episode13 大人のアジフライを、次も家族と

第20話

 静寂せいじゃくが、場を包み込んだ。厨房でアジフライをげるにぎやかな音と、ひかえめに流れるなごやかなBGMが、緊迫感きんぱくかんはらんだ空気にそぐわない。言葉を失った果澄の耳朶じだを、珠季たまき朗々ろうろうたる声が打つ。

「それは、臨時りんじの店主として『波打ち際』にかよってほしい、ってことだよね」

「うん」

 対する翠子も、下げていた頭を上げて、真顔まがおの母と対峙たいじしている。レジに立ったままの珠季たまきが、ためすような目で翠子を見た。

「翠子。分かってると思うけど、あんたに大切なお客様がいるように、うちにも大切なお客様がいるんだよ。『たまき』の人手は足りてるって言っても、今も昔もギリギリで回してるんだから。私と青磁せいじさんのどちらかが、千葉を長期で離れて東京に行けば、営業に少なからず影響が出る」

 率直な回答を聞いた果澄は、つい口を開きかけたが、きゅっと唇を引き結ぶ。翠子のうったえがこばまれても、珠季たちにも生活があるのだから、文句もんくなど言えるわけがない。だが、翠子がまだ対話を諦めていないことは、横顔を見上げればすぐに分かった。両親に向けられた眼差しには、果澄と再会した夏に『喫茶店を手伝ってほしい』と頼んだときと同じ強さが、今も変わらず宿っている。

「もっともだと思う。あたしの妊娠にんしんは、あたしの都合つごう。お母さんとお父さんに負担ふたんを掛けることは、『たまき』のお客さんにも迷惑を掛けることだよね。ままを言ってるって、自覚してるよ。それでも、お願いできないかな」

 りんとして見えるのに、どこか切なげな横顔を、果澄は見守ることしかできなかった。『波打ち際』の今後について話しているのだから、果澄とて部外者ではないのだが、鮎川あゆかわ家の問題でもある以上、安易あんいに口を出すのははばかられた。

 歯痒はがゆい思いで静観せいかんしていると、厨房の青磁が「我が儘とは思っていないよ」と落ち着いた声で言った。アジフライを揚げながら、娘に微苦笑を向けている。

「子どもの件で僕たちをたよることに、引け目を感じてほしくはないからね。珠季だって、こんな言い方をしてるけど、そこは僕と同じ気持ちだから」

「それじゃあ、前向きに考えてもらえないかな?」

「青磁さん、期待を持たせないの。あなただって、翠子の仕事に関しては、私と同意見なんだから」

 珠季が、呆れた口調で言った。強い言葉選びに反して、声のトーンは柔らかかったが、続いて告げられた言葉は、先ほどの台詞と同様に、なかなか手厳てきびしいものだった。

「そのヘルプ、産後の少しの間だけじゃ足りないよ。あんたは体力があるほうだと思うけど、自分を過信かしんしてたら、いつか倒れるよ」

「もちろん、行政ぎょうせい支援しえんも利用する。ゼロ歳児から預けられる保育園もあるし、働きながらこの子を育てていく生活を、できるだけ早く整えていくつもり」

 行政の支援、保育園という言葉が、果澄の背筋を正させた。翠子は、出産後の生活について、しっかりと考えをめぐらせている。気候きこうはようやく秋めいてきたばかりだが、翠子の子どもが産まれる冬の足音が、微かに聞こえたような気がした。

「つもりって、あんたは言うけどね……」

 嘆息たんそくした珠季は、声音の柔和さはそのままに、鋭い言葉で切り込んでくる。

「育児が始まれば、事前の準備だけじゃカバーできなくて、思い通りにいかないことが、たくさん出てくるよ。ただでさえ大変なのに、あんたはシングルマザー。果澄ちゃんを従業員にむかえて、仕事をサポートしてもらえるとしても」

