CASE. Green Eyed Girl

 べったりと額に張りつく前髪をかきあげると、足元にぱたぱたと水滴が落ちた。シャワーを浴びても、雨の匂いが抜けない、気がする。玄関先に紫陽花を飾っているからだろうか。ひんやりと重たい花の球体が、わずかに頭をかしげていた。

 ソファにしいたバスタオルの上で待っていてもらったセンジュ──正確にはARMA、センジュテヅルタコヒトデモヅルヤスデミミック──は、大きな雨蛙のような姿に変わっていた。玄関に放っておいたコートを拾っておいてくれていることに気づき、礼を言う。

 センジュにコピーをとった資料を渡すと、雨蛙の姿がほよんと崩れ、いつもの人のよさそうな青年の姿に変じた。いつもなら小さくなってもらい、膝の上や胸の上で一緒に資料をみるのだが、今回はまだ髪から水が滴っているためにやめた。

「本部からの追加情報は以上」

「成る程……」

 目を通しておいてもらう間に、台所にいき、コーヒー豆をつけておいたラムにミルクとシロップを足し、暖かい飲み物を作る。普段ならストレートで飲むところだが、疲労が勝った。白と薄緑のマグカップのうち、取手がふたつついている薄緑の方をセンジュの前に置く。

「ミミちゃんお酒いけたっけか? はい」

「有難い」

 資料をもつ両腕とは別の腕がのびて、そっとカップをもつ。そのあと、隣に腰かけたユーゴの濡れた髪に、もう一本の腕がのびた。タオルをもっている。

「まだ濡れている、」

「わっ、ミミちゃんタンマタンマ」

 マグカップを置き、おとなしく大きな犬のようになでられる。たくさんの腕にこすられているうちに、小さくくしゃみがでた。皮膚が冷えていくのがわかり、一度立ち上がって上着を羽織ると、その間にセンジュの腕が、蛇のようにのたうっているのがみえた。

「何してんのミミちゃん」

「蛇を象った悪魔が発生していると読み。未だ、小型のようだが……」

「俺たちが旧駅のほう回ったときに出てこなくてよかったよな。麻痺に神経毒となると手も足もでねえ」

「蛇だけに?」

「ミミちゃんそういうのどこで覚えてくんの?」

 言いながら、資料に目を戻した。実際に町を捜索している段階で得られた情報とは別の、女学生たちへの聞き込みの内容についてもまとめられている。

 幾重にもゆれる靄の向こう、少女たちの悪意が少しずつ浮き彫りになっていくのに耐えかねて、読む速度が遅くなる。

 デパート火災。肉親の死。消えない傷痕。

 無意識に顔の左側を撫でていた。その手の甲に、さっきタオルを差し出したセンジュの指が、するすると重ねられる。痛むのではないよ、と伝えるために微笑むと、白い菊花のような形になったセンジュは、花びらの代わりの白い手をあわせた。彼の腕は雄弁かもしれないが、言葉よりも深い。無数の手を開くとき、ユーゴはときおり、そのなかに小鳥がいると錯覚する──掌のなかから現れるまた別の手が、翼のように見えるから。

「ミミちゃんはさ、もしもこの鈴鹿秋乃っていう娘が──これ以上のことをしていても、彼女を許す?」

「然り。……全てを許そう」

「…そうだよな、」

 何度も訊いたことをもう一度訊いてしまったのを謝るために開いた唇を、タオルでふさがれた。

「まだ濡れている。ユーゴ殿は毛量が多いのだな、含む水分がなかなか減らない」

「毛量て。人を犬みたいに」

 軽く言い返しはしたが、確かに、頭が重い気がした。最も、雨の日は大抵そうだ。傷痕が奥からしくしくと痛む。……火傷の痕があったという鈴鹿秋乃が、いつもマスクをつけていた気持ちはよくわかる。かつてのユーゴも、左目を覆うように髪の毛を垂らしていたのだから。

 そんな彼女を、複数の少女がいじめていたという証言は、残酷かもしれないが想定の範囲内だった。さらに、それが被害者たちだというのも。

 条件をどう絞っても、類似の事件は腐るほど過去のデータベースから見つかる。アウトラインはほぼ見えていた、ただ悪魔が想定外に勢力を拡大していることだけが、今回の事件の特異な点であって。

 嫉妬は女の怪物だ、と描いたのは誰だったろうか。誰でもないのかもしれない。殺され、皮を剥がれた少女たちの名前に絡みつき、幻影となってたちのぼる、緑の目をした鱗もつ化け物は、しかし、なぜだか女であるような気がした。のたうつ悪意と、苦痛と、悲しみが…黒い血のようにぎらついた。

 悪魔は人の感情に付け入る。バタフライ・エフェクトのように、ひとりの不幸がやがて意識の海を揺らし、現実世界に嵐をおこす。

 ユーゴは、『ヴェイユの言葉』という一冊を抜き出した。テーブルの上において、ぱらぱらとめくり、また閉じる。

 センジュが、手でそれを指して動作で触れていいかと問えば、ユーゴは頷いた。センジュは、注意深く本を手に取ると、付箋が貼られている頁を開いた。

「個々の不幸な状況は人間どうしを隔てる沈黙地帯を生みだし、めいめいは孤島に幽閉された状態となる」

 読み上げる唇に、ざわざわと小さな手が群がり、ゆっくりと蓋をした。その隙間から、より小さな、羽音くらいの声がもれ、雨の音と一緒に室内を満たした。

「…人びとは犯罪を軽蔑していると思っているが、じっさいは不幸の弱さを軽蔑している。犯罪と不幸の弱さをふたつながらに背負いこんだ人間にたいして、人びとは犯罪の軽蔑という名目のもとに、不幸をなんの気兼ねもなく軽蔑することができる」

 読み上げて、本を閉じる。ユーゴは黙りこくっていたが、降り続ける雨の音に紛れて、ふと唇を開いた。

「……誰が、ここまで」

 追いつめたのか。

 無音の呟きが、水の響きを増幅させる。先程から、雨脚が強くなってきていた。まるで世界を水没させるかのように。

 少女が変容していく。翼ではなく鱗が、優しい腕ではなく緑の眼が、彼女の傷を覆っていく。

 この事件の終わりは、けして快いものではないだろう。

 玄関先の紫陽花は、雨を含んだ花自身の重さのせいで、くたりとその首を折っていた。

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