せきれい剣士
似而非
第1話
多摩川は下流にすすむに連れ、その果ては江戸の内海(東京湾)に注ぐ。甲州街道はその沿岸をさかのぼり、江戸(日本橋)から内藤新宿、布田、府中に延びたのち、〝日野の渡し〟を渡って、対岸に移る。
日野宿は甲州街道の第五宿である。起点である江戸からは十里ほど離れ、東西九町あまりにわたって町並みを形成した。
しかし、東へ二里に府中宿、西へ一里半には八王子宿というように、大きな宿場に挟まれているため、通り過ぎる旅人も多い。あいにく宿泊客には恵まれないようだ。
いっぽう、日野の渡しの管理に当たることで、経済的に恵まれた宿場ではある。そのため、しいて盛り場が設置されることもなく、歓楽色がうすい。周辺の住人は、おもに野良仕事に従事し、のどやかな景観には、草の香り、土の匂いが濃密に漂っていた。
秋の陽気の下、沖田惣次郎がひとり座り込んでいる場所は、多摩川の堤防となっている高台であった。
定例の出稽古からの帰路である。稽古道具一式を結わえた
眼下には河畔、さらに川筋と、人為的な高低差を
惣次郎は、江戸の市ヶ谷にある、天然理心流道場〝試衛館〟に住み込みの内弟子であり、塾頭でもある。若齢にして、十五歳。
すなわち、この年に元服を迎える。が、その儀を未だに済ましていない。だからという訳でもないだろうが、見目に子供こどもとした感が一向に抜けないでいる。多分に幼気を残した青年だが、理心流の屈強な門人たちには、存外に苛烈な稽古をつけることでおそれられていた。
多摩は百姓農民にいたるまで武芸の盛んな気風だから、市ヶ谷の試衛館には来ないまでも、出稽古の度に多くの門人が集まる。このときも、日野宿の名主にして、理心流の門人でもある、佐藤彦五郎の邸宅に隣接する道場で、激しい出張教授を終えたばかりであった。
平時の帰り道と大きく異なるのは、その傍らに巨大な風呂敷包みが鎮座ましましていることである。
先生も、
先生とは、試衛館の剣術師範であり、理心流の跡取り息子、近藤勝太(後の勇)のことであった。今年で、二十八歳。惣次郎が試衛館に住み着いたのは九歳の時分であるが、以来、勝太からは「そうじ」という愛称で呼び慣わされていた。頑強な肉体、鬼瓦のように四角ばった顔面が、とかく印象的な男である。
ところで、多摩地域ではいざ知らず、大道場がひしめく江戸府内において、試衛館はあまり流行らぬ町道場に属する。当月の入門者の数が振るわないなど、なにかのきっかけで収入が細ったとして、なお物入りは尽きず、したがって金子がないという状況もざらであった。
まさにそんなさなか、惣次郎は勝太より重大な使命を帯び、傍らの大風呂敷と、懐中には書状を預かっていた。行く先は、勝太の親類にあたる人の邸宅である。勝太いわく、
お前が行くほうが、ウケがいいから…… とか、なんとか言ってさ……
大風呂敷の中身と言えば、それは女物の振袖であり、色も鮮やかな着物の類であった。これがけっこう重かったりする。何より、かさ張った。
小柄な惣次郎が背負うと、ある意味で「身に余る」という形容が相応しい。しかし、本人には栄誉でもなんでもない。だいたい、着物は〝かた〟であり、しょせん人手に渡るものなのだ。
すなわち、惣次郎の帯びた使命とは、借金の遣いであった。その甲州街道を辿る、足取りの重さたるや…… それだから、くったく気な惣次郎のため息には、無心におもむく自身の心苦しさに加え、兄弟子に対する意趣がちょっぴり含まれていた。
惣次郎の
同時に、ここで二の足を踏んでも仕様がないと意を決する。
不承不承ながらも、惣次郎は立ち上がった。なんせ、大荷物である。背中にまわした風呂敷包みに、ひと揺すりくれてやったあたり、はたして青年の強い気構え、と言えるかどうか……
