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「どうかしたの?」遥が言う。

「なんでもない!」夏は意識して、いつもよりも元気よく、大きな声で、遥にそう返事をした。

 どうしてだろう?

 夏は疑問に思う。

 なぜか遥の元に行きたくないのだ。

 でも、いつまでもこうして海の上で漂っているわけにもいかない。

 夏は頭を振って、両頬を手のひらでぱしん、と軽く叩き、気持ちをリセットしてから、ゆっくりと遥のいる場所に向けて泳いで行った。

 海辺までくると、そこには遥がいた。

 遥はとても優しい顔をしていた。

 こうして夏がしたから遥の顔を見上げることは、よくあった。

 たとえば夏が全力で外を走っているとき、そして走り終わって、ゴールを通り過ぎて、その場に倒れ込んだとき。遥はいつも夏のそばにいて、大丈夫? と言いながら、今のように優しい顔をして、夏に手を差し伸べてくれた。

「大丈夫?」

 遥はそう言いながら、まるで記憶の中の遥と同調するように、そっと夏に手を差し伸べてくれた。

「ありがとう」

 夏はお礼を言い、遥の手を取り、遥の力を借りて、海の中から大地の上に上がった。

 夏の言葉を聞いて遥が笑う。

「着替えてくる」

「うん。じゃあ、上で待ってる」

 そう言って遥は天井を人差し指で指し示した。

 それから夏は更衣室に、遥はスロープ状の階段を上がって上の階に移動した。

 更衣室に到着すると、夏は白いタオルで髪と体を拭いて、それから白いワンピースに着替えをした。拳銃を入れたホルスターも、ちゃんと太ももに装着した。

 ひと泳ぎしたせいで、気持ちがとてもすっきりした。

 体は疲れているけど、心は全然大丈夫だ。

「よし」

 夏は小さな気合を入れて、更衣室をあとにすると、スロープ状の階段を上がって上の階に移動した。上の階では、遥が通路に背中をつけて立っていて、じっと床を見つめながら、夏の到着を待っていた。

 光の移動で夏の存在に気がついた遥は顔を上げて、夏の姿を見て、安心したように、にっこりと笑った。

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