第11話 その後の、その後

 規則正しい機械音がする。心電図を図る音だ。

 点滴が落ちている。

 夕日がすでにかげり、病室は少し寒くなった。

「お父さん、交代するから、お風呂、入ってきたら?」

 長女がやってきた。今年、二十歳になる。深雪に似て笑顔の柔らかい娘に育った。

「お兄ちゃん、仕事終わりでまた来るって」

「そうか」

 太郎の頭には包帯が巻かれている。どこかにぶつけて切ったらしいが、絆創膏を貼れる場所ではないので、包帯を巻いているだけだ。精密検査では異常はないが、今は事故の後のショックで痛みを感じないだけだろうからと、会社の方もしばらく休むように言ってくれて、休んでいる。

 太郎が仕事ができないのは、体の不調もさることながら、目の前に横たわっている深雪の様態が心配なのだ。


 三日前だった。

 子供たちも自立したし、二人だけで旅行へ行こうということになった。

 旅の初日は深雪の実家へ行き、学校巡りをした。

 なんでそんな旅なんだと、子供たちに聞かれた時、深雪が、

「押し入れ片付けてきたら懐かしい写真が出てきたのよ」

「やだぁ、何、すごい根暗」

「そう言うなよぉ。お母さん、胸にコンプレックスあったんだから」

 といった写真は、俯いて上目遣いの、猫背の深雪だった。今の、快活で、元気で、とにかく明るい母親の深雪しか知らない子供たちからすればそれは新鮮な写真だったのだろう。

「もしやり直せるなら、このころに戻って、あたしをいじっていた、この女、大っ嫌い。これにビンタくらわして、あとバカにしていた男子を殴るけど。そんなことできないわよね」

 と言った。

「お父さん、こんなお母さん知ってた?」

「会社に入ってきたときはそうだったよ」

「そうなの?」

「でも、その前は知らないなぁ」

「お母さんは? お母さんはお父さんの過去知ってるの?」

「過去って、」

 太郎は苦笑いをする。

「知らない。教えてくれないもの」

「お父さん、写真ないの?」

「え? あー、実家にあるかな。じいちゃんちに」

「なぁんだ」

「あ、じゃぁ、旅行。お互いの学校巡りに行こうか?」

「え? そんなつまらない旅?」

 と娘が言うのを押し切り、深雪は笑いながら、

「おばあちゃんに、お父さんの子供のころのこと聞いてくるわ。あと、初恋の人とかも」

 といった。

 初恋の人。というキーワードで、娘は旅行を後押しした。息子は旅費の足しにと一端にも一万円くれた。

 そして、太郎と深雪は、お互いの実家へ行き、その頃通っていた小学校、中学校、高校巡りをし、当時の生活を話す。という何ともセンチメンタルで、ノスタルジーな旅行をすることになったのだ。


 太郎の高校から、次は大学だと高速に乗った時だった。

 後方から激しいブレーキ音が鳴り、迫ってくる。とっさに、

「頭を守れ」

 と言ったような気がする。

 気付いた時には太郎はベッドの上だった。

 軽い脳震盪を起こしていたので、検査して異常がなければ、明日には退院できると言った。少し頭を切っていたので包帯がまかれていた。

 事故した車は飲酒運転で、スリップして六台の車にぶつかったようだった。太郎たちの車が最後で、後部座席は完全につぶれてしまった。それだけの事故なのに、けが人だけで済んだのは奇跡だと言った。