ふいに、思いがけず川べりを走り出した
この鳥は水辺に生息し、町の
それも、今しがたのは大小一対である。
さらに付け加えるならば、小さいほうが大きいほうを先導し、懸命に
まもなく、そろって二羽が
「おい!」
「へ?」
足下から忽然と呼びかけられた。つまり声の主は、堤を下った河畔にいることになる。
そして、じっさい居た。相手も一人である。高低を隔てつつ、指呼の間にある。一見したところ、憶えのない人相であった。
「立ち去るなら、早く立ち去れよ」
姿かたちは、まるきり少年である。年端こそ、自分とそう変わらないはずだ。しかし、こいつのほうが、ずっと子供っぽい。何故か、そんなふうなことを考えた。
「お前、聞いてンのか?」
総体、色白で細身である。ばさら髪が、やけに鮮烈であった。が、なにより、そこから見え隠れする
どういうわけか、右手に木剣を携えている。少年が何か言うたび、
「なんだァ? ボーっとしやがって」
剣を、
惣次郎の関心は、少年の外面的な風姿のみならず、なぜか木剣に注がれた。見憶えがない以上、少なくとも理心流の門人とは思えなかったからでもある。
「おい! お前、無視するなよ!」
「いつから?」
「あ?」
「いつから、そこに?」
「いつからだってぇ? そんなもん、ずっといたぜ!」
その言を事実とするなら、よっぽど迂闊と思わねばなるまい。これでも惣次郎は、一剣士を自負しているのだから。ここのところのひっぱくした暮らし向きによって、やや足取りを鈍された彼であったが、心まで千々に乱れていたのであろうか。
「お前のマヌケな独り言も、ぜんぶ筒抜けよ!」
……やはり、迂闊。
それにしても、木で鼻をくくったような少年だった。愛想と言うべきものが、これっぽちもないのだ。それどころか、やけにとげとげしい。ほとんど悪態といってもいい。この際、どちらでもよいが、惣次郎には
ゆえに、その口を突いて出た言葉は、
「……つむじ曲り」
「あ、お前! いま、おれの悪口――」
「こっちだ、周り込めっ……」
そのとき、まったく別人の声音が重なった。そして数人の足音が、皮一枚で保たれていた河畔の
「うげ!」
つむじ曲がりの少年は、とっさに駆け出す姿勢をみせた。が、それはしょせん無駄なあがき、というものであろう。現に、その進行方向へ立ち塞がった新手を見て取って、じりじりと後退り、すっかり元の位置に収まってしまった。
どうやら、この突然の
「ああ! おまえのせいで……」
たちまち、いくつかの人影が
ときに、惣次郎を恨めし気な視線でとらえるあたりが、せきの山である。
ちょっと、心外だけどね……
しかし、この状況をまねいた要因の一つに、自身がまったく係わりないとは、あながち言い切れない。
というのも、惣次郎は
伝えるべきか。それとも、秘するべきか。
だいたい、この高低差がよろしくないのではないか。高台と河畔で、なにやら現実世界を別つような趣がある。〝此岸〟と〝彼岸〟と言い換えてもいい。
さしづめ、河畔が彼岸に属するのではないか。その証拠に、妙に現実感がない。しょせん非日常の事柄であり、他人事なのかもしれない。冷淡なようだが、そこに緊迫感など生まれよう筈がなかった。
そもそも、何故に
高台下での睨み合いは、いまなお継続している。
さて、つむじ曲がりの得物は、右手に握られた木刀である。携行している以上は、多少なりとも心得があると思われた。それにしても、双眸から放たれる
それを取り巻く、一団は七人ばかり。無腰であった。しかし、その風貌は博徒か無宿人の類である。
連中は惣次郎の存在を、はなから眼中に置いていない。
さらに、人垣を割りつつ、正面中央へと歩み寄った男がいた。一本差し、見目は痩せぎすで、薄汚れた浪人風である。
