第17話

 ――あれからもう三日。

新箱根唯一、いや日本唯一のマスコミかもしれない『おゆおゆ壁新聞』はこう報じた。

『海賊船ロワイヤルII 大破爆発大炎上! 乗客全員死亡⁉』

 いつも見向きもされない壁新聞の前に黒山の人だかりだった。らしい。

――ところで、時を同じくして。

二人の不審人物が早雲山に現れた。

一人は『C』と書かれた赤い野球帽を深々と被り、口には真っ赤なマスクをした女。

もう一人の男は銀行強盗みたいな銀色のニット帽にグラサンといういでたちであった。

「ロープウェイ、往復一五一〇円だって」

「高いなあ。なけなしの金こんなことに使わなくてもいいんじゃないか?」

「ダメ! これは必要経費!」

 二人はロープウェイに乗り込む。誰も乗っていない。貸し切り状態だ。

「うわ……やっぱり結構揺れるな……」

「おおー! 高い!」

「おまえよく下見られるな……」

「見て見て! こっち側もすごい景色だよ!」

「動くな! 揺れる! 落ちる! 死ぬ!」

「えー? 怖いのー?」

 男はシートに座って手すりをしっかり掴んでいる。女は男の手を引きはがそうとした。

「おいコラ! 辞めろこのクソアマ! マジで殺すぞてめえ!」

「へへへ。楽しい」

 ロープウェイは無事大涌谷に辿りついた。

「一五〇〇円もとるなボケナス!」

 男はストレスを大涌谷ロープウェイ駅の駅員にぶつけた。男は高所恐怖症であった。

「ちょっと、やめてよー!」

 二人は大涌谷ハイキングコースを進み、頂上を目指す。

 大涌谷は火山に囲まれた谷。視界いっぱいに山景色が広がる。どちらかといえば木々の緑よりも山肌の茶色の割合が多い。所々黄色くなっている。硫黄の黄色だ。男は思った。これはこれで悪くない景色だ。空気もうまいし、足取りが自然と軽くなる――

「はあはあ……疲れた。足がイタい」

 だが。歩き始めて二十分でこのザマである。

「もうー?」

「うるせえな。俺は病弱なんだ」

「まあいいけどさ……そのために来たわけだし」

「もうちょっと歩けば、売店だ。ちょっと休もうぜ」

 女はしょうがないなーと、肩をすくめた。

 売店に着いた二人は、大涌谷名物の玉子ソフトクリームをふたつ注文した。支払いのお札があんまりくしゃくしゃボロボロなので店員のおばちゃんは非常にイヤな顔をした。

二人は木のベンチに腰掛けた。

「ねえ、ところでさ。帽子とマスク取ってもいい? どうせ誰もいないし」

「ああ。そうだな」

 男と女は帽子とマスク、サングラスを外した。赤い頭と銀色の頭が出てきた。

……そう俺とエミリ。レッドアンドシルバーデビルだ。なんとか生きている。

 船が爆発しちまう前にうまいことゴムボートでトンヅラすることが出来てよかった。

「しかし。さつきの野郎は一体どこにいやがるんだ」

「大涌谷の食堂のカレーが好きとか言ってたから、もしかしてと思ったけど……」

 新箱根中を変装しながら探して三日目。未だ見つからない。湯本ホテルにもかまぼこにも箱根大黒の社宅にもいなかった。まさか死ぬようなタマじゃあねえとは思うのだが。

「おねえちゃん。……早く会いたいな」

 そういいながらエミリは玉子ソフトクリームに口をつけた。


 大涌谷ハイキングコースの終点、『玉子茶屋』で買うことのできるゆでたての黒玉子。今回大涌谷に来た目的だ。茶屋の近くにはボロボロの木のテーブルが野ざらしで置かれている。そこに座ってエミリが買ってきてくれるのを待つ。