 言葉を切った珠季は、翠子の目を見て、はっきりと言った。

「いざというときに、翠子のそばには家族がいない。他人しか周りにいないって現実は、変わらない。そのことで、困ることだって出てくるよ」

 果澄は、息をめた。他人という指摘が、どうしてか胸に刺さっていた。だが、当たり前のことを言われただけだ。果澄にとって翠子は、同級生で、雇用主こようぬしで、最近ようやく友達だと認められた相手であれ、突き詰めれば他人なのだから。密かな動揺をしずめていると、翠子が小さく笑ったから、我に返った。

「家族なら、いるよ」

 自信に満ちあふれた声を受けて、珠季は毒気どくけを抜かれたようだ。嫣然えんぜんと笑った翠子は、腹のふくらみに手を添えている。

「ここに、今も。そうでしょ?」

 厨房で、青磁が笑い声を立てた。のどかな口調で「翠子の口が達者たっしゃなところは、母親ゆずりだね」とらす声に、珠季が「青磁さんってば」と再び呆れの声で返している。そして、娘の元まで歩いてくると、「翠子」と穏やかな声で呼んだ。

「前にも言ったけどさ、うちに帰っておいでよ」

 びっくりした果澄は、翠子を見上げた。翠子は、特に驚いた様子はなく、冷静れいせいに珠季を見つめ返している。厨房の青磁も、母娘の会話を止めないということは、先ほどの珠季の言葉通り、両親の考えが同じということなのだろう。

 ――『あたしの生き方を心配してるのは、清貴さんだけじゃないから』

 喫茶店でカツサンドを食べた早朝に、翠子がげた台詞せりふを思い出す。珠季は、翠子と似通った美貌に苦笑をのせて、娘に言い聞かせるように、言葉を続けた。

「白状するけどさ、『たまき』の忙しさに関しては、本当のことだけど、建前たてまえでもあるんだよ。ねえ、シングルでやっていくと、苦労するよ。しんどい思いをしてまで、東京のお店に拘らなくてもいいじゃない」

 厨房から出てきた青磁も「喫茶店を手放したくない気持ちは、よく分かるよ」と言って、二人の会話に加わった。手には、翠子の昼食をせたトレイを持っている。

「僕たちだって、大衆食堂を立ち上げて、暖簾を守り続けてきた人間だし、翠子がお店を一から作ってきた姿だって、見ているからね」

 青磁からトレイを受け取った珠季は、娘に向き直って「翠子が東京で暮らす限り、あんたの身に何かあったとき、私たちはすぐに駆けつけられない。でも」と言い募る。

「ここなら助けられる。子どものことだって、一緒に育てていけるでしょ?」

「ゆくゆくは、翠子が食堂をいでくれてもいいしね」

 青磁が、そう付け足して苦笑した。申し訳なさがにじんだ笑みは、今の翠子には響かない台詞せりふだということを、承知しょうちしているように見えた。珠季が、仕切しきり直すように手を叩き、「このお話は、今はおしまい!」と元気よく言って、翠子の肩に手を添えた。

「さ、いつまでも立ってないで、座りなさい。果澄ちゃん、ごめんね。うちの話に巻き込んじゃって。冷めないうちに食べてね」

「あ……はい」

 我に返った果澄が、スプーンをにぎり直したとき、珠季が翠子の前にアジフライ定食のトレイを置いた。中央の大皿には、きつね色にがった大判おおばんのアジフライが、刻みキャベツの小山の隣で、気前よく二尾も並んでいる。添えられたアルミカップには、マヨネーズがたっぷり入っていた。マヨネーズに交ざった粒状つぶじょうのものは、みじん切りのピクルスだろうか。ごはんと味噌汁もついた定食を見下ろす翠子は、しばらくのあいだ口をつぐんでいたが、やがて屈託くったくのない笑みを咲かせた。

「ありがとう。いただきます」

 生き方を否定されても、翠子が気丈きじょうる舞えるのは、なぜだろう。果澄は、止まっていた食事を再開させたが、歯痒い思いは消えなかった。

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