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 雛の部屋を出たあとで、夏は一人で泳ぎに出かけた。

 雪のように白いスロープ状の階段を降りて、一人で不思議な海までやってきた。

 階段を降りた先にある真っ白な更衣室まで移動して、そこにあるロッカーを開けると、まるでこの夏の突然の行動を予測していたかのように、そこには白い水着が一着だけ、置かれていた。

 その水着はどうやら夏がこの前着用した水着と同じもののようだった。

 同じデザインの水着が何着もあるのかもしれないけれど、夏はなぜかそんな気がしていた。きっと遥が夏の水着を洗濯して、いつでも泳げるようにとロッカーの中に置いておいてくれたのだと思った。

 その隣にはさも当然のように白いタオルも置いてある。

 夏はふう、と一度ため息をついてぼんやりとした眼差しでそれらを見る。

 水着を手にとって空中に広げながら、夏は洗濯機の中でくるくると回る水着の様子をイメージした。

 少しだけ水着を眺めてから、夏は着替えをすることにした。

 銀色の拳銃を入れたホルスターを置くと、ロッカーはかたん、と冷たい音を立てた。

 下着も脱いで、生まれたままの姿になった夏は、水着に着替えをして、それから海まで移動すると、そのまま、どぼん、という音を立てて勢いよく、水の中に飛び込んだ。

 瞬間、世界が変わった。

 水は生温かくて気持ち良かった。

 自然と夏の顔は笑顔になる。

 水の中に潜り、軽く泳いだあとに、夏は水面から顔を出して、そこから空に浮かぶ偽物の月を見つめた。

 しばらくの間、夏はそうやってぼんやりとしながら海の上に浮かんでいた。

 不思議な海の浮力は、普通の海の浮力よりも、少しだけ力が大きいような気がした。

「なにしてるの?」

 遥の声が聞こえた。

 はじめは幻聴かと思った。

「夏。そんなところでなにしているの?」

 声は鮮明に聞こえた。

 夏は体を動かして視線を声の聞こえる方向に向けた。

 するとそこには遥がいた。

 遠くのほうで小さな遥が夏に向かって手を振っている。

 夏は泳いで遥のいる場所まで移動しようとした。

 移動しようとして、自分が今、思っている以上に疲れている、という現象に初めて気がついた。

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