海と炎

 日が昇る刻になっても、半島の空はのっぺりとした薄灰色の低い雲に覆い隠され、ぼんやりと満ちた光と影の境界は限りなく曖昧なままでした。岬の突端の古城、その脇の古びた小屋の中でミュリはうずくまって、膝に顔を埋めていました。立ち昇る湿った空気と潮の匂いが部屋を満たし、鼻腔を刺激します。

「だめだよ、ウィゼル……わたし、何にもできないんだ。いくら本を読んでも書いてないんだ。本当に待つのがいいのか……。ここで、ウィゼルが帰ってきたら、ふたりで逃げるの?ルスさんたちを犠牲に?……だめだよ……」

 無力感に苛まれるミュリのつぶやきに返事は返ってきません。その沈黙に耳を澄ませていると、ごうごうと遠くからの低い音が混じってきます。


 そうしていくばくかの時間が過ぎ、ミュリはふと我に返って立ち上がります。

「そう、ウィゼルだったら……そんなこと許さないよ。だったら、わたしひとりでも」

 ミュリは床に放り出してあった短剣を手に取ると腰の帯に挿し、外套を目深に被りました。その奥の瞳には強い決意が宿っています。

 静寂に別れを告げて扉を開けた途端、衝撃的な光景が目に飛び込んできてミュリは狼狽えます。

「船が……」

 ヴォーレンの町を一望できるその場所からは、港に停泊している大小の船がみな炎をあげて燃え盛る様子が見えました。ひとたび火が飛べば小さな家屋が密集するこの町はひとたまりもないでしょう。

 何か嫌なものを思い出しそうになったミュリは、首を振ってそれを払うと、憤りと焦燥を呑み込むように一度大きく息を吸ってから、坂道を駆け下っていきました。




 人目につかぬようヴォーレンの町へ入り、細い路地から町唯一の広場の様子を伺うミュリ。そこは住民たちの怒号やどよめきの声で溢れかえっていました。船を燃やされ怒った住人達が兵士に詰め寄り、今にも暴動に発展しそうな様相です。

「どうしよう……」

 広場を覗いたまま逡巡していると、突然腕を掴まれて勢いよく後ろに引きずられました。

「やっぱり、嬢ちゃんの連れか!」

 ミュリを引っ張ったのは断崖洞窟で別れたはずのレイゼンでした。

「あなたは……びっくりした」

「すまない。だが、今見つかるとまずい。こっちへ」

 そう言ってレイゼンはよほど道とは呼べそうもない民家と石壁の狭い隙間へ張り付くように入り込んでいきました。ミュリは黙ってそれについていきます。

 小さな通りをいくつか横切り、右手に見える広場を迂回するように立ち並ぶ民家の間をすり抜けていくと、レイゼンはある家の前で立ち止まり年季の入った木板の扉をノックしました。

「おかみさん!いるか?」

 すぐに扉が開いて、中から炊事用の前掛けをした女性が安堵の顔で出てきました。

「よかった、見つかったんだね。さ、早く入って」

 女性はレイゼンとミュリを手早く招き入れた後、周囲を警戒しながら扉を締めました。そこは勝手口らしく、目の前が小さな炊事場になっていました。

「そこに座って」

 古いレンガの壁で囲まれた小さな空間。細長い食事テーブルを示され、ミュリはその腰掛けの端にちょこんと座って天井を見上げました。漁に使うであろう網をはじめ様々な道具が吊り下げられ、乾いた潮の匂いをあたりに漂わせています。

「これを飲んで。落ち着いたら話を聞かせて」

 女性は温かい飲み物が入った小さなカップをテーブルにふたつ並べます。木製のテーブルは湿気を含み、縁の部分はがさがさとささくれ立っていました。向かいに座ったレイゼンはすぐにそれをあおって飲み干すと、ひとつ大きく息をつきました。ミュリはそれを一口だけ飲んで、女性を見つめました。ほんのり甘い香りが鼻を抜けます。

「あの、あなたは……?」

「あたしはサティ。息子のマイルズから話は聞いてる。世話になってるそうだね」

「あ、マイルズくんの……!」

「騎士団共が探しているのはあんたたちで間違いない。奴らに要求をつきつけられて町の人間も動き出してる。普段威勢のいい男共も騎士団に脅されたくらいで焦っちまって。情けないったらないよ」