これは、どうも剣呑だな……
それは浪人風の男の、どこか倫理観をかなぐり捨てたような臭気を、惣次郎が看破したからにほかならない。こういった臭いは子供じみていたほうが、かえって鋭敏に嗅ぎ分けるきらいがある。
ややもすると、つむじ曲がりを包囲せしめた企ては、この痩せぎすの発案なのではないか。なにが可笑しいのか、男は含み笑いを含みきれていない。それは小細工を弄し、的中させた人間の醜悪な
正視に耐えない。かといって見て見ぬ振りは出来ないはずだ。けだし、惣次郎のように、本来、くったくなく、短気者の若者に到っては。
惣次郎をまったく
「やくたいもない、か……」
おもむろに、惣次郎は刀剣袋から木剣を抜き放った。
そして、空の袋を一団の頭上に向け、いとも簡単に投げ入れた。おりからの川風にひるがえり、それが鳥の翼羽のように宙を舞う。午後の光線に、思いがけず瑠璃色が映えた。
ときを同じく、つむじ曲がりが一丁前に覚悟を決めた様子で、木剣を下段に構えた。異なことに剣尖が小刻みに上下している。
笑止とばかりに、痩せぎすが鯉口を切った。右手が柄に伸びる。だが、男は視界の端に、ひらひらとするものを捉えた。
瞬間、つむじ曲がりの木剣が跳ね上がった――鳶色の
せつな、惣次郎の身は此岸から、一触即発の彼岸めがけ、
川風にのり、刀剣袋が舞い落ちる。ひらめく色彩は、野辺に咲いた
追い駆けるように木剣を振り抜く、つむじ曲がりの面持ちも、血気に染まって小凄い。切っ先は跳ね上がったまま、はかなく空を切り、いきおい天を
このとき、痩せぎすは鞘口から刀身を半ばまで滑らせていた。しかし、いささか虚を衝かれた。せいぜい、相手の間合いから外れるほかない。すると男の目算は、布切れ一枚を前に崩れたこととなる。
やや遅れて、刀剣袋が両者の中間域にあたる地平に落ち着いた。
そのとき到来した、しじま。それは常ならぬ一瞬を切り取ったように、あるいは三者三様の絵草紙みたいに思われた。
しかし間髪を容れず、
なにせ唐突なことで、たちどころに一団から
他方、降って湧いたような影を、つむじ曲がりは咄嗟に呑み込みかねていた。ただただ、しゃちほこばってしまっている。けれども、パチクリさせた双眼には、少年に相応の負けん気がきざしていた。
これ、置いてくりゃ、良かったな……
当の惣次郎は、背負い込んだ重荷を仰仰しく安全圏に据え置いていた。まるで決まらない。しかし、勝太から預かった大事な
束の間、自身が降ったばかりの傾斜を見上げていた。いっぷう変わった余韻だった。当然ながら、堤はものを云わずそそり立つのみである。取って返し、急勾配を駆け上がろうとするなら、それはそれでちょっと骨が折れそうだった。
特段これといった理由もなく、惣次郎はいざこざに首を突っ込むこととなった。あるいは常日頃の鬱憤が青年を駆り立てたのか。
しかし、どこか吹っ切れ、思い定めている。
自分は何故に理屈をこね、先刻まで身の処しようを決めかねていたのだろう。そんなものは邪魔っけでしかないのに。
「むろん、関わりありませんし」
ただ、ひとりの青年が思惟するに過ぎないのだ。善悪にかかわらず、たとえ謂われなくとも、ひとっ働きせねばならぬとき、それを看過すれば、人の道にもとるのではあるまいか、と。
とまれ、惣次郎の胸は河畔を
「ことの仔細も承知しませんが」
ひょいと、つむじ曲がりの少年を
「――大勢でもって
「邪魔立てすると、要らぬ傷を負うぞ」
惣次郎は言うべきことを、ただ漠然と言い終えたような節がある。痩せぎすの台詞を、ろくに聞いてもいない。
もはや言葉は要らざるものだった。すらりと木剣を脇構え――いわゆる〝
ああ!
