1日目 菱日崎 総一郎
朝から、移動というのは体に痛みを伴うことがある。
単純に、体がまだ目が覚めていないのだと思う。朝ごはんはベーグルだと決めているのに、結局食べきることができなかったし、ブラックコーヒーを注文したにもかかわらず、そこにはミルクが入っていた。
僅かではあるが。
その僅かが重要なのだ。
何せ、私の朝のルーティンというのは、とても重要でその日の集中度合いを決定づけるものになることが多いのだ。ベーグルを一つ食べきれなかった日は、大体忘れものをするし、ブラックコーヒーに口を付けられなかった日は、まず、ろくな事件にで出会うことはない。
ろくな事件というのは、つまり私にとっては、ということだが。
万引きであるとか窃盗、そのあたり、ということになる。
血がたぎらない、などという言葉で表現することではないが、警察という組織の一員になった者として余り楽しめない状況ではある。なるべくなら、このような問題に余り頭を悩ませたくはないし、できる限り遠ざけたい。それこそ、後輩、もしくは先輩に処理してほしいものだ。
私は、愛用の車に乗って現場へと向かった。パトカーを使わなかったのは余り好きではなかったのと、後輩からの人望が薄いためだ。近所で起きた事件の場合は、そのまま直行する様に言われてしまう。
面倒なことだが、朝から顔を合わせる必要がないので、楽と言えば楽だ。
警察という仕事自体の娯楽性は感じていても、別段、それに生き様を乗せるということはしていない。
そもそも、普通であれば、自宅の近くの事件の解決など回されるわけもない。
だが。
私は別である。
こういうところにも赴くという仕事。
面倒以外のなにものでもない。
私が若かったころには全く理解のできない仕事に就いている。
ちなみに、この仕事は決して非現実的であるとか、秘密警察のような荒唐無稽な機関ではない。警察内部の組織構造を知っていれば自ずと察することのできる部署である。余り、大きな声で言うような仕事ではないが、その仕事を知らない者はいない。
ある程度、エリートでなければそこに配属されることはない。
「先輩、遅いです。」
知ってる。
私は現場へと足音を立てて近づいていく。
閑静な住宅街、という一見、非日常的な事件というものからは無縁な、どこにでもある場所でどこにでもある出来事は生まれた。
第一発見者は、隣の住民。
第二発見者は、その隣の住民。
あとは、知らない。
というか、第一発見者も、第二発見者も大した証言はしていないそうだ。近所づきあいも希薄な場所であるからこういうことになる。とても安全でプライバシーの守られた素晴らしい町だろう。問題が起きれば解決に乗り出すのに、何重にも壁が生まれるが、そもそも問題が起きないと高を括ればここまで満足のできる場所もない。
「先輩は、この事件についてご存知ですか。」
「虐待だろう。」
「はい。そうです。」
「母親が自分の子供を虐待。よくあるな。普通に、どこにでも。」
「はい、ありふれたことです。情報もたいして他の事件と何ら変わりません。一応、詳しい情報もありますが、目を通しますか。」
「外はまともそうなのに、中はゴミ屋敷か。」
白い外壁に、茶色い門扉、青々とした庭は、やけに清潔だった。
外から見れば、の話だが。
扉を開け、窓を開け、中を覗く。
靴とタイヤ、大量の本と、画用紙、服と鞄、その他諸々が玄関から散乱していた。ただし、そのどれもが汚くなかった。大体、こういうものというのは埃を被っているものだが、ものが散乱しているだけで、清潔感は保てている。
つまり。
ここにこれが置かれていることが正しい。
この場所で。
母親が。
子供を。
虐待。
「子供は虐待された。」
「子供も含めて、母親だって何かの被害者ですよ。」
「何かってなんだ。」
「なんだっていいんですよ。でも。」
「でも。」
「子供が、可哀そうです。なんか、こういう事件、やっぱりへこみますね。なんていうか、こう、一本線をひいてこちら側にいたかったんですけど。」