「それで、連れの嬢ちゃんはどうしたんだ。まさかもう……」

 ミュリは力強く首を横に振って否定します。

「ウィゼル……ウィゼルは今、岬の城の中にいる」

 その言葉にレイゼンは純粋な疑問を浮かべ、一方サティは驚いた様子でした。

「あの古びた城か?」

「うん。けど普通は入れないんだ。ウィゼルだから、たどり着いたはず」

「あそこは大昔から封印されていて……あの中に入ったっていうのかい?ルスの爺さんがそれを長年調べていたというのは聞いていたけど、本当に入れたんだね」

「でも、いつどうやって戻ってくるか、わからない。もう何日も……何日も過ぎてしまった」

「そうだったのか……。一体中には何が?」

「わからない。ただ、ウィゼルは知るべき何かがあるんだって」

「そういえば彼女には不思議な能力があるんだったな。それも何かの導きという訳か」

 コクリとミュリが頷きます。サティも自ら淹れたお茶を一口飲みながら食卓に着きました。

「さてと、これからどうしたものかしら。いつまでも匿っていられるかどうか。なんとか話をつけて止めさせられるといいけど、あの様子じゃねえ……」

「我らが民を護ってくれるはずの騎士団とは思えない、とんだ蛮行だ。ここの生活の要である船まで潰して脅しをかけるとは、奴らもよほど追い詰められていると見える」

「ごめんなさい。私のせいで、みんな……」

「あんたはひとつも悪くないよ。あんな妄言に踊らされている方が悪いんだ」

 少しの沈黙の後、沈みかけたミュリが突然立ち上がって裏返った声を上げました。

「そうだ!ゆっくりしてる場合じゃないんだ。ルスさんが騎士に話をつけるって、出ていって、マイルズくんと一緒に!」

「何だって?」

「ルスさん、あの騎士のこと知ってるみたいだった」

「いくらなんでも直接手を出すことはしないだろうが、安心はできないな」

「ルスの爺さんがうまくやってくれるといいけどね……」

「様子を見てこよう」

 立ち上がったレイゼンにミュリの不安げな眼差しが刺さります。

「俺はこの中で唯一の部外者だからな。誰よりも動きやすい」

「レイゼンさん……ありがとう。マイルズのことなら大丈夫、と言いたいとこだけど、流石にこの状況じゃちょっとね」

 レイゼンは深く頷いて勝手口の扉に手をかけました。

「すぐに戻る――」

 そう言って扉を開けたレイゼンが何かに気づいて一瞬固まります。直後、衝撃を腹に受けてレイゼンの身体は崩折れ、扉の外に半身を投げ出す格好で倒れました。

「レイゼンさん!」

「町の一大事に間男なんぞ連れ込んで、何のつもりだ」

 扉の向こうから大柄の男が現れ、倒れたレイゼンに駆け寄るサティをねめつけます。いかにも漁師らしい風体に屈強な身体と強面をあわせた男。

「あんた……この人は客人だよ!」

「んなこと言って本当の所はどうなんだか。そんなことより……今はそのガキだ。おい」

 男が外に向かって手招きするとさらに二人の男が入ってきて、狭い部屋の中でミュリを壁際に追い詰めました。二人の男はミュリを注視しながら、こんな子供が本当に?などと囁やきあっています。

