第9話 光の神

 吹き渡る風に緑の稲穂が揺れている。広々と水を湛えた田んぼの向こうには畑が広がり、野菜が豊かに実をつける。人々は忙しく働いているけれど、その表情は楽しげで仕草は軽やかに美しい。のどかなミョーの風景に、アイラは思わず立ち止まった。

(……いけない。こんなところで揺れてる場合じゃない)

 そう思っても、目は田園に釘付けられたまま、足も動かない。わかっていたつもりだったのに、平和な日常を目の当たりにして罪悪感が背筋を這い上ってくる。立ちすくむアイラにザイロが心配そうにすり寄った。ふわふわした温もりが腕に触れる。その優しい感触が、アイラの意識を一気に引き戻した。

(そうだ。……消えたくない)

 ぐっと視界が開け、アイラは無意識のうちに握りしめていた指をゆっくりとほどいた。ポケットに手を突っ込めばこつりと固い感触。オルフェのクリスタルがそこにある。

「よし。行こう」

 決意を刻み付けるように呟けば、脳裏にじわりと茄子紺が滲む。それだけで胸に安心感が広がっていく。ジェナがにこっと笑って言った。

「まずは神殿にご挨拶しようよ。後のことはそれから決めよう」

 すると、それが聞こえたのか籠を抱えた女性がぴたりと足を止めた。ジェナとアイラを交互に眺め、微笑んで口を開く。

「ぼく、旅の人?お姉さんと一緒なのね。アンジュー様の神殿はこの道をずっと行って右よ」

「……!」

 知らない人に話しかけられ、ジェナの体がびくりと強張る。アイラは慌ててジェナを下がらせると頭を下げた。

「ありがとうございます!すみません、この子はちょっと人見知りで……」

 アイラの説明に、女性は少し不思議そうな顔をしつつも籠を抱え直して去っていった。その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、アイラはようやく詰めていた息を吐く。振り返ると、ジェナはまだひきつった顔で女性が向かった道の向こうを見つめている。

「ジェナ、大丈夫?」

 固まったままのジェナにアイラは恐る恐る声をかけた。どう見ても大丈夫ではないけれど、ほかにどんな言葉が言えるだろう。アイラが自問している間も、ジェナは瞬きひとつしない。

(どうしよう、どうしたらいい?もっと呼ぶ?ちょっと揺すってみる?)

 狼狽えるアイラにザイロが声をかけた。

『ねぇアイラ、ちょっとボクに任せてみない?』

「え……?ザイロ、何か手があるの?」

『もちろん!ボクだって補佐なんだからね』

 ちょっと待っててね、と言うとザイロはふわりと舞い上がって前足をジェナの額に翳した。翼を広げてうまくバランスを取りながら小さな声で何かを呟く。直後、ジェナの体がぴくっと動いた。ザイロはそれを確認して笑みを浮かべ、何かをジェナに押し当てるような仕草をする。

 次の瞬間。

「ぁ……アイラ……?」

低くかすれた声で呟いて、ジェナがゆっくり瞬きした。その両目からぽろぽろ涙がこぼれだす。

「うぅ……目が痛い、なんで?」

「……それはそうでしょ。ずっと開けっぱなしだったよ?」

 やはりと言うべきなのだろうか、ジェナは時間を認識していないようだった。無邪気に両目をこするその姿を見るうちにどっと力が抜けていく。ジェナが落ち着くのを待つ間にと、アイラはザイロを呼び寄せた。

「ザイロ、ありがとう。……何をしたの?」

『えへへ。ちょっとギフトをね』

「ギフト……?」

 ギフト、贈り物。ザイロが何か呟いていたのはジェナに贈り物をしていたのか。でも一体何を?

 話が飲み込めないアイラに、ザイロは真剣な表情で周囲を窺うと小さく囁いた。

『ボク、いつもは信者さん達に言葉の贈り物してるんだ。さっきのはその応用で、ジェナにアイラのことを思い出してもらったの』

「すごい……そんなことできるんだ……」

 確かオルフェの信者に多いのは芸術家だったはずだ。ザイロのギフトはインスピレーションというところだろう。どこかでザイロをただの可愛い仔狼のように思っていた自分に気づいてアイラは顔を赤くする。人懐っこい仕草や話し方につい忘れがちだが、ザイロも邪神の――オルフェの配下なのだ。

「お待たせ。……アイラ、どうしたの?」

 少し目を潤ませたジェナがアイラを見て不思議そうに尋ねる。熱の引かない頬に手を当てて、アイラはふるふると首を振った。

「ちょっとね、恥ずかしい勘違いしてた……」

「んん?」

 アイラの答えに、ジェナはきょとんとした顔で首をかしげる。ぱちぱちと瞬きした後、控えめに問いかけが落とされた。

「恥ずかしいなら聞かないほうがいい?」

「うん。ありがとう」

 ジェナの気遣いに、アイラはほっと息をつく。と同時に固まってしまったジェナの様子が思い出された。

「えっと……ジェナは大丈夫?」

 尋ねるアイラにジェナはこくりとひとつ頷いた。

「んとね、さっきの人……ちょっと村の人に似てたからびっくりしちゃって。もう大丈夫」

 答えるジェナの目はまっすぐアイラを見上げている。そこには緊張こそあるものの怯えの色は見当たらない。

 話が一段落したところでトロンが滑るように動き出した。すぐさまザイロが続き、アイラとジェナもその後を追う。向かう先はアンジューの神殿だ。



 教わった通りの道をひたすら歩くこと数分。それは唐突に姿を現した。

 そびえ立つ白と金の建物。周囲には澄んだ水が揺れている。外壁には布にくるまれた赤子とそれを見守る一角獣が彫られている。

「見て。あれ、おんなじ」

 ジェナが囁き、柱の一部を指差した。見ると確かにそこには獣と同じ右巻きの角のような装飾がある。

『これがアンジューのシンボルってことだね』

 ザイロの呟きにトロンが小さく頷いた。

 アンジュー。水と誕生を司る、恐らく大陸で一番有名な光神。太陽神ヴァイシャと並んで名を知られた母親たちの守り神だ。ヴァイにも小さな祠があり、安産祈願に使われていた気がする。確か母も、アイラを宿していた時は祈りを捧げたと言っていた。母の笑顔が脳裏に浮かび、アイラはぎゅっと唇を噛み締める。

 その時。

「旅人さんかしら?」

 優しい声がして、神殿の奥から一人の女性が現れた。癖のある茶髪を紐でゆるく束ね、穏やかな微笑みを浮かべている。白い布を巻き付けたような服装は巫女のものだろうか、女性の清らかな雰囲気にとてもよく合っている。明るく、正しく、心優しい。それはまるでアイラと正反対のような。

 とっさに返事のできないアイラに代わって、ジェナがこくんと頷いた。普段より少し低い声でゆっくりと答える。

「たまたま通りかかったから、ご挨拶に来ました」

 それを聞くと、女性はぱっと笑みを深めた。本当に嬉しそうにアイラとジェナに手を差しのべ、歌うように告げる。

「それなら私がご案内するわ。せっかくだしちょっとお茶でも――」

 しかし、その言葉が最後まで言われることはなかった。


「流れよ、清めよ、押し流せ」


 不意に割り込んできたもうひとつの声。直後、ザイロを掠めて飛ぶ鋭い氷の矢。驚いて振り向いた、その先には。


 槍の穂先をぴたりとザイロに向ける、一人の女性がいた。

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