第21話

 遅めの昼食を終えて、大衆食堂を出ようとする直前に、翠子が「果澄、途中まで送るよ」と言ってきた。意表いひょうかれた果澄は、「家は近いから、別に送らなくても」と断りかけたが、翠子に「いいじゃん。送らせてよ。ちょっとだけでも」と眉を下げた笑顔でねだられたら、「分かった」という快諾かいだくと共に、苦笑を返すしかなかった。果澄のパートナーは、器用で、奔放ほんぽうで、強い人だという認識は変わらないが、実は少しだけ寂しがりな一面があることを、今ではもう知っている。

 大衆食堂を出た翠子が、果澄を連れて向かったのは、すぐそばにある公園だった。住宅街の片隅かたすみにある遊び場は、ブランコとすべり台と小さな砂場くらいしかなかったが、数人の子どもたちが元気に走り回っている。

 いたベンチに並んで座ると、翠子が「ねえ、果澄。あたしの両親のこと、どう思った?」と訊いてきた。果澄は、突拍子とっぴょうしもない質問に戸惑ったが、大衆食堂の二人にいだいた印象を、言葉の形に置き換えていった。

「……考えがしっかりされていて、素敵なご両親だと思う。珠季たまきさんが、翠子に『帰っておいで』って言ったときは、びっくりしたけど……『波打ち際』を軽んじてるわけじゃないってことは分かったし、翠子の身体をあんじてくれてるし、子どもの将来のことだって、大切に考えてくれてるから……」

 そこから先は、言葉にできなかった。――珠季の言う通りにしたほうが、いいのではないか。そう確かに思った自分がいるのに、翠子に喫茶店を諦めさせるような台詞せりふだけは、口にしたくない自分もいる。迷いが発言をにぶらせたが、翠子の身の振り方を決めるまでに、時間はあまり残されていない。このまま黙っていることは、未来の放棄ほうき同義どうぎに思えたが、今の果澄には、愚痴ぐち大差たいさないなげきの言葉しか選べなかった。

「……先のことを決めるのって、難しい」

「本当に、難しいよね。あたしのことだから、他人事みたいな言い方をしてる場合じゃないんだけどね」

「翠子でも、そんなふうに思うんだ。……喫茶店を続けたいって気持ちが、はっきりしてるのに?」

「うん。思うよ。あたしだって、大人になっても、子どもの頃みたいにね。何かを決断することって、わくわくすることもあるけど、怖いことでもあるから」

「……喫茶店を立ち上げたときも、怖かったの?」

「そんなときも、あったかもね。働くことって、楽しいことばかりじゃないのは事実だし。でも、怖かった記憶よりも、楽しい記憶を大事にしたいって思ってるよ」

 そう言って、翠子は空をあおいだ。頭上はまだくもっているが、じきに晴れそうな気配もある。果澄も西の空を見上げると、翠子が明るい声で言った。

「あたし、めぐまれてると思うんだ」

「え?」

 唐突な台詞せりふに、果澄は驚く。翠子は、両親譲りの温厚おんこうな口調で、言葉を緩やかにつないでいった。

「実家の両親に『帰っておいで』って言ってもらえること。シングルマザーになるあたしを、手助けしてくれる人がいること。生まれてくる子どもと一緒に、生活していける居場所があること……本当に、ものすごく恵まれてると思うんだ。だから、両親から『波打ち際』を諦めるように言われても、それが最善だよねって、あたし自身も思うんだ。正論せいろんを伝えてくれることも含めて、やっぱり恵まれてると思う」

「それでも、否定されたら悲しくない?」

「平気だよ? んー、でも、あたしが平気な理由は、元旦那が関係してるかもね」

「えっ? ……どうして?」

「果澄も、気づいてたんじゃない? うちの両親、あたしに『元旦那と復縁ふくえんしろ』とは、絶対に言わないんだ。あの人とあたしがよりを戻せば、たくさんの問題が一気に解決するのにね」