だしぬけに、つむじ曲がりが高声を張り上げた。大口をあけ、人差し指を一点に示していた。
まさにその方角である。はしなくも躍り上がるものがあった。とりまきの博徒らのうち、ひとりが勢い込んで向かってきた。前方に突き出され、陽光のなかで鈍い光をたたえる匕首。痩せぎすが口辺を歪めた。笑ったのだ。おおかた機先を制したつもりかもしれない。
が、それも惣次郎が、かすかな体の捌きでかわしたのを見ると、たちまち笑いが失せた。
さらに、くぐもった
かと言って、これは惣次郎の意図によるものではない。彼を襲った博徒を、こなたの少年がちゃっかり打ち据えていたのである。目敏いというか、如才がない。その太刀筋も、なかなか精錬されているようである。
「おお」
もっけの幸い、とばかりに惣次郎が感嘆したとき、
「小僧っ……」
邪気とともに、中段からの斬りつけが惣次郎に襲いかかった。情け容赦ない害意を含んだ、言わば
呼応して、くるりと惣次郎の木剣が回旋した。大気を
このとき、惣次郎は痩せぎすの眼をしっかと見た。捨て鉢で、すさんだ眼だった。それは身を持ち崩した男の、
そして、自分自身の選択が間違っていないことを惣次郎は確信した。
ふたたび、間合いをはかる。惣次郎が左の肩を引きつつ、右足を前にして半身を開く。理心流の〝平晴眼〟――小躯を補って余りある、堂々たる構え。同時に、相手の喉元に向けるべき切っ先が、僅かに右方向へと流れる。これは、惣次郎に特有の癖だった。
男が縦横に斬りかかる。しだいに迫る、刀刃。
眉目に、鈍い閃きが散った。振りほどくように、二歩、三歩、するすると惣次郎がつけ入った。何とはなし、強靭な意志を有した剣尖が、ひとりの青年に融即し、一様に歩み寄るようだった。
急場において静観するのも堪え切れず、血気に
直立した影が折り重なるほどの間合いである。瞬刻、何かが触れ合った。
鳶色の眸が、いっぱいに見開かれた。
同期して痩せぎすは、うっと低く叫びながら不格好に身をよじらせた。たちどころに膝をがくりと地に折り敷いたと見るや、虫のような息を詰め始めている。
遠巻きに青い顔をした男たちが、みな硬直したように立ちすくんでいた。理解の追いつかない
「さあ、どこへなりと去って下さい。 ……このひと連れて」
惣次郎の繰り出した剣尖は、刀刃の軌道をかいくぐり、
水際立った交錯――その過程を、余すことなく把握したのは、傍らの少年だけである。その眸には、そよ吹く川風のように、青年の立ち姿も
端然と立ちつくす惣次郎の袴の裾が、縦に一寸ばかり切れている。本人は気付いてもいないようだったが……
博徒風の連中は昏倒した男らを、おっかなびっくり回収し、これをまた曳き摺るように、大慌てで
闘争が一過した河畔に、いとけない二人の若者だけ置き去られたようである。ときに少年の視線は、惣次郎へ向け、じいっと据えられている。なにか物言いたげなのだった。
「――だ…」
「な、なに…?」
「なんで、だ」
「エ。なんで手出ししたかって、それは――」
「違う。そンなことじゃない」
そ、そんなことって……!?