ほどなく。エミリが黒玉子五個入りの袋を五袋ほど持ってきてくれた。

「いくらなんでも買い過ぎだろう」

「だって寿命伸ばさなきゃ! 体弱いんだから」

 黒玉子には食べると七年寿命が延びるという伝説がある。伝説ということはつまりウソということだ。エミリが殻を剥いて俺の口にアーンと放り込んでくれる。

「美味しい?」

「うまいよ」

 通常のゆで卵よりも、白身、黄身共にトロっとして、コクがあり旨い。気がする。エミリはニコニコしながら、器用な手つきで次々に殻を剥き、中身を俺の口に運ぶ。

「えーと……これで二十八年か」

 天使みたいな笑顔で、死神みたいに指折り俺の寿命を数えている。

「はァ。よかった! とりあえずは安心した!」

 俺の頭にガシっとコブシを乗せた。

「おまえも食べてみろよ」

「うっ……。いや! 私はいいの! これは健太郎に買った奴だから……」

 一個手渡したら。なんだかんだ食べた。大変幸せそうな顔。旨いのだろう。

「エミリ。ありがとうな。なるべく体、気を付けるようにするよ」

「うん! タバコもやめたし大丈夫だよ!」

 今のところは……ガマンしている。金もないしな。

「まあでも。最近は以前よりはだいぶん調子いいよ。やっぱり温泉って偉大だな」

「うんうん! よしそれじゃあ、もう一袋!」

「いや、とはいえちょっともうキモチ悪いというか……」

「えー?」

「残りはまた後で食べるよ」

「ウーンまあそれでもいっか、二十八年以内に食べれば。じゃあそろそろ戻ろうか」

 エミリは残った玉子の袋を持って立ち上がり、俺に背を向けた。

「……エミリ。すまんな」

「えっ? なにが?」

「負けちまって」

 エミリがこちらを振り返った。

「あいつらぶん殴ってすっきりはしたけどよ。金は取られた。奴らに致命傷を与えられたってわけでもない。完敗もいいところだ」

 エミリは眉をしかめて、頬を膨らませている。

「結局勝ったのに権力で握りつぶされたって形になっちまった」

 エミリは俺に近づき。

「おまえの言う通り、やめておいた方がよかったな」

 ほっぺたに軽く触れるくらいのビンタをする。

「痛て……」

「健太郎は後悔するの? 私は後悔しないよ。あなたに付いて行くって決めたこと」

「……すまん。つまらんことを言ったな」

「うん! つまらん! でもね。愚痴を言ってくれるのは嬉しいよ」

「そういうもんか?」

「うんうん」

 そういいながら、椅子に座る俺の頭を撫でた。

「まあいいじゃない! 生きてたんだから」

「確かに。二人とも死んでいても少しもおかしくなかったからな」

「そうだよ! 生きていればいつかリベンジできるよ!」

 エミリはなぜか弓を引き絞るポーズを取った。

「そうだな。寿命も延びたしな」

「それに! 謝るよりさ、お礼でしょ」

「そうだな。ありがとうよ。おまえのブラジャーマネーのおかげで助かったよ」

 エミリが万が一のために、自分のブラジャーの中に俺にすらナイショで、左右五万ずつ丸めて忍ばせておいてくれた。おかげで当座はしのげている。

「まさか普段全く役に立ってないおまえのブラジャーがこんなときに役に立つとは」

 今度はわりとガチめなビンタを喰らった。


 俺たちはロープウェイに向かって走った! もう少しで出発してしまうらしいからだ

――だが無慈悲。乗り場についた俺たちをあざ笑うかのように、乗客一人を乗せたロープウェイは出発していく。俺たちを置きざりにして。

「クッソ! ファック! あとちょっとだったのに!」

 エミリが指を弾きながら叫んだ。

「てゆーか! あの女……! ちくしょう! ロープウェイ止めるしかねえ!」

 俺はUターンし、ロープウェイの制御室に乱入した。そして拳銃を構え叫んだ。

「おい! ロープウェイを今すぐ止めろ! そして戻せ!」

「あれ⁉ 星月健太郎の兄ィ⁉ 生きていたんかいワレ!」

 制御室のおっさんが俺の『ファン』だったようで、快く承ってくれた。


 再出発したロープウェイは、大涌谷から早雲山に向かう。

「もう! ムチャしすぎだよ!」

 隣に座ったエミリが俺の肩を思いっきり叩く。

「突然逆走し始めたから、なにごとかと思いましたよ」

 対面に座ったさつきがクスクスと笑う。

「だって次いつ会えるかわからないだろう」

「携帯電話がないって不便ですねえ。私の方でも散々探してたんですよ」

「それでかまぼこや社宅にいなかったのか」

「お互い探してたから、かえってすれ違っちゃってたんだねえ」

 さつきは健康そうなぷっくりとした頬をゆるませて、穏やかに微笑んでいる。

「ま、生きていてよかったよ」

「うん! ホントに!」

「そうですね。お互いに」

 三人で握手を交した。

「しかし雰囲気変わったなァ。おまえ」

「そうですか? 昨日、髪切りましたからねえ」

 サラサラした茶色い髪は肩ぐらいまでの長さ。こういう髪型はボブカットというのだっただろうか。服装もいつものクロズクメじゃなくてブラウンのコートにピンクのマフラーをして爽やかな印象。でも両手人さし指の包帯が痛々しいなァ。なぜか大荷物で、大きなキャリーバッグに加え、隣の席にジェラルミンケースのようなものを置いている。

