 その状況すら、彼女たちはまだ知らない。

 だというのに、まるで目的地がわかっているかのように行動を開始した。

 情報という場において、神無城うてなはなんの役にも立たない。

 ならば久良屋深月が独自に持っている情報網で、なにか掴んだのかもしれない。

 が、博士は違うと感じていた。

 安藤龍二と安藤奏、その二人を無事に救出するには、戦力が不足している。

 仮に居場所を特定したとしても、救出が成功する確率は極端に低い。

 それでも行動を開始したのならば、勝算があるはずだ。

 神無城うてなはともかくとして、久良屋深月が勝算もなく動くはずがない。

 だが、組織の援護もない状況で、どうやって勝算があると踏んだのか。

 いくつかある可能性の中で、博士はその匂いを感じ取った。

 逢沢くのりの介入という、最も待ち望んだ可能性の匂いを。

 増援を却下した理由は、まさにそれだ。

 安藤龍二と安藤奏の危機。

 生存して潜伏している逢沢くのりをおびき出す材料として、これ以上のものはない。

「しかし、本当に現れるとはな……つくづく面白いものだな、恋というやつは」

 思わず口元が喜悦に歪む。

 追われる身でありながら、自ら居場所を知らせるような愚行。

 それが任務であるのなら、なにもおかしくはない。

 特別なエージェントである彼女は、任務を達成するためならば、その生命すら顧みないよう教育されている。

 しかし、安藤龍二の救出は逢沢くのりにとって、任務でもなんでもない。

 不用意に行動すれば、組織に捕捉されるとわかっていたはずだ。

 逢沢くのりはおそらく、それすら承知で行動している。

 その理由が本人の言う通り、恋愛感情によるものなら、これほど興味をそそられるものはない。

「こちらの用意が間に合ったのは幸いだったな」

 いつかは姿を現すだろうと、極秘裏に用意していた手駒は二つ。

 一つはさして興味を惹かれない、手慰みにしかならなかった駒だが、逢沢くのりが相手ならば化ける可能性がある。

 もとより期待した成果を上げられない、不出来な駒ではあったが、ここでなにかを見せてくれるというのなら、その不出来さにも価値があったという事だろう。

 博士が興味を持っているのは、手駒ではなく、それに相対した逢沢くのりがどういう反応を見せるか、だ。

「適度な余興となるか、それとも……」

 何事にも予想外ということは起こり得る。

 奇しくも、逢沢くのりという存在がそれを証明していた。

 期待度が低ければ低いほど、予想を超えてきたときの喜びはひとしおだ。

 研究者として、ある意味至上の瞬間とも言えるだろう。

 逢沢くのりの真価を問う相手としては、あらゆる面で不足しているが、ただ抹消するよりはいい。

 もし万が一にでも、彼女が逢沢くのりを凌駕するのであれば、それはそれで面白い。

「万全の状態であれば、その万に一つもないだろうが」

 逢沢くのりが離反してから数ヶ月。

 自身の身体がどんな状態かは、嫌というほど理解できた頃だろう。

 通常の個体なら、満足に動く事すらままならない時期に差し掛かっている。

 その状態で、どんな結果を見せてくれるのか。

 博士は唇を歪め、低く嗤う。

 今の博士は、ある意味で逢沢くのりに心を奪われていると言ってもいい。

 逢沢くのりが安藤龍二を想うように、博士も逢沢くのりを想っている。

 その二つの感情に、どれほどに違いがあるというのだろうか。

 答えはきっと、逢沢くのりが見せてくれる。

「そろそろのようだな」

 部下から連絡を受けた博士は、誰にともなく呟き、モニターに表示された逢沢くのりの情報を眺める。

 そして、久良屋深月と神無城うてなの情報も並べて表示させる。

 逢沢くのりの存在は、周囲にも影響を与えている。

 深月とうてなの変化もまた、心躍るものだった。

 この三人が揃い、更なる影響を与え合う。

 今回の事件を引き起こした犯人には、感謝の言葉を述べてもいいと、博士は本気で思っていた。

 どこの何者かなどに興味はない。首謀者など、その気になればすぐに特定できる。

 所詮はつまらない相手だ。処分するもしないも、些末事は他の者に任せればいい。

 モニターの電源を落とし、博士はひじ掛けの部分に設置された機器を操作する。

 操作盤と一体型になっている椅子はそのまま上昇し、別の部屋へと移動する。

 博士が普段使用している部屋だ。

 隠された地下室から戻った博士は、端末を手に立ち上がる。

 今夜は、かつてないほど長く、特別な夜になる予感があった。

 博士にとっては有意義な、しかし他の誰かにとってはそうではない夜。

 結果はどうであれ、今夜得られるデータによって、プロジェクトは大きく動く。

 全体で見ればまだ微々たるものだが、その僅かな進展の積み重ねが大切なのだ。

「さて、君はなにを見せてくれるんだ、逢沢くのり」

 愛おしい名前を呼ぶように、熱に潤んだ声で博士は呟き、待たせている部下のもとへと向かうため、部屋を出た。

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