多少なりとも骨を折ったにもかかわらず、つむじ曲がりの態度は、現れたときと少しも変わっていない。あまりに素っ気なく、どこか塩っ辛い。しかし、もとより
「なんで、みすみす逃した。奴らは人さらいだぜ」
「エ。そうなの?」
「…たぶん」
むろん初耳である。よくよく耳を傾ければ、
――奴らといったら徒党を組んで、あたりの商家を窺い、めぼしい豪農の垣内を探るような挙動を見せていた。怪しいことこの上ない。これは下見にほかならず、さしづめ夜の闇に乗じ、しのび入る魂胆であろう。せんじ詰めれば盗賊の類、そうでなければ人さらいである。たぶん、そうである。そうに決まった……
ざっと少年の弁は、このようなものであった。ちょっぴり呆れさせてくれる。しかし、その実、さもありなんと思わせないこともない。
多摩郡における悪漢の流入については、もはや論をまたない。ここいらは「天領」と呼称されるほどだから、無法者を取り締まる強固な警備力が配されていそうなものである。
しかしながら、実体はまったく逆であった。江戸から近いだけに、幕府領、旗本領、大名領などが錯綜する土地柄である。藩体制の外にあるため、領内で悪事を働いた者がいると、そいつが他領へ逃げ込むのを役人はいたずらに待つしかない。当然のように、悪人・罪人の類がはびこる運びとなる。
考えてみれば、酷ェ話だよなァ……
いっぽう、住人らは自衛の必要性に迫られるなか、こういった無法者に対抗するため、武装して剣術を学ぶこととなる。
例に漏れず、大胆不敵にして不逞の輩が、白昼に
それにしたって……
さりとて、直情の赴くまま大の男らに突っかかり、向こう見ずに咎めてみたりした挙句、散々に追い回された少年の軽挙はどうしたものだろう。
「なに、思ったより多勢だったもンで、ちょっとばかし手こずったが」
「……」
「おれの腕なら、あんな
「……」
「って、なんなんだよ! いきなり、ボーっとしやがって!?」
思えば、ひとりで勝手に怒ったり、言い繕って自賛してみたり、すこぶる賑やかで目まぐるしい少年だった。間近で見ていて飽くことがない。
「聞けよっ! 人の話を!」
「ああ、はい」
「だいたい! おれは
「ふーん。じゃあ、ホントの名を教えてくださいヨ」
「おうよ。ただし、一度しか言わないから、よーく聞けよ」
「うん」
ここで少年が、いかめしく咳払いをひとつした。
「おれの名は! 藤堂、
「――平助」
「へ?」
両者とも向かい合い、同一の
またしても第三者の声音が重複したこととなる。
言下に推察できたことは、 ――藤堂平助。おそらく、これが
問題は少年の名を
おそらく平助という名の少年は、自身の
それはそれとして、ふいに
惣次郎は相手の出方を、下方より
一転、影を潜めていた昂奮が、再び顔を覗かせている。あるいは、いまだ闘争の余韻のなかを、たゆたっていたのかもわからない。
ここで男が、おもむろに笠を取り払った。たぶん、惣次郎も知らず知らず、険悪な視線を向けていたことだろう。
そんな矢先、軽い会釈が返って来た。どうやら男は惣次郎に対し、敵意のない気ぶりを示そうとしているらしい。というより、惣次郎から向けられる視線は身に覚えのないことで、こころなし戸惑っているようだ。
それを受け、ことのほか惣次郎も毒気を抜かれてしまった。いったん、こめた力を体から抜く。そこで改めて、まじまじと目を遣ってみる。
困惑したような八の字眉の下に、聡明そうな両目が開いていて、顔立ち自体は
「ずいぶん探したぞ、平助」
なんか、おっとりした人だなァ……
男の
ごくあっさり、惣次郎の警戒心は薄らいでいた。どこか気負ったような胸の内であったが、ようやっと人心地ついた感すらある。
だいたい男の言をかんがみるに、目の前の
「少しばかり、そばを離れたら、いつの間にか居なくなって――」
「しようがねぇ人だ、アンタは……!」