「すっごく似合うよ! なんかね。ふわーっと柔らかいかんじ!」

 さつきは照れたように笑った。

 まあそれは兎も角。この野郎には少々聞かなくてはならないことがある。

「しかし。お互い災難だったな」

「ええ。私、船から飛び降りて泳いで逃げたんですよ!」

「すごい体力だねえ。てゆうかアレか。おっぱいが浮くのか」

 ……とんでもない野郎だ。しかしそれよりも。

「俺たちゃ、殆ど無一文になっちまったよ。勝金はもちろん。原本も戻ってこないんだからひでえ話だ」

 さつきをじっと見つめながら言った。

「エミリがブラジャーの中にこっそり入れておいたお金でなんとか当座は凌いでるが」

「なるほど。それであのとき胸が膨らんで見えたんですね」

「あーあ。俺の一千万円はどこ行ったのかなー?」

「船が爆発しちゃいましたからねえ。お金も燃えちゃいましたかね?」

「そうだな。誰かが持ちだしてなければ、燃えてるな」

 わざとさつきから視線を逸らし、窓の外を見た。

「あのときよお。スキを見てな。お前ん所の社長野郎のポケットをさぐったんだがな。既に一千万は無くてな。ビックリしたぜ」

「へーよくあの乱闘中にそんなスキがありましたねえ」

「でな。今思えばなんだけどさ。俺が奴のポケット探るより前に社長に駆け寄った野郎がいたんだ」

「へー誰ですか? 野郎ってことは男性ですよね?」

「とぼけんなこのアマ!」

 俺はジェラルミンケースをビシっと指さした。

「とぼけるつもりなんてありませんよ。これを見せるために探してたんですから」

 さつきはゆっくりと勿体つけながらジェラルミンケースを開けた。

中には二列×五行の札束が入っている。エミリの口がまん丸く開いた。

「やっぱりな」

「さてどうしましょうか。私としてはこのケース、差しあげてもいいんですけどね。勝負には負けましたから」

「そりゃあ気に食わねえな。てめえに巨大な借りを作ることになる」

「じゃあ?」

「勝負だろうが」

 さつきをヒトゴロシの目で睨み付ける。

「そうこなくっちゃです。なにで勝負しましょうか? 雀荘に行きます?」

「いや。てめえとヤってやろうと思って用意した奴があるぜ。今すぐこの場で出来る」

「じゃあそれでいきましょうか。今日ちょっと時間があるのでその方が助かります」

 腕時計を見ながら言った。

「で? どんな競技ですか」

「実はな。小泉の野郎の持ち物をパクっていたのは、俺もなんだ」

 そういいながら俺はカバンからリボルバー式の拳銃を取り出した。

さすがのさつきも表情が固まる。

「弾がまだ一発残っている。これをこうして入れてだな。ここをクルーっと回転させる。これで交互に自分の頭に銃口を当てて引き金を引く。それだけのゲームだ」

 顔から血の気が引いている。

「いわゆるロシアンルーレットだ。こいつァ、スリル抜群だぜ。見てのとおり、弾丸の色は銀色だから、おめえもエミリも見通すことはできない。フェアだろう?」

 さつきはバーンと立ち上がった。

「なに考えてるんですか! 死ぬじゃないですか! おかしくなっちゃったんですか⁉」

「そうだよ」

「そ、そうだよって!」

「一度、一千万円なんてかけてヤッちまうとさ、もう麻痺しちまってちょっとやそっとじゃあ興奮しなくないか? それこそ命でもかけねえと」

 愛おしそうに銃を撫でながら言ってやる。

「あ、あ、あ、あ」

 もう言葉にならないらしい。目からは涙が滲んでいる。

「なんだ。怖いのか? 仕方ねえなあ。ハンデとして俺が先にヤッてやるよ」