「あんた、その子をどうするつもり?」

「そんなもん決まってるだろ。騎士共に引き渡す」

「その子に何の罪があるって言うの?殺されると解っていて、むざむざあんたはその子を渡すの?」

「そんなこと……知るか。これは町を守るための取引だろ。お前は家がどうなってもいいのか!」

「いいわけない!でも、その子が殺されるのはもっとよくない!あんたわからないの?」

「そんなのは綺麗事だろ!」

「それがわからないなら、あんたとはもう縁を切るよ」

 その一言に男は血色を変えて、一瞬固まりました。

「ば、バカか。そんなこと言って、後悔するに決まってる」

「どうせ、その子を引き渡したら報奨金でも出るんでしょ?そのお金でしばらく遊ぼうとか考えてるんでしょ?わかるのよ!」

 ついに我慢ならなくなったと見えるサティの剣幕に、おそらくその夫であろう男が返す言葉もなく気圧される様をその場にいる全員が呆然と見つめていました。

「くっ……なんだってんだ。おい、さっさと連れて行けって!」

 ミュリを囲んでいた二人の男が両脇から抱えようと近づくと、ミュリは身を捩って前へ出ます。

「私、魚じゃないんだ。ついて、行きますから」

「だめだよ、行っちゃ!」

 抗える状況でないと察したミュリはサティに小さくかぶりを振ります。

「今は傷つかないのが大事。ルスさんといれば何かできるかも」

「あんた、どうしてそんな落ち着いていられるの?」

「なんでかな。捕まるの、慣れたから?怖くないわけじゃない。けど今は、ウィゼルがいない方が困ってるんだ」

「……あのね、諦めたらだめだよ」

「うん。ウィゼルと会えないの、嫌だし」

 ミュリは相変わらずどこかきょとんとした風に、それは燃え盛る運命からひらひらと舞い逃げるひとひらの葉のようでありました。

「おい、その武器は置いていけよ」

 男はミュリが腰に携えた短剣を見逃しませんでした。ミュリは素直に従い、鞘ごと短剣を抜いて倒れたレイゼンに寄り添うサティへ渡します。

「これ、お願いします」

「あ、ああ……」

「お前はここに居ろよ。変な気い起こしたらまたそいつをのすぞ」

 冷たい眼差しでサティを一瞥して男は出ていきました。ミュリと付いてきた男二人もそれに続いて、部屋の中は一気に静けさを取り戻しました。

「あんたの言うことなんか、もう聞くもんですか」

 サティは小声で言って、去った男に向けて舌を出しました。


 ――――



「ようやく、見つけたぞ」

 開けた草原の真ん中に拘束されたミュリ。そこで見たヴィンヤードは憔悴しきった目で引きつった笑みを浮かべていました。

「あなたが、オリィの……?まるで、別人」

 ミュリがまだ使用人をしていた頃、ヴィンヤードとは接触こそありませんでしたが、その優しそうな顔は記憶に残っていました。

「貴様がその名を口にするな!所詮我らと異なる外界の人間。受け入れるべきではなかったのだ!」

 ミュリは物怖じせず、ヴィンヤードの様子をうかがいます。追い詰められ、逃げ場をなくした獣。自らの生命よりも大切なもののため、敵と認めたものを排除するため、手段を厭わない。その空虚な眼窩には渇望の瞳が浮かんでいました。

「霊泉の簒奪者の娘、ウィゼル・アルマーダはどこだ?貴様なら知っているはず」

 ミュリは大きく頭を振りました。

「く、はははは。まさか、売られでもしたか。連れ添った相棒に簡単に捨てられる気持ちはどうだ?」

「ちがう!」

「くく……娘の居場所を本当に知らないと言うならば、それはそれまで。拷問など私の趣味ではないからな。だが……そうだな、貴様の死という事実はいつでも振り撒ける」

 手首を拘束され膝をつかされているミュリを憎々しげに見下ろしながら、重苦しい足取りでその周囲を歩くヴィンヤード。

「そうだ、試すとしよう。貴様が本当に捨てられたのでないというのなら。明日、夜明けとともに貴様を処刑する。それまでにあの娘が来るかどうか……くくく」

「来なくたって、私はウィゼルを恨んだりしない。殺されてしまうなら、来なくて、いい」

「ほう、健気なものだ。まあよい、明朝までは何を恨むも呪うも自由だ」

 苦しそうに言葉を絞りだしたヴィンヤードは後を兵に任せて去っていきました。

 

 果てしなく遠ざかったウィゼルとの距離が少しづつ縮まり始めた気がして、ミュリは焦りを覚えます。来てはいけない、でもそれはウィゼルに会えなくなるということ。無事生き延びてほしい想いと、ウィゼルの未来を見届けられない無念が、反発し合いながらミュリの中を駆け巡りました。



 宵闇にぽつぽつと輪を描く篝火。その中心には横たわるミュリの姿。その目にはヴォーレンの町が火にのまれたように見えて、空へと目を逸らすと、星はなく、ぼんやりと明るい薄い雲が空のずっと向こうまで広がっていました。時折生温い風が吹いて火の粉を舞わせ、視界に踊っては消えていきます。

 ジリジリと灼ける熱を感じながら、ただ心を虚ろで埋めようとしても、どこからともなく希望が染み出してくる。それは生への執着より、大切な人との一縷のつながりでした。

 けほけほ、と乾いた咳を払って、ミュリは瞼をおろしました。

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