1983年9月16日吉川町体育館

 組み立てられたばかりのリングの上では、道場と同じようにグラウンド中心のスパーリングが繰り広げられていた。TV局のスタッフが中継の準備をする体育館に、時折うめき声とギブアップの意志を示すタップの乾いた音だけが響く。

 TV中継があろうがなかろうが、それがいつもの光景だった。それは客入りが始まってからもしばらく続いた。入って来たばかりのお客さんがリングを囲む。通常のプロレスとは違う"極め合い"に、誰もが固唾を呑み静かに見守っている。高田の腕を極めると、座礼して練習を終えた。この試合前と道場での練習こそが"ストロングスタイル"の原点だと信じていた。


  カーン…カーン…カーン! 

  

 試合開始を告げるゴングが打ち鳴らされ、第一試合が始まった。TVには写らない無名の若手同士の試合では歓声が上がることもなかったが、それでも徐々にお客さんの目はリング上の闘いに惹きつけられ、やがて静かだった会場に熱が帯び始め、しだいに湧いてくる。その雰囲気が控室にも伝わってくると、気持ちが昂ってきた。

 だが、いつもならバカ話をしながら出番を待つ控室も、どこか居心地が悪かった。それは久しぶりに"上"で試合をするからではなかった。


  誰もが

  疑心暗鬼…


 決して心から笑える雰囲気ではないのだ。プロレスラーは良くも悪くも、人に見せる職業だ。控室がこんな雰囲気で、お客さんにいったい何を見せるというのだ。


  くだらねえ


 どこにぶつけていいのかわからない、沸々と湧き上がる怒りをぐっと抑え、控室を出て通路で体を慣らし始める。


  試合で

  ぶつければいい…


 TV中継が始まったのか、館内から聞こえる歓声が一段と大きくなった。いや…ただの歓声ではない、リングで何かが起きている。控室から試合を終えた若手が次々と飛び出し、リングに向かっていた。

 しばらくすると試合に出ていたはずの前田が、若手の山崎に肩を担がれ戻ってきた。


「どうしたんだ」

「長州にやられました」


 どうやら前田は入場した直後に、対戦相手の長州とキラー・カーンに襲撃され試合前にKOされたようだ。


「試合は」


 山崎が答える。


「高田さんが」

「高田が…」


 急いで控室に戻り、モニターの前に立つ。

 TVのモニターには、リングサイドの"社長"と高田が映し出されていた。"社長"が、試合に出ろと言っているようだ。突然高田の頬を張り、気合を入れた。

 高田がTシャツを脱ぎ、リングに上がる。闘志が漲っている、"社長"の闘魂が注入されたのだ。そういえば、高田は"社長"の付き人だった。


  そうか…会社は

  高田を売り出そうとしている


 前田も高田もスパーリングで何度ぐちゃぐちゃにしたかわからない。それでも必死に食らいついてきた。帰る場所がなかったからだろうか…なぜか二人とも、家庭環境に恵まれていなかったのだ。

 

  頑張れ

  高田…


 維新軍に完膚なきまでに叩きのめされ、5分余りで試合は終わった。


 無理もない…藤波のたっつあんがパートナーとはいえデビューして2年の若手と、今をときめく維新軍では体も技も違う。それでも見せ場を作り十分健闘した。山崎とクロネコに肩を担がれ高田が戻ってきた。


「よく、やった…」


 そう声を掛けると、高田が申し訳なさそうに俯いた。


  大丈夫だ…

  お前らこそ

  "上"の陽の当たる場所に

  立つべきレスラーなのだ


 タッグパートナーの木村がやって来た。


「藤原、行くぞ」 


 木村は年齢こそ下とはいえ、この世界に入ったのは先で、かつて若手のみのリーグ戦で優勝を争った仲だった。


「その恰好でいいのか」


 何のことか、わからなかった。木村は黒いジャケットを羽織っていた。


  入場コスチュームのことか


 前座レスラーに、入場コスチュームなどない。


  プロレスは

  恰好でやるもんじゃねえ…


 マードックらしい陽気なテーマ曲が聞こえてきた、マードック・アレン組が入場する。そして、木村のテーマ曲が流れると、思わず気を失いそうになった。

 若手の新倉がドアを開けると、大きな歓声が聞こえリングに向かう通路に観客が押し寄せていた。新倉がそれをかき分け先導する後ろから、観客を威嚇するように進む。


  リングが

  いつもより眩しく見えた


「藤原~喜明~っ」


 リングアナにコールされると、一歩前に出て一礼した。これも"神様"譲りの所作だった。いつもの前座の試合では聞くことがない、拍手と歓声が上がる。名前を呼ぶ声は聞こえなかった。ほとんど知られていない前座の中堅レスラーだ。知っている客がいるとすれば、よほどプロレスマニアか変わりものだろう。


 カーン!