 立ち上がり、銃口をコメカミに押し付ける。俺は引き金を引い――

「ヒイイヤアア!」

 さつきが奇声を上げながら、猛牛のような勢いで俺の胸辺りに抱きつくようにタックルを食らわせる。イスに背中をしたたかに打ち付けられる。

「あなたは最低です! あなたが死んだらエミリちゃんはどうすればいいんですか⁉ それに私だって! あなたに希望を貰って、生きていこうとしたところなのに!」

 とんでもない大声。

「ねえやめようよ……! こんなこと……! 私の負けでいいから……!」

 目からは滝のような涙。そして万力のような力で俺の体を締め付ける。

「ぐええ! わかった! 俺が悪かった! だから離してくれ!」

 さつきが力を緩める。俺も銃をおろした。

「勝負は俺の勝ちでいいんだよな? ケースは貰うぜ」

 ジェラルミンケースをひょいっと持ち上げエミリに渡した。

「健太郎サイテー……」

 さつきは再び俺に抱きつき、えっくえっくと泣く。

 ……なかなか開放してくれない。なんかが当たって、心地いいと言えばいいのだが、エミリの前でこれは少々気まずい。

「もう泣きやんでくれよ」

「だって健太郎さんアタマおかしくなっちゃったからエミリちゃんが可哀想で……」

「おかしくなんてなってない!」

「なってるじゃないですか! さっきのあの銃を構えたときの目! 脅しなんかじゃなかった! マジの目だったじゃないですか! 私が止めなかったら撃ってたでしょ!」

「仕方がないなあ。ネタばらしをしてやるよ。但し金は返さねえぞ」

 さつきを引き離し、拳銃を開いた窓に向かって構えた。

「スカ」

 引き金を引く。シリンダーだけが回転する。弾丸は発射されない。

「スカ」

 ふたたび同じことが起こる。

「次だ」

 銃声。弾丸はふわーっと空を飛び、やがて山景色に消えていった。

 さつきは目をぱちくりさせている。

「えーと……? その、回転の角度を調整してるってことですか」

「ちげえよ。そんな器用なことできるか。よく考えてみればわかる。おまえ、不思議に思わなかったのか?」

「な、なにをですか?」

「俺がおまえらの透視能力を受け入れていること。それどころか『見抜いた』ことをだよ。普通は気のせいとか偶然としか思わないぜ」

「ど、どういうことです?」

「まだわからねえか? 鈍い奴。じゃあもうひとつ」

 さつきのハンドバッグを指さした。

「財布に入っている百円玉の数。四枚」

 さつきは慌ててバッグから財布を取り出し、小銭入れから四枚の百円玉を取り出した。

「名づけてシルバームーンアイ! 俺の両目からは銀色は隠せない」

 自分の目を指さして言った。

「あっ自分だけかっこいい名前を」

「博打じゃあ殆ど役に立った試しがねえんだよな。おまえらが羨ましいよ。しかしな。正式名称やら、公式な組織やら集会やらがあるなんて知らなかったぞ」

「アレはダンシキンセイだから」

「……エミリちゃんは知ってたの?」

「私は気づいた。結構早い段階で。あのね」 

 財布から懐かしい、ロイスチェン共和国の百カイチン玉を取り出し、さつきに渡した。

 数字の書いてある面が赤色、絵がかいてある面は銀色になっている。

「初めて出会ったときに、これでコイントス勝負をしたの。お互いに一切外さなくて勝負がつかなかった。すぐには気づかなかったけど、後から考えたらおかしいなあって」

「なるほど……」

「健太郎イジワルして、仲間になってからもしばらく黙ってたんだよ!」

「だからイジワルじゃないって! 本当に仲間になる前におまえが見抜くから……!」

