第1章 エピローグ

 龍二は静かに目覚めた。

 見慣れた自室の天井をぼんやりと眺め、気怠さを覚えつつ起き上がる。

 枕もとの携帯を手に取り、時間を確認する。

 目覚ましのアラームが鳴る数分前だった。

 立ち上がってカーテンを開け、差し込む強い日差しに顔をしかめる。

 昨夜の嵐はすでに過ぎ去り、肌を刺すような日差しが、夏の到来を感じさせる。

 目覚めてからずっと付きまとっている不快感を洗い流そうと、龍二は部屋を出てリビングに顔を出す。

 心配そうにしている奏と静恵におはようと挨拶をして、シャワーを浴びてくると告げて浴室に向かった。

 少し熱めのシャワーを浴びながら、昨日の出来事が夢ではなかったと確かめるため、思い返す。

 銃撃されて、嵐の海へと呑み込まれたくのり。

 彼女を撃ったのは、久良屋深月でも神無城うてなでもなかった。

 援護に駆け付けた別のエージェントが、近くの建物から狙撃したそうだ。

 半狂乱になってくのりを助けに行こうとする龍二を、深月が必死に押しとどめ、狙撃する必要はなかったとうてなは仲間に抗議していた。

 龍二の記憶は、そこで一度途切れる。

 急激に意識が落ちる感覚は、すでに何度か体験していた。

 また薬を使われたのだろうと、今ならわかる。

 次に目を覚ましたのは、安藤家に向かう車の中だった。

 見知らぬ運転手と、付き添いとして深月が乗車していた。

 学校での爆破事件に巻き込まれた龍二は、念のため検査を受け、帰りが遅れたという事になっていると説明を受けた。

 時刻はじき、日付が変わる頃合いだった。

 安藤家の人たちに心配をかけたくないのなら、話を合わせて欲しいと言われ、頷いた。

 その段階ではもう、何かを考えようという気持ちはなく、流れに身を任せていた。

 とにかく、帰って眠りたい。

 起きている事が、苦痛とすら感じるほどだった。

 安藤家に到着して、予想通り奏が飛び出してきて、涙ながらに迎え入れられても、龍二はただ、ごめんと呟く事しかできなかった。

 怪我はなく、無事だから安心してと、笑いかけた気がする。

 が、正直記憶が曖昧だった。

 短時間に連続で投与された薬の影響もあったのだろう。

 肉体的にはそれほどでも、精神的には酷く衰弱していた。

 休ませて欲しい、と言って部屋に戻り、その後はすぐに眠った。

 そして、夢を見ていた。

 いや、現実にあった出来事を、繰り返し見ていた。

 くのりの最後の姿を、その表情を。

 何度見たのかわからないほど見続けて、目が覚めた。

 シャワーのコックを捻り、お湯を止める。

 身体を拭いて部屋に戻った龍二は、予備の制服に着替えた。

 再びリビングに顔を出し、学校に行くと告げて家を出る。

 事件があったため、夏休みを数日早めた事は知っていた。

 ただ、どうしても行きたかったのだ。

 心配してついてこようとする奏に笑いかけ、一人で学校に向かう。

 どこか現実感のない足取りで、見慣れた通学路を歩く。

 特に何かが変わっているという事もなく、学校に辿り着く。

 事件から一日と経っていない学校は、驚くほど静まり返っていた。

 意外にも鍵はかかっておらず、校舎内に入ることもできた。

 警察などがいたら入れないかもしれないと龍二は考えていたが、それは杞憂だった。

 教室へ向かう途中、保健室に続く廊下が目に入る。

 立ち入り禁止のテープが張られ、その向こうは青いシートで隠されていた。

 目覚めてからずっと沈み、どこか鈍っていた胸が僅かに痛む。針に刺されたような、本当に微かな痛みだった。

 その痛みから目を逸らすようにして、階段を上る。

 そこかしこに残る思い出に、龍二の足取りが重くなっていく。

 わかっていた事だった。

 この場所は、彼女の気配が多く残りすぎていて、聞こえないはずの声や、見えない姿を幻視してしまう。

 人気のない廊下は、いつもより広く、長く感じる。

 教室のドアは開け放たれたままで、龍二を待っていた。

 本当なら今頃は、最初の授業が始まっている時間だ。

 しんと静まり返った教室は、休日の空気ともまた違う。

 校内に人の気配はなく、グラウンドや体育館から部活動に励む声や音も聞こえてはこない。

 その原因は昨日の事件であり、名残なのだと龍二は気づいて、目を閉じる。

 数秒の後、目を開いた龍二は教室へと入り、自分の席を通り過ぎ、窓際の壁に背中を預けて座った。

 途中の自販機で買ってきたパックジュースをポケットから取り出して、ぼんやりと眺める。

 くのりが好み、それこそ毎日のように飲んでいたストロベリーミルク味のジュースだ。

 龍二自身、なぜそうしたのか、わからない。

 ふと目に入り、気が付けば買っていた。

 十分に冷えているパックジュースを手の中で転がしながら、ふと教室の入り口へと目を向ける。

 そこには、私服姿の少女がいつの間にか立っていた。

 白いシャツにスラックス姿の、普段より少し大人びた格好をした少女と目が合う。