「……あ」

 ――確かに、その通りだ。翠子は、瞳にくもり空をうつしたまま、独り言のようにささやいた。

「シングルで喫茶店を続けていく生き方には、心配を掛けちゃってるけど、シングルで生きていくこと自体には、反対されなかったことが……あたしにはすごく嬉しかったし、実は心の支えになってるのかもね」

 果澄が、掛ける言葉にきゅうしていると、翠子は普段通りの口調で「とにかく、あたしが両親の言葉で傷つくことはないし、むしろ感謝してるよ。……でも」と言ってから、曇天どんてんを見上げるのをやめて、隣の果澄を見た。微笑を浮かべた顔は、どことなくはかなげだったが、果澄をたよった夏と同じ光が、やはり瞳でまたたいていた。

「あたし、欲張よくばりなのかな。それでも『波打ち際』は、絶対に手放したくないんだ。もちろん『たまき』だって、あたしの大事な居場所だけど……あたしにとっての大事な居場所は、一つだけじゃないから」

 話に耳を傾けていた果澄も、微笑を返した。今度は、伝えたい言葉を迷わずに選べたことが、ほんの少しだけほこらしかった。

「翠子が欲張りなのは、今に始まったことじゃないでしょ」

「え、そう?」

「そうよ。欲張りでないと、十三年ぶりに再会したばかりの同級生に、一緒に働いて、なんて言えないでしょ?」

 翠子は、きょとんと目をしばたいてから、勝気かちきな笑みを見せてくる。少し照れた果澄が、「それに、喫茶店がなくなったら、私も困るし……」と付け足すと、翠子に「また甲斐かい達也に『無職』って言われちゃうもんね?」と冗談めかして言われたので、「こら」と軽く言い返した。翠子の言葉に、怒りではなく笑みを返せるくらいに、時間が流れていることに、焦りではなく安らぎを覚えたことも、なんだか少し嬉しい気がした。

「あたし、東京のお店を守っていける道を、これからも探すから」

 翠子が快活に宣言したとき、遠くから「翠子」と呼び声がした。振り向いた果澄は、こちらに近づいてくる珠季の姿を見つけて、驚いた。手にビニール袋をげた珠季に、翠子が「お母さん、なんでここが分かったの?」と訊けば、珠季は「うちに友達を呼ぶときは、よくここに寄ってたでしょ?」と軽やかに答えた。そして、ベンチの前にたどり着くと、果澄にビニール袋を差し出した。

「果澄ちゃん。これ、テイクアウト用のアジフライ。お土産にどうぞ」

「わっ……いいんですか?」

 ベンチから立ち上がった果澄に、珠季は「いいの、いいの」と応じると、人好きのする笑みで言った。

「翠子がいつもお世話になってるし、さっきは親子のみっともない会話を聞かせちゃったからね。そのおび」

 みっともないという言葉選び一つを取っても、翠子と同じだったから、やはり二人は親子なのだと実感する。「ありがとうございます」と礼を伝えた果澄が、珠季からビニール袋を受け取ると、ほわんとした温もりが手のひらに伝わった。透明なプラスチック容器の中に、二尾の立派なアジフライが見える。容器は二つも入っているので、乙井おとい家の全員にいきわたることも有難かった。

「こんなにたくさん……嬉しいです。夕飯に、家族といただきますね」

「どういたしまして。果澄ちゃん、これからもよろしくね」

 珠季が、丁寧に頭を下げてきた。驚いた果澄も、慌てて頭を下げ返す。顔を上げた珠季は、何事もなかったかのように笑みを見せると、果澄に「またね」と言い残して、公園の出口へ引き返す。果澄は、翠子を振り返った。

「翠子。送ってくれるのは、ここまでで大丈夫。風が冷たくなってきたし、お母さんと帰って」

「じゃあ、そうさせてもらおうかな。あっ、明日の待ち合わせの時間を決めたいから、今晩にでも電話するね」

「そっか、もう明日……うん。じゃあね」

「じゃあね! 今日は、ありがとう!」

 公園の入り口に向かった翠子が、立ち止まっていた珠季に追いついた。振り返って果澄に手を振ってくれた母娘おやこに、果澄も右手を振り返す。それから、左手に残された温もりをげて、ゆっくりと帰路をたどり始めた。

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