一章
第1話桜草
カランコロンとベルが鳴る。
慣れているのか無遠慮に扉を開け放って、ドカドカと入ってくる大きな足音。
同時に
「カノン、頼まれたものを持ってきたぞ」
「あぁ、ウルス
いつもありがとう」
ウルスと呼ばれた男は、成人男性の腰程の大きさの今にもはち切れんばかりに膨らんだ麻袋を、丸テーブルの上の鉢に水を掛けているカノンの隣にズシン、といかにも重いと分かる様な音を立てて置いた。
ツンツンと立ち上がった髪型の焦げた茶色い髪色と、健康的な褐色の肌。
サングラスに隠されていた明るめの緑色の瞳が、愉快そうに細められる。
筋肉質で大柄な体格に少し無造作な顎髭と、口元には禁煙中なのかロリポップのキャンディを咥えている。
黄土色の旅行者が着るようなトレンチコートが今の季節と時間帯には少し……いや、だいぶ似合わない気もする。
まるで熊の様な中年の男。
今が夜であれば彼はきっと美しかっただろう。
「しっかしまぁ、こんなに花を育てて。
お前も物好きだな」
「ウルスも育てて見れば分かるさ。
案外楽しさに目覚めて夢中になるかもよ?」
「残念!
生憎、熊はハニーに夢中なんでね」
「はいはい、ウルスは本当に好きなんだね」
「がーはっはっはっ!」
豪快に笑うウルスとは対照的にカノンはウルスの他者の目も気にしない愛妻家っぷりに苦笑した。
「……っと、それでどうだ。
最近の調子は?」
「相変わらず、かな。
そもそも僕の店は特殊だから。
まぁ、客は選ぶけど。
人間の欲望や願望がこの世に在る限り、この店には必然的に客が来るんだよ」
「ふむ、そうか」
何度も聞いたからか、少しつまらなそうに
カノンはウルスの様子を知ってか知らずか、誘惑する様に口を開く。
「そう言えばこの間、面白いお客さんが来たんだ。
話、聞きたくない?」
「面白い話は嫌いじゃ無い。
……が、客の秘密をそんな簡単に漏らして良いのか?」
カノンのお客さんの秘密を守ろうとしない態度に今度はウルスが苦笑をした。
しかしカノンは気にする風でもなく胡散臭い笑みを浮かべる。
「大丈夫。
身元を明かす訳じゃないから。
それに、ウルスが誰かに話す訳が無いって知ってるからね」
「おぅ、それは信頼されてると思って受け取っておこう」
ウルスはカノンが唯一信頼している存在とも言えた。
付き合いそのものはずっと長いのだ。
「そうだな、あれは数日前だったかな」
カノンはウルスをソファーに座る様に促し、ウルスもそれに従い二人はソファーに深く腰をかけた。
ー数日前ー
「あの……」
カノンのフラワーティーを飲んで幾らか緊張が和らいだものの、それでも口にしずらい内容らしい。
カノンは決して女性客を焦らせず、むしろその沈黙を楽しむように底の見えない笑みを浮かべて言葉を待っていた。
「焦らなくて大丈夫ですよ。
幸い今日はもうお客さんは来ないので。
良ければゆっくりしてって下さい」
「?あ、ありがとうございます。
あの……」
「はい」
女性客は少し戸惑いながら、それでも意を決したように顔を上げる。
「相手にどんなに話しても信じて貰えない話を、信じさせる事は出来ますか?」
「話を聞かない、とかでは無いのですか?」
「はい」
女性客は何かに怯えるように顔を俯かせ胸に当てている手が微かに震えている。
その仕草にカノンは笑みは変えず目を細めた。
「……そうですね。
結論を出す前に。
先ずはもっと詳しく、わかりやすい『花の力』を実感して貰わないといけないですね」
「花の力、さっきも言ってましたね。
私、此処に来たのは広告を見てなんですが、不思議と此処に惹かれて……」
「きっと花の導きですね。
何にせよ論より証拠、です。
少々お待ち下さい」
カノンはそう言うと、おもむろに席を立って奥に入った。
暫くしてカノンが戻ってくると手には何本かのドライフラワーを持っていた。
「……それは?」
「これは桜草のドライフラワーです」
「桜草、何でそれを?」
「桜草の花言葉をご存知ですか?」
「いえ」
「花言葉は花によっては幾つか意味が込められていますが、桜草の場合は【初恋】【青春の歓びと悲しみ】そして【私を信じよ】等があります」
「…………」
女性客は目を大きく見開き、思わず開いた口が塞がらないと言った状態だった。
カノンはその様子にあぁ、これならお客さんの依頼にピッタリですね。
と女性客に聴こえない様にクスリと笑った。
「そ、それで花の力とどう……」
「この花を特殊な方法で花言葉の効果を付与させたお茶や芳香剤、香水等。
その人に合わせた加工品にします」
そういってポケットから試供品とテープの貼られた紫色の小瓶を取り出し、女性客に渡した。
「これは?」
「ある花の香水です。
少しで良いので香りを吸って見て下さい」
「え、はい」
女性客は戸惑いがちに瓶の蓋を空ける。
それは手で扇ぐ必要も無い程に強い香りだった。
香りを微かにでも吸った瞬間。
受け入れてはならない物だと
つまり、それは小瓶が落下すると言う事で――――――パリンッ
花特有の甘さとその花の独特な匂いが、女性客の頭をボヤけさせる。
「な、頭が……」
急にクラクラして。
「…………」
何、これ…………?