 彼女は唇を引き結んだまま、静かに教室へ入ってきた。

 そのまま龍二がいる窓際まで歩き、隣に立つ。

 何も話さない少女の代わりに、龍二が口を開いた。

「護衛はもう、終わったんだと思ってた」

 龍二のやや掠れた声に、少女は生真面目さを張り付けたような表情で答える。

「家を出たところから、離れて監視は続けていたわ」

 さも当然のように言う深月に、龍二は表情を和らげる。

「尾行するくらいなら、普通についてきてくれて良かったのに」

「……そう。なら、これからはそうするわ」

「うん。よろしく」

 深月なりに気を遣ってくれていたという事は、龍二もわかっていた。

 だからこうして姿を現した事にも、理由があるのだろうと。

「僕はこれから、どうなるの?」

 壁に寄り掛かる深月を横から見上げ、龍二は尋ねる。まるで世間話でもするように、落ち着いた声だった。

「変わらないわ、何も。今まで通り、あなたはここですごせる。もちろん、私たちもあなたの護衛を続ける事になる」

「……僕は、何者なんだろう?」

「それは、知らされていないの。ただ、組織にとって特別な人間であり、監視対象でもあったみたいね。これについては、私とうてなは昨日、初めて知ったわ」

「そっか」

「あなたはなにか、聞かなかった? 囚われている間に、彼女から」

「…………任務で監視してたって事とかは、聞いたよ」

「それだけ?」

「あとは、正直よくわからなくて。色々とさ、混乱してたから」

「……そうよね」

 嘘を含んだ自身の言葉に、龍二は視線を落とす。

 くのりが教えてくれた突拍子もない話がどこまで本当なのかはわからないが、龍二はそれを知らないと隠してしまった。

 なぜそうしたのかと問われれば、信じていいか迷っていたと答えるしかない。

 深月やうてなを、ではない。

 彼女たちが属している組織に対して、疑念や不信を抱かずにはいられない。

 今は知らないふりをしていた方がいいと、龍二は思った。

「……僕の護衛を続けるのは、監視するため?」

「今後はそれも含まれるけど、主な役割は今までと変わらない。あなたを危険から守るためよ」

「これからも僕、狙われるのかな」

「安全と判断できるまでは、護衛を続ける事になる。あなたが特別な存在だという情報がどこまで漏れたのか、組織は把握し切れていないから」

「なんだか、大事みたいだ」

 自身にとって重要な事だとわかってはいるが、どこか他人事のように感じてしまう。

「それにまだ……いえ」

 深月は言いかけた言葉を呑み込み、視線を窓の外へ向ける。

 何を言いかけたのか、龍二は察していた。

 龍二自身、一番訊きたい話題をずっと避けている。

 自分の今後より知りたい、大切な事を。

「…………彼女は」

 逢沢くのりがどうなったのか、それを何よりも知りたい。

 知るのは泣きたくなるほど怖いが、訊かなければいけない。

 知らなければ、いけない。

「くのりは、どうなったの?」

 しっかりと顔を上げ、深月の顔を見て尋ねる。

 視線を戻した深月は、怯えながらも向き合おうとするその視線を受け止め、

「見つかっていないわ」

 簡潔に答えた。

 荒波に呑み込まれたくのりを発見できていない、と。

「……そっか」

 呟いた言葉を呑み込むように、大きく息を吸い、床に向けて吐く。

 一際激しくなる鼓動を、どうにか抑えようとする。

 震える手からパックジュースがこぼれ落ちた。

 ジュースを拾う事はせず、龍二は立てた両膝に頭を埋める。

 うな垂れる龍二を見つめる深月は、声をかけようとして唇を開くが、なにを言うべきかがわからず、視線を逸らした。

「……生きてたり、するのかな?」

「……見つからない以上、その可能性を捨てきる事はできないわ」

「だからまだ、護衛を続けてくれるって事か」

「そうね」

 荒れた海に呑まれただけではない。

 うてなとの戦いで、相当なダメージを負っていた。おまけに銃弾も受けている。その状態で助かる確率がどれほどのものかは、説明されるまでもない。

 だが、遺体が見つからない以上、可能性をゼロとは言い切れないのもまた事実だ。

 とても希望として縋れるようなものではないが、龍二にとってはそれで十分だった。

「教えてくれてありがとう」

 落としたパックジュースを手に取った龍二は、踏ん切りをつけるように立ち上がる。

「それと、助けてくれて。まだお礼、言ってなかった」

「お礼を言われるのは、正直複雑ね。組織の不手際も含めて、私たちにも責任はあるし」

「それでも、だよ。助けてくれた事にはかわりない」

 精一杯の元気を絞り出し、龍二は笑みを浮かべる。

「そう言えば彼女……うてなはどうしてるのかな? もしかして今も見張っててくれたり?」

「彼女はまだ眠っているわ。昨日はさすがに無茶がすぎたみたいね」

「そうなんだ。魔力がどうとか言ってたけど、凄く疲れるものなのかな」