 さつきと雀荘で闘ったあの夜。あれより先に見抜かれたという意味だ。アレより前じゃあ軽々に自分のコトを話せないのも仕方がなかろう。でもエミリの野郎はそのことをずーっと根に持っているのだ。

「ごめんね。お姉ちゃんには一応黙っておけって言われてて……」

「なるほど。そのことが今になって生きたというわけですか」

 さつきはコインを右の親指でピーンとトスし、それをキャッチした。

 そして少し切なそうに自分の掌を見た。

「いいなこのコイン。赤と銀で寄り添って。まるで健太郎さんとエミリちゃんみたい」


 早雲山に降りると。お迎えのお車が到着していた。

「霊柩車だけにコレがホントのお迎えですね」

「おまえそういうダジャレ言う奴だったっけ……?」

運転席には霊柩屋。肩に包帯をした庵田が、助手席でエラそうにふんぞり返っている。

「せめて上に乗ってる御神輿みたいな奴とらなくて大丈夫なのかな?」

「庵田は多分、俺たち以上に重罪だろうにな」

「あれー⁉ 健ちゃんとエミリちゃんですよね! なんで変装なんかしてんですか⁉」

「おおー! 生きていたんかいワレ! とりあえず乗れや!」

 ――霊柩車は生きている人間五人を乗せ、山道を走っていく。後部座席に左から俺、エミリ、さつきの順に座った。

「湯布院?」

「ええ。とりあえず。そこに身を隠すんです」

 湯布院は九州にある大型温泉郷。数少ない大黒天グループの支配が及んでない地域であるらしい。

「なんだか小泉の野郎が小田原城を襲撃しようってハラらしくてな。襲撃してみたら猿しかいませんでしたってことにしてやろうと思ってな」

 庵田はくっくっくと笑った。

「ちっなんだ。あの野郎生きてんのかい」

「お猿も連れて行ってあげなよ!」

「しかし、なにもそんなに遠くまで行かなくてもいいだろう」

「健ちゃんもそう思うでしょー?」

「一回行ってみたかったんだよ。こんな機会でもないとなかなか行けねえからな」

 霊柩屋は深い溜息をつく。

「健ちゃんたちはどうすんですか?」

「熱海に行くつもり。さすがに新箱根はほとぼりがさめるまではキケンすぎるから」

「へえ。熱海いいですね。あそこにね、おいしい海鮮丼屋があるんですよ、特に生しらす丼が名物です。今でもあるか分からないですけど」

 さつきが口を挟む。一つギモンが産まれた。

「さつき。これに乗ってていいのか。箱根ドンドン遠ざかってるぞ。帰りどうするんだ?」

「いえ。帰りませんので。私愛知県の犬山温泉に行こうと思ってまして」

「湯布院行くにゃあ通り道なんで乗せてやろうっつって、待ち合わせしたんですよねえ」

 と、霊柩屋。俺とエミリはポカンと口。

「私、箱根大黒辞めたんです。おとつい」

『えええええ!!!!!』っと、俺とエミリの二重奏。

「それも辞表もなんにも出さずにとんずらしてやりました! クソざまあです!」

 あっけらかんと言った。なんていう百万ドルの笑顔であろうか。声のトーンも異様に高くてなんか怖い。

「本当にあの会社はマジにクソったれですからねえ、辞めるのに金がかかるんですよ! 百万円も! イミワカンナイですよね! ファックです!」

エミリと、お互いに少々戸惑った顔を見合わせる。

 そして。さつきは急にトーンを落として言った。

「健太郎さんたちが箱根大黒と闘っているのを見ててね。思ったんです。私だって一人で闘えるかもしれないって。そうしたらね。自分がやりたくもないことやって奴らに加担してることに腹が立っちゃって、情けなくなっちゃって、悲しくなっちゃって」