 だが、一人、深雪だけは意識不明だった。

 CTやいろんな検査でどこにも異常がないというのだが、三日経った今も深雪は起きない。


「あたしが、行けって言わなきゃ」

 責める娘に、お前の所為じゃないと言い、立ち上がる。

「そうよ、あんたの所為じゃないわよ」

 太郎と娘がベッドに近づく。

 酸素マスクが邪魔で外そうとしている。

「あいたたた、点滴の針が、あ、看護師さん呼んで、ボタンで、ほら」

 深雪は声こそ弱かったがはっきりと言った。

 医者の診察で、後遺症があるとは思えないし、明日精密検査をするが、大丈夫なら明後日にでも退院できると言われた。

 泣きじゃくる娘を息子がなだめている。

「ごめんね。でも、ちょっと、起きたくなかったのよ」

 深雪はそういって笑いだした。

「なんで? お父さんが片づけしないから? ご飯作るの嫌になった?」

「はぁ?」

 太郎は反感を込めて聞き返した。深雪は、切なそうに言う娘に噴出し、

「違う、違う。いい夢見ていたのよ」

「夢?」

 太郎と娘と息子の声が揃った。

 どんな夢だと聞いてきた娘に、

「なんか、いい夢だった。気がする。けど、忘れた。でも、楽しかったんだと思う」

 といった。


 ひとまず安心した娘と息子は先に帰った。

「タロちゃん」

 帰り支度をしている太郎に声をかける。

「ん?」

「夢ね、」

「夢? あぁ、忘れた夢?」

「忘れてないわよ。あの子たちの手前、忘れたって言ったの。だって、かなりひどい夢なのよ」

「ひどい? さっきはいい夢だって言ってたじゃないか」

「いい夢だけど、ひどいのよ」

「なんだよ、それ?」

「タロちゃんが高校時代をやり直したいってよく言ってるじゃない? それで、今回の旅で、なんでやり直したいかとか、初恋の相手の話とか聞いたでしょ?」

「あ、あぁ」

「あー、言いたくなかったって顔してる。まぁ、言いたくないわよね。恥ずかしいものね。

 でも、その話を聞いているとき思ったのよ。

 タロちゃんの、あなたの高校時代に私はまだ小学生だったって。その頃出合っていても、あなたはあたしを見つけられないし、あたしもあなたを見つけられない。それがすごく寂しくてね。あと同じ時を過ごした同級生がうらやましいって思ったの。

 そしたらあの事故でしょ?

 夢って、見る直前に思ったことを引きずるらしいの、知ってた?

 でね、あたし、タロちゃんの幼馴染としてそこに居たの。

 タロちゃんに聞いた高校時分の性格とか無視して、あたしが勝手に写真を見て思った性格だから、彼女の性格とか、行事とか怪しいけれど、なんか夢の中で体験してきたのよ。

 その中で、あたしがどれだけ彼女とくっつけようと努力しても、タロちゃんてば踏ん切り悪くて、なかなか告白しないんだもの。

 でもわかった。あの当時に同級生だったら、あたし、タロちゃんを好きになってないわ。って。だって、けっこう優柔不断だし、根暗だし。オタクだし。

 あ、でもあたしが勝手に作った話の中のタロちゃんは、だんだんいい男になってきたんだけど、なんかずっと遠くの方で呼ぶ声がしてて、それが煩くなってきて、もう、いいところなのに。って、でも、なんか、泣いてる子供がいるって思って、子供と、見知らぬ、結局は私がどうにかできるわけない過去でしょ? それも、私は存在していない。虚像と、子供と天秤にかけてのよ」

 と深雪は笑顔で言った。

 たぶん泣いていたのは娘だろうと思う。あの子はずっと泣いていたから。


 精密検査の結果、多少むち打ちのような状況なので、という説明ぐらいだった。どこも悪くないのに、夢が面白すぎて起きられなかったのね。と笑われていたが、内容を聞いた太郎はそれが少し恥ずかしく、そしてうれしかった。

 なんせ自分も同じようにあの頃のことを夢見ていたのだ。ただ、時々、息苦しくて、居たたまれなくなって、もがいて目が覚めたのだが、深雪はそれでも見ていたようだった。


 夫婦で同じ夢で、そこに存在していたのか? までは解らない。

 だけど、今度の旅で、お互い思った。

「波長が合うとか、距離感が一緒とか、同じことを考えている。というのは、結局こういうことなのかもしれないね」

と。


「自転車の後ろに載せてよ」

「いやー、奥さん、あとに十キロ痩せていただかないと、おじさんも年なのでね、無理ですよ」

 顔を見合わせて笑うのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

あなたと見たい空 松浦 由香 @yuka_matuura

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