「詳しくは知らないけど、食費は嵩む一方よ」

 珍しくおどけた口調で話す深月に、龍二は苦笑する。少しだけ、気持ちが軽くなったような気がした。

「あれだけの事ができるんだったら、安上がりだと思うよ」

「納税者が納得してくれれば、私も構わないわ」

「あー、うん。僕にはよくわからないかな、まだ学生だし」

 肩を竦める龍二の横顔を、深月は静かに窺う。

 無理に明るく振舞っている気配はないが、それでもまだ心配だった。

 逢沢くのりに対する気持ちが整理できているとは、到底思えない。

 とは言え、詳しく尋ねるのは憚られる問題だ。

 今はまだその時ではないと判断し、深月は壁から離れる。

「とりあえず、私があなたに伝えるべき事は伝えたわ。何か質問はある?」

「あれ、訊いたら答えてくれるの?」

「知る必要があると判断できたら」

「だよね。でもまぁ、今はないかな」

 頭を軽く掻きながら、龍二は綺麗に並んでいる机を眺める。

「正直、まだ頭の中がぐちゃぐちゃだからさ」

 そう言って龍二は、手の中のパックジュースへ視線を落とす。

 深月もつられて目がジュースへと向くが、そこにどんな感情が込められているのかは理解できず、微かに眉を顰める。

「飲まないの、それ」

「……いや、うん」

 要領を得ない返事だが、深月はそれ以上踏み込むのをやめた。

 今の龍二にかけるべき言葉や対処法が、自分にはわからないと悟る。

「……少し、一人になる?」

 護衛としてあるまじき発言だが、他の対処法が思いつかなかった。

「……いいの?」

「今は比較的安全だから」

 深月の言葉に嘘はないが、だからと言って問題がないわけではない。

 ただ、このまま龍二の側にいても彼の助けにはならないと、深月は思った。

「じゃあ、少しだけ……」

 力のない龍二の笑みに、深月は痛みを覚える。

「その代わり、これを。それと、これも」

 痛みを表情には一切出さず、代わりにポケットから馴染みのある腕時計と携帯を取り出して龍二に渡す。

「時計と、僕の携帯? 見つけてくれたんだ」

「囮の可能性が高くても、追跡しないわけにはいかないから」

「そっか。とにかく、ありがとう」

 龍二が腕時計をつけるのを確認した深月は、そのまま教室を後にする。

「帰る時は、携帯で連絡して。近くで待機しておくから」

「……うん、わかった」

「それと、盗聴機能も今は止めてあるから。だから、安心して……と言うのは、少し変かしら?」

「いや、助かるよ。その、ありがとう」

「それじゃあ、また後で」

 現れた時と同じように、音もなく深月は廊下へと消えていく。

 気遣ってくれたありがたさと、そうさせてしまった不甲斐なさに、龍二は深くため息を吐く。

 ズルズルと沈むように座り込み、天井を見上げる。

 受け止めるべき事と、考えるべき事、知るべき事がたくさんある。

 くのりがくれた情報は多く、謎だらけだ。

 彼女たちの事も、そして自分自身の事も。

 ――僕は何者なのか?

 まずは、そこから考え、知らなければいけない。

 すでにわかっている事もある。

 思い出そうとして、思い出せない両親の顔や声。名前すらわからない。

 記憶に靄がかかったような違和感に襲われる。

 安藤家に居候を始めて二年と数ヶ月、一度も顔を見ていないし、電話で話した事すらない。連絡をするのはメールばかりだった。

 なぜ今まで疑問を抱かなかったのか、不思議なくらいだ。

 いや、考えようとすらした事がない。会いたいと思った事も、ない。

 一度気づき始めた違和感は、連鎖的に肥大化していく。

 自分自身の記憶すら、安藤家に居候する頃までしか遡れない。

 可能性はいくつか浮かぶが、考えたところで答えは出ないだろう。

 目が覚めてからずっと覚えている恐怖は、くのりを失った事だけではない。

 足元から世界そのものが崩れていくような恐怖は、筆舌に尽くしがたい。

 目を逸らしてしまいたくなる。

 与えられた世界を疑わず、ただ過ごしていられれば、どれほど楽だっただろうか。

 そう考えずにはいられない。

 だが、龍二は考える。

 あれだけの事を、自分のためにしてくれた少女のためにも。

 くのりが大切に想いながら、それを壊してでも教えてくれた事実から、目を背けるわけにはいかなかった。

 伝えられなかった言葉や、渡せなかったプレゼントが残っている。

 自分の気持ちと向き合うためにも、このままではいられない。

「そう、だよね……」

 震えていた手から、全身に痺れが広がっていく。

 温くなったパックジュースを胸に抱くようにして、龍二は顔を埋めた。

 早鐘を打つ鼓動が、耳に痛い。

 その、生きているからこそ感じられる様々な痛みを噛み締めながら、龍二はようやく、声を殺して泣いた。

 涙が枯れた後で、一人、立ち上がるために。



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