女性客は次第に視界がボヤけてくる事に恐怖と焦りを覚える。
「そろそろ良いかな。
お客さん」
カノンは香水の小瓶が割れた事を気にする様子も無く、女性客に声をかける。
「……は、はい?」
ボヤけて歪んだ視界のせいか。
向かいに座るカノンの口元がニヤリ、と歪んだ気がした。
女性客が返事を返したのは意地か、それとも香水の効果か。
「貴女の目の前にあるその鉢を取って僕に渡して下さい」
「………………はい」
女性客はカノンにお願いされると、何かに取り憑かれた様に意識が薄れ、ソファから離れる。
テーブル近くの少し小さな鉢をフラフラ、とおぼつかない足取りで取りに行く。
鉢をカノンに渡す。
一連の流れを確認したカノンは、近くの窓をそっと開ける。
空気が入れ替えられた為か、徐々に女性客は意識が戻り、ボヤけて歪んでいた視界も元に戻る。
女性客は何が起こったのか分からず辺りを見回す。
しかし見えるのは、カノンと向かい合っていたテーブルと、カノンの胡散臭い笑みだけだった。
「い、一体何したんですか!?」
恐怖と警戒心で思わず足が後退る。
「申し訳ございません。
花の力を実体験して貰いました」
「花って、アレが?」
「先程、お客さんに渡したのはフロックスの花の香水です。
フロックスにも勿論。
いくつか花言葉がありますが、その中でも【アナタの望みを受けます】という花言葉に合わせた効果が付与されたのがその香水です。
まぁ、物は言い様ですが、それを人に嗅がせれば誰よりも何よりも優先して無条件で言うことを聞いてしまう効果ですね」
瓶も割れた事ですし、もうこの様な事はしませんのでご安心を。
とカノンは付け足した。
「凄い……あれ?
でもそれならこのフロックスの香水で全ての問題が解決するんじゃ」
「まぁ、確かにそれで良い方も居ます。
ですがお客さんは香水の効果で行動した時、どんな感覚だったかを覚えてますか?」
「それは……」
正直、自分で自分が何をしているのかが分からなかった。
頭はまるでお願い以外、考える事を許さないかの如く思考力は排除された。
まるで絶対に逆らえない命令の様だと思ってしまう程に。
またこの匂いを嗅がされそうになれば、女性客は全力でその場から逃げるだろう。
得たいの知れないものに操られるのが、こんなにも怖く気持ち悪いものだとは思わなかった。
「これは他者の意思や気持ちなど関係なしに従わせるものです。
だから効力が消えれば元通り。
それどころか相手との関係は、より悪化するでしょう。
お客さんの問題が最たるものです。
適材適所って事ですね」
つまり、使い方次第なのだ。
カノンが最初に用意し、女性客に飲ませたフラワーティーの効果は既に切れている。
だが落ち着く効果があったお陰で、今では緊張せずこうしてカノンと話す事が出来ている。
逆にフロックスの香水で緊張を無くしていれば効果が切れた時、カノンに対する不信感と恐怖で逃げていただろう。
そう、言いたいのだ。
「そこで桜草なのです」
「え?」
「ちゃんと目的に合ったものを使わなければ事態は最悪になりかねません。
……出来れば、事情を話していたただけませんか?
大丈夫、他者には漏らしませんから」
それは数日後、簡単に
女性客は暫く考えてから、意を決して頷いた。
「私、友達の誤解を解きたいんです」
女性客は静かに語りだした。
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