 ゴングが鳴った。リング中央で先発のアレンと向き合う。最近ではブッチャーと組むことが多く、ラフファイトを得意とする悪役であるが、五輪で銅メダルを獲ったほどの柔道の実力者で、練習生として道場での"極め合い"も経験している、ストロングスタイルを知る数少ない外国人レスラーだった。

 手四つから試合が始まる。かつて道場で何度もスパーリングをした仲だった。お互いの技量はわかっているはずであるが、その頃を思い出すかのように腕を取り合い、なかなかロックアップにはいかない、いかせない。すでに試合の主導権争いが始まっていた。


 じりじりと間合いを詰めると手を引き寄せ、ようやくロックアップ。その瞬間、アレンは腕を首に巻き付け、すかさず首投げ。そのまま袈裟固めに入ろうとするが、するりとくぐり抜け立ち上がる。 再びリング中央で間合いを取り、ロックアップ。アレンのバッグに回ると足を取りテイクダウン。グラウンドでバッグを取ろうとするが、アレンが腕を取りバッグを取り返そうとするが、取らせない。リング中央で四つん這いのまま睨み合い、やがて同時に立ち上がる。それは維新軍の試合のような派手さはなかったが、客席から拍手が起きた。


 リング中央で三たび睨み合うと、アレンがうっすら笑みを浮かべた。それが合図のように、ヒールに戻ったアレンが突然ラフファイトに走る。

 首を掴みコーナーへと引きずると、コーナーポストに叩き付ける。コーナーにもたれていると、今度は頭を掴み勢いを付けヘッドパッド。

 客席から笑いが起きた。痛がっているのは仕掛けた方のアレンだったのだ。怒ったアレンが首を掴み、今度は頭をコーナーポストの金具に叩き付ける。だが、何事も無かったように涼しい顔でアレンを見ると、もう一度今度は2回3回と叩き付けた。

 それでも、痛い素振りを見せることすらなくアレンを見て「にやり」と笑うと、コーナーポストの金具に頭突きをするかのように自らの頭を打ち付けた。アレンが驚いたような表情を浮かべた。静かだった客席からやはり驚いたようなざわめきが聞こえてきた。これで観客に石頭が印象付けられた。

 アレンににじり寄るとその石頭を額に叩き付ける。石頭をアピールしてから頭突きを使う。こうして自分をアピールする方法も長年の前座生活で知らず知らずのうちに身に付いていた。片足を上げ勢いを付けさらにもう一発、一本足頭突き。アレンがもんどり打って自軍のコーナーに引き下がり、マードックにタッチを求めた。


  アレンは

  あえて見せ場を

  作ってくれたのだ


 アレンからタッチを受けマードックが出て来る。マードックとは何度か対戦した、"手が合う"相手だ。まるで会話をするかのように攻防を繰り広げる…。


  フジワラ…

  ピーターから聞いたぜ

  オマエが"やる"らしいな?


  何のことだ…?


  あのバカのことさ


  …ローンホークか

  なぜお前たちでやらない

  控室でやっちまえよ

  アレンだっているだろ


  アレンはやらない


  なぜだ…?


  同じ色の人間は傷付けたくない…らしい


  マードック…お前は?


  イタズラするだけでhappyだ

  痛めつけるのは趣味じゃない

  "やる"のはお前しかいない…フジワラ


「10分経過」


 リングアナのアナウンスが聞こえる。


  頭の上に

  セルリアンブルーのマットが見えた…


 気付くとブレーンバスターの態勢で高々の持ち上げられていた。


 10秒20秒…


 マードックの得意技、超滞空ブレ―ンバスター。やがて、ゆっくりと頭からマットに突き刺さり、全身に衝撃が走った。マードックが覆いかぶさりフォールに入る。


 1…

 2…


 高橋がマットを叩く。


 3…


 返すことなく3つ目が入り、試合は終わった。


  頼んだぜ…フジワラ


 マードックが「二ヤリ」と笑った。

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