 拳を握りしめるさつき。

――エミリがその拳に手を乗せる。

「よかったね。その方がお姉ちゃんはきっと笑顔でいられる。私はそう思うよ」

 そういって頬にキスをした。

「そう……だよね!」

 どうも少し浮かない顔に見えた。

「じゃあ返そうかこれ。いろいろとイリヨウだろう?」

 足もとのジェラルミンケースを指さす。

「いえ。それは健太郎さんたちが持っているべきです」

 さつきは首を横に振った。

「だって。あれだけ頑張って、一千万かき集めて。真剣勝負をしたんですから」

 うすのろバカマヌケ、レッド・オア・ブラックでの死闘を思い出す。

「そこを捻じ曲げちゃダメだと思います」

「……そっか。いいこというな。たしかに許せねえよな。そこを捻じ曲げるのは」

 海賊船上での小泉の野郎の行動を思い出していた。

「本当ならもう一千万円あったはずなのに。返せなくてごめんなさい」

 さつきは泣きそうな顔で俯いた。

「なんでお前が謝るんだよ」

「そっ、そうですよ……ね」

 さつきの声が裏返る。霊柩車が笑いに包まれる。

「お姉ちゃんは、その、今後どうするつもりなの?」

「私なりに大黒天と闘っていきたい。そう思っています。でも。まだそのやり方はわかりません。健太郎さんたちが博打で直接対決するなら。私はなにか別のアプローチも試してみたいなあなんて」

「いいじゃねえか。なんでもやってみりゃあいい」

「奴らに対抗する会社を立ち上げるってのはどうだ⁉」

 青年実業家、庵田が提案する。

「いいですね! そしたら私を雇って下さい!」

 霊柩屋が社長の目の前で非常にマジなトーンで言った。

「はい! ヘッドハンティングします!」

「庵田あ、社員を大事にしない会社はこうやって人材を失うぞ」

「うるせえ! 大事にしてるわ! たまに飲みに連れて行ってるし!」

「割り勘じゃねーですか! いつも!」

 ――しかしうるせえ霊柩車だ。

「そうだ。健ちゃんたち、ついでに熱海で寄って降ろしてやりますよ!」

「おお悪りいな」

「ありがとう!」

「社長、いいですよね?」

 庵田が少々思案して。それから提案した。

「いや。熱海でみんなで降りてよ。一泊しねえか? なにも急ぐことはねえ。熱海の温泉にも入ってみてえや」


 ――深夜の三時。目が覚めた。熱海の旅館。

(アタマいてえ……)

 庵田の野郎がアホみたいに飲ませるものだから、頭痛がひどい。

 四人は安らかに眠っているようだ。俺は。ちょっとひとっぷろ浴びてこようかな。

(一応こいつは持っていくか)