にわかに立ち直った平助が、繰り言めいたものを男の言に重複してぶつけていた。先刻の意趣返しにほかならない。しかし、それでは
「いや、それは私が言おうと思って――」
「アンタが、どこぞをほっつき歩いているとき、オレは大変だったんだ!」
「大変? また、なにかやらかしたのか。お前ってやつは……」
何やら高低を隔て、ひと悶着起こりそうな気配である。しかしながら気安く、戯れ合いのような、どこか惚けた味わいが双方にあった。惣次郎自身、こういった手合いの応酬を好む質であるから、眺めていて苦にならない。そんなおり、
「それはそうと、平助」
「なんだよ」
「そこもとの少年は、お前の
「ああ、こいつか。こいつは――」
このとき平助は、鳶色の眸を二、三回、はっと思い出したように
「オマエ、誰だっけ?」
「……」
「ああ、俺は藤堂平助。江戸で北辰一刀流を
徐々におかしさがこみ上げてくるようだった。はぐらかされたような滑稽感である。が、惣次郎にとって、これはこれで悪くない感触であった。
しかし平助は、よほど決まりが悪いと見え、誤魔化すような咳払いまで交えている。それはそれで笑止というものだった。
「――沖田、惣次郎。 …天然理心流の門人です」
「ほう、天然理心流」
惣次郎が流儀を名乗ったとき、上の方で所在なさそうにしていた男が、なぜか得心いったように相槌を打った。比する平助は、いかんせんさっぱりといった具合である。もしかすると、この二人は一刀流の同門なのかもわからない。
「テンねんリシン流? 聞かない流儀だ」
江戸で北辰一刀流を学ぶ者ならば、二人は神田お玉ヶ池に門を開く玄武館、もしくはその分室である、桶町の千葉定吉道場の門人ではないかと推察される。
一口に〝玄武館〟と言っても、三千六百坪の敷地に、三千数百人という門弟が名を連ねる。一道場としては空前絶後の規模であり、まさに日本一の兵法道場であった。
また千葉定吉は、北辰一刀流の開祖である千葉周作の弟であり、兄とともに玄武館の勃興にも携わった当代一流の剣客である。
そういった大道場の門人たち、おもに御家人の連中らは、得てして細々とした町道場、ないし泥臭い剣法の流儀には疎い。なかんずく、天然理心流の未洗練な太刀筋、農民たちと一緒に汗を流すさまを
その点に惣次郎が反駁を覚えないわけではないが、ややもすると卑屈な心根になりかねないところを、 外面的には、けろりと微笑んで見せている。
「いえ、これでも多摩のあたりでは、
「ふーん……」
「平助。天然理心流は――」
ここで惣次郎のあとを継ぐように、思いがけず堤の上の男が、ぽつりぽつりと語り始めた。
「寛政の頃、近藤内蔵助という人によって創始されたらしい。なんでも、神道流の流れを組みつつ、実戦に主眼を置いた剣法。ゆえに、未だ稽古では木太刀を使って打ち合う。とかく、木強にして剛毅と聞くよ。当代は三代目で、近藤周助邦武という御仁が継承している。気息の充実を〝気組み〟と称し、他流に際立って重んじるらしい。そしてその突き詰めた先をたしか…… あ、平助。どうしてお前は、しゃんと人の話を聞けないのか…」
「はいはい。でもね、アンタの剣術談義は、いい加減に聞き飽きてウンザリなんだ」
当の平助は、かの男の談ずる理心流の骨子を、ろくすっぽ聞いちゃいなかった。あくまでも自由気ままといった風情で、てくてくと周囲を歩き回っている。
ちょっといたたまれなくなって、はからずも惣次郎が男の言説を引き受けることとなった。
「〝士道一息〟のこと、ですか?」
「うん? ああ、そうです。士道一息…… 良い言葉ですな」
「しかし、お詳しいですね」
ちょっと詳しすぎるくらいだ。また言葉少なと思いきや、とうとうとして弁舌に淀みがない。剣術にも〝
「なに、実は今しがた、近場にある理心流の道場へ伺ったところです」
「それは……」