よく見ると、壁がへこみ、床には傷があった。殴打、切り傷、そのあたりだろう。物を他の物に向かって投げるということはしなかったようだ。ということは、この場所、この散乱するもの自体がこの家の中の人間たちにとって、ステータスやプライドを象徴するものだったのか。
散乱しているのではなく、どこにいても自分たちの築いてきたものが見えないと精神を優位に保てない。
「死んだわけだしな。」
「は。」
「死んだんだろう。いや。」
「こ、殺されました。」
「殺されて幸せになれたのかもな。死体は。」
「押し入れの中でした。」
パトカーも救急車もただ来て帰っただけだ。
もう、この家には誰もいない。
家に上がり、左は床の間、右はトイレ。
廊下を抜けると小さな中庭を囲うようにダイニングスペース。台所は何故かとても綺麗でシンクには丁寧に皿に乗せられたまま水浸しになっているピザがあった。
「二十二。」
「いえ、二十八枚です。」
ピザと皿が交互に重なり二十八枚。
蛇口の先がホースのようになっているタイプであるため、一番上のピザに蛇が体を預ける様にした上で口から水を吐き出し続けている。
「二階は。」
「あれは、登れませんよ。」
「ゴミか。」
「紙です。」
「紙。」
「星新一という小説家のおーいでてこーいという話の全文が書かれた紙が溢れてて。」
「溢れてて。」
「二、三。」
「千。」
「いえ。万です。」
「やめておこう。」
少しばかりの沈黙ののち。
「死体を。」
「見ますか。」
私は後輩の後を付いていった。
「こちらの方が早いので。」
中庭を突っ切るようにして歩き、小さな扉を開けるとまた長い廊下だった。外観と比べても室内の方が圧倒的に広く感じてしまう。おそらく、廊下自体を主に置いて家を作っているためだ。
歩くための家だ。
とどまるためではなく。
歩かせ続けるための家だ。
和室だった。
緑色の畳に、黒い縁、金色の刺繍のようなものがあり、知識は特にないが縁起の良さそうなものであると解釈した。白い漆喰は荒く、けれど砂漠の砂のように滑らかに感じられる。
襖は引き裂かれていた。
何の説明がなくとも、一目で確認できるほどここが現場なのだと、空間が主張している。血まみれであったが何か肉片であるとか髪の毛、皮膚、爪のようなものがある訳ではない。乱暴に赤く塗られている、と言う方が幾分か正しい。
「この中で、母親が死んでいました。」
そして。
数時間後。
事件は私の手から離れた。
初動だけだった、ということである。このようにして何も起きずに、ただ何かが起きたという確認だけで一日が終わる場合もある。平和的であるし、それが何より望ましいという考えも分かる。
建前として、まだ勤務時間のため愛用の車の中で時間を潰していた。
三十分もしないくらいだろう。
扉が開かない。
体が動かなくなる。
睡魔ではなく、気絶を一分の間に何度もする。
フロントガラスに白い液体が泡のように生まれて、張り付いていく。
バックミラーを見た。
私の娘と一緒に手を繋いでいる誰かがいた。
舌打ちが出る。
殴った拍子に眼球を潰してしまって、外に出歩かせなくなってしまったので、娘の頬を何度も叩きながら外に出るな、と躾けて家の中にしまっておいたのに。
あんな小学生の男の餓鬼に、唆されて勝手に外に出たのか。
「死ね。」
私がそう呟くのと同時に、後部座席に二人は乗りこんできた。
小学生の餓鬼は微笑んでいた。
丁寧に扉の鍵を閉めて、娘は後部座席。
小学生の餓鬼は車のエンジンをかけてから、私の足元に入り込むとアクセルペダルを強く押し込んだ。
車が跳ねる様に動き出し、真っすぐに進む。
ひたすら真っすぐだった。
餓鬼の口が開く。
アクセルペダルをもっと強く押し込んでいく。
餓鬼の口がまた開く。
車の速度が緩やかになると、代わりに四方八方からクラクションが鳴り響くのが聞こえる。しかし、反応はもうできなかった。
餓鬼の口が。
開いた。
「そして。」
「僕は今日絶対死ぬ。」
Amazon Blue エリー.ファー @eri-far-
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