 さつきにもらったジェラルミンケースと一緒に風呂に入ることにした。


 やはり露店風呂は温泉の王様だ。

 動物で言えばライオン。果物で言えばドリアンであると言える。

 脱衣場から素っ裸で屋外に出て。俺達はまず体をしめつけられるような寒苦を味わう。

 でもそんな俺達の前に現れる、もうもうと立ち込める湯気。

 そこに足を踏み入れると我々の足、そしてやがて全身に寒暖差による痺れが広がる。

 やがてそれは『ヲぉーう』などと唸らずにはいられない、暖かさという名の快感に変わっていく。

「……それに。今はアッタカイのは体だけじゃねえんだよな」

 手元にあるジェラルミンケースをパカっと開ける。

「札束って美しいなあ」

 ……どうしても一人で温泉に入ると独り言を言ってしまう。

 うすのろバカで勝った後は、こんな風にお金がいっぱいある喜びを噛み締める余裕はなかった。今。俺は結構シアワセだ。

「混浴は混浴でも人間とお金の混浴じゃあ。がはは」

ジェラルンミンケースを湯船に浮かべて遊ぶ。

「やめよう……湿気る」

 エミリのブラジャーマネーみたいにくしゃくしゃになってしまう。ケースを閉じて、湯船から出した。どうもまだちょっと酔っているようだ。

「アレ?」

 そのとき。なんかの違和感が俺の脳味噌を突き刺す。

 ――それの正体を割り出すのにしばらくかかった。

俺がちょうどそいつを突き止めたとき。

ガラガラと引き戸を引く音がした。ちょっとドキっとする。

ま、確かにこの露天風呂は混浴ではある。だがこんな時間に一人で入ってくる若い女なんてまずいないだろう。とはいえ。俺の目は自動的に入口の方をギロっと振り返る。

「キャーッツ!」

「キャーじゃねえよバカ!」

 バスタオルで前も隠さずに風呂に入ってきた若い女は慌てて脱衣場に戻っていった。


 さつきはこんどはちゃんとタオルを巻いて入ってきた。俺はそれを凝視する。

「後ろ向いてて下さい!」

 ――しかたねえなァ。ケツを軸としてくるっと半回転してやる。

ちゃぽんと音がしたのでそちらを向き直した。

「お前な。エミリも言ってたけど。ちょっと無防備すぎるぞ」

「ごめんなさい……」

「男が入ってるのは脱衣場で分かっただろうに」

「ちょっとお酒でぼうっとしてたかもです」

 飲ませないように気を付けていたのに、庵田の野郎、面白がって散々飲ませやがって。

「はあ。でも。熱海の温泉も、いいですね」

幸か不幸か湯船は白く濁っているので今は目のやり場に困ることはない。

「やっぱり海から温泉が沸くから熱海って言うんですかね?」

「そうなんじゃないの?」

「熱海って言えば花火大会が有名でしたけど、さすがに今はやってないでしょうねえ」

 さつきがチラっと横を見た。どうやらジェラルミンケースに気づいた。

「こんな所まで持ってきたんですか? 意外と心配性なんですね」

 クスクスと笑う。

「湿気ちゃいますよ。おさつ」

「そうだな。湿気。エミリがブラジャーに隠してた金なんか湿気てボロボロになっちゃってさ。今日それで払ったら大涌谷の売店の婆さんに嫌な顔されちゃったよ」

「ははは。そうでしょうね」

「しかし、どういうわけだろうな。このケースの金は全然湿気てないんだよなあ」

 さつきと目を合わせた。奴はあからさまに目を逸らした。

「おまえ確か泳いで逃げたって言ってたよな。よっぽど耐水性のあるでかいカバンでも持ってたのか」

 さつきはそっぽを向きながら髪の毛をかき上げる。

「ルイヴィトンのスーツケースって水に浮くらしいですね」

「らしいな。アレっていくらぐらいするんだ?」

「百万とかするらしいですよ。ちょっと手が出ませんよね」

「箱根大黒ってドンぐらい給料貰ってたんだ」

「手取りはせいぜい三十ってところですね」

「なんでそれでこんなに貯められるんだ?」

「……殆ど使ってませんでしたから。あとはかまぼこでの勝ち金です。九十パーセントは上納しなきゃいけなかったんですけどね」

「九公一民か。ひでえ割合だな。普段はこんな大金どこに隠してたんだ?」

「社員用の金庫が」

 ――長い沈黙。さつきの顔はドンドン赤くなっていく。

「私が見たときには社長のポケットにはもう無かったんです。多分ボディガードに渡してたんだと思います」

「そうなると……あの一千万円は奴らに渡ったってわけか。そのボディガードが生きていればだが」

 さつきが顔で手を覆う。そして嗚咽を漏らす。

「おいおい! なんで泣く必要がある!」

「だってあんなに頑張った健太郎さんたちが、なにも得られない。全て失うなんて許せなくて……!」

「だからって……」

 なおも嗚咽を漏らす。

「おまえだって頑張って貯めたんだろう? この金。こんなモノ受け取れねえよ」

「そう言うと思ったから――! うああぁぁ!」

 どんどん嗚咽が激しくなっていく。

(仕方ねえな……)