今朝から、いっときほど前まで、惣次郎が稽古を付けていた日野の佐藤道場にほかならないだろう。表立った道場として看板を掲げているわけではないが、ふらりと他流試合を望む者が現れないとも限らない。じじつ物好きな男が、すぐそこにいるではないか……
「ひとつ指導を仰ごうと、いえ、立ち会い稽古を許していただけるなら、
「……」
「残念ながら、出稽古の先生と入れ違いだったようです。しかしながら名主の方直々に、剣流の風儀などの口伝を受けました。望外なことです」
これは佐藤彦五郎のことだと思われる。おおかた、男の立ち振る舞いが
「君も出稽古を受けた帰りですか?」
「ええ、まぁ」
「なんだか年の割に、すごく出来そうだ。出稽古の先生は、どなたですかな?」
「いえ、あの、わたしは市ヶ谷の、甲良屋敷にある道場に籍を置いて修行していますので……」
ただし、ときとして惣次郎は稽古を授けるほうである。そして佐藤道場において男が訪ね、たったいま問われた〝先生〟というのは、さしずめ惣次郎自身にあたるのではあるまいか……
だいたい、甲良屋敷の道場に籍を置く青年が、日野で出稽古を受けること自体、回答としては
じじつ、面ばゆかった。ちょっぴり顔色まで上気していたかもわからない。
しかしながら、今ここで自らが塾頭であることを告げたとして、それでどうなるわけでもないはずだ。だいいち、己を無意味に誇示するようで、惣次郎には少なからず
むしろ着眼すべきは、平助と、この男――二人との、少しばかり間の抜けた邂逅によって、借金の遣いであるとか、大道場への劣等意識といったわだかまりが、不思議と胸の内で氷解を始めたことだった。
もっともそれを、はたしていまの惣次郎じしんが諒解できたかどうか。
「もう、いいだろう? いつも長くなるんだ。
やれやれといった態で、平助が割って入った。しかし思いがけず、その手には瑠璃色の刀剣袋と、巨大な風呂敷包みが抱えられている。
「しっかし、重いな! なにが入ってンだ? まぁ、いいや。これ、上から引っ張ってくれよ!」
ぶつくさ言いながらも、男の手を借りつつ、風呂敷包みをどうにか堤の上まで持ち上げてくれた。ちょっと意外なほどの、まめまめしさと言うべきだった。
そのあとで惣次郎の傍へ寄ってきて、自ずから砂埃を払い、まるで借り物でも返すような手つきで刀剣袋を手渡してくれた。
「これ、惣次郎のだろう? ……助かった」
それを置き土産とばかり、やおら身をひるがえした。と思えば、勢いよく急勾配を駆け上がっている。そして、次なる瞬間には堤の上方で佇立しているのであった。驚くべき身の軽さと言わねばなるまい。やってのけた当人も、どこか得意気である。
なぜか対抗意識を煽られた惣次郎が、そのあとに続いた。先達と同じく、一息で登り切ろうとしたようだが、あと一足というところで、ふいに失速してしまった。
「あ」
真っ逆さま。そんなおり、急落する視界の真ん中で、支子色の影が揺らめき立った。上方から、ついと男の手が差し伸べられている。惣次郎は待っていたかのように、それを掴みとった。
握ったその掌は、まず間違いなく剣術によって
ああ、やっぱり、この人は遣うなぁ……
「うわ。危なっかしいやつだなァ」
呆れたような平助の声は心外であった。が、胸の内に秘めておく。そして今は、それが容易に出来る。
「市ヶ谷の試衛館。宜しければ、覗きに来て下さい。 ――
惣次郎は別れ際になって、ようやく〝山南敬助〟と名乗った男に、そんなことを言い含めていた。眸には、沈んだ陰の欠片もない。遠からず、二人とはまた会うことになる気がした。互いに本気の剣を交える機会が巡って来る。そうであれば、自分はもっと強くなれる。武者震いにも似た予感が、惣次郎によぎった。
他方、去りゆく二人の進む道は、とりもなおさず、多摩川の流れにも通ずる。上空を、大小一対の
せきれい剣士 似而非 @esse
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