 俺はさつきの肩に手を回した。

(これくらいはいいよな……やわらかい……)

「いいか。おまえは真面目すぎる。いくら社員だったって言ってもな、他人がしたことにそんなに責任なんか感じるなよ」

 肩がピクンと揺れた。

「もっとテキトウになれ。でないと世の中を渡っていけないぞ。周りにいい先生が一杯いるから」

 俺、エミリ、庵田、霊柩屋。テキトウなことに関して海千山千の猛者ばかりだ。

「……それだけじゃないんです。私、あなたのためになりたいんです。あなたの目的、夢のために」

 俺の目をジッと見つめた。

「受け取って下さい」

「ダメだ。こいつはおまえが自分の幸せのために使え」

 ――さつきは眉をしかめたかと思うと、突然立ち上がり、俺にお湯を蹴りかけた。

「私の幸せなんて! あなたが言わないで下さい!」

 ものすごい大声がやまびこのように反響する。

さつきはケツを丸出しで脱衣場へ去ってしまった。顔をタオルで拭き、追いかける。

「しっかし、ホントありゃあおめえ、無防備にもホドがあるぞ」

 なんつーかもう、全部見えた。


 とりあえず部屋に戻って見たがさつきはいなかった。

(……うーむどこに行きやがった)

随分探し回らされた。ロビー、屋上、お庭。もう一回風呂場に戻ってみたり。

(――やっと見つけた)

奴はゲームコーナーの麻雀卓に突っ伏していた。

「雀卓が落ち着くの?」

「はい。少し」

 さつきは卓に顔をつけたまま言った。

「変な奴だな。全く」

「その愛情に溢れた言い方やめてよ。逆に傷つきます」

「難しいなァ」

「……ごめんなさい。あなたはなにも悪くないのに。私ってホント最低ですね」

「そんなことねえよ。おまえの変な性格けっこう好きだよ」

 対面の椅子に座った。

「俺の方からも謝らせてくれ」

「やめてよ。惨めじゃないですか」

「いや、なんというか、そういうんじゃなくてな。お前が俺たちの一千万をネコババしたなんて疑って悪かったなと思ってさ。事実は全く逆だったのにな」

「考えて見れば……そうでしたね。ムカついてきました」

 さつきは顔を上げた。兎みたいに真っ赤な目。

「初めから上げるつもりだったのに、わざわざインチキロシアンルーレットでハメたりして! 私をなんだと思ってるんですか! 物凄い悪人だと思ってるでしょ!」

「悪かったって! そのお詫びにコレはやるよ」

 ジェラルミンケースを卓に置いた。

「ありがとよ。おまえはいいヤツだな。これからも変わらずに、な」

「……持ち金十万ぐらいしかないんでしょ? 大丈夫なんですか」

「ちょっと心細いが、なんとかなるさ」

 さつきはジェラルミンケースを開け、札束をひとつ掴んだ。

「これだけ貸してあげます」

「いいって!」

「ダメ! 持っていって! 受け取らないと刺しますよ!」

 無理矢理そいつを握らせてくる。

「なんで⁉」

「だって! 博打とエミリちゃんのことにばっかりかまけて! 私のことなんかコロっと忘れそうじゃないですか!」

「どういうこっちゃ! そのココロは!」

「返しに会いに来てくれると思って!」

 両手をガッチリと握られた。ガキみたいに頬を膨らませて俺を睨んでいる。

しょうがねえなあと、札束を受け取った。

「へへ。健太郎さんも大概マジメだからね。これで会いに来ざるを得ませんね」

「こんなもの無くても会いに行くって!」

「ウソ!」

 今度は俺が溜息をつきながら卓に突っ伏してしまった。こいつといると、面白いけど疲れる。さつきは俺の横に立ち俺の頭に手を乗せた。

「ありがとう。健太郎さん。私もっと強くなります」

 そして頬に口をつけた。

「……この野郎」

「こういうの気にしそうだからね! 嫌がると思ってやりました! ざまあみろ!」

 手をパチパチさせながら、まあ笑うこと笑うこと。まるで憑き物が落ちたみてえに。

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