第三話 闇の目覚め(4)
「くそっ!」
撤退した男子生徒は、薄暗い雑木林のなか、木の幹に八つ当たりするように拳を叩きつけ、忌々しげに顔を歪ませた。
何度も悪態をつき、鬱憤を晴らそうとするも、苛立ちは積もる一方だった。
(あの女さえいなければ!)
男は火の国出身の火使いで、自国では成績も良く、周囲の期待も高かった。
イリダータでもトップを狙えると思っていたのに、同じクラスにいたのは、カーマイン・ロードナイトという女だった。
そして、その女はあらゆる成績で首位に立ち、トーナメントでも一年生で前代未聞の【ガーネット】を獲得――話題の人となった。
それから二年、三年と【ガーネット】を維持、三連覇を成した。そして、最上級となった四年でも、カーマインはトーナメントに参加し、【ガーネット】を獲得するだろう。
(そのせいで!)
自分の名を刻むことができなかった。
このイリダータで成してきたことすべてにおいて、常にあの女は上を行っていた。
一番でなければ、名は残らない。
二番では、それはその他大勢と同じなのだ。
「クソッ……クソッ! クソッ! クソッォォォオオオッ!」
憎しみが込み上げる。
四年間溜まり続けた負の感情が、全身から滲み出る。
それに呼応するように、黒い霧が迫っていくことに、男は気づかなかった。
※
夕暮れ時。
オレンジ色に染まる保健室で、眠る少年をじっと見続ける。
ベッドの横で、少年の顔に日が差さない位置で椅子に座り、その顔を見つめる。
陰になった少年の顔は、今は穏やかだ。
(もし、このまま目が覚めなかったら……)
少年の身に起きた出来事はあまりに不可解で、恐怖そのものだった。
そんな目に遭った少年が、普通に目を覚ましてくれるのだろうか。
太股に肘を置き、上体を支えているその手を祈るように合わせ、その手に額を当てて瞼を閉じる。
どのくらいそうしていただろうか。
「カーム……さん」
その声に、カームは目を開き、涙が出そうになった。
全身が震え、まるで凍えたように吐息が漏れる。
開けた視界の先には、瞼を開き、弱々しくも笑顔を見せる少年がいた。
「寒いんですか?」
そう言って、ソラが布団から右手を出し、カームの合わせた両手の上に手を置く。
そうされて初めて、自分が震えているのだと気づいた。
「ソラ……よかった、目を覚ましてくれて」
乗せられた手を包むように掴む。
小さくて、男というよりも男の子な白くて細い手。
だけど、温かい。
その温かさが、カームの気持ちを落ち着かせてくれた。
「ボク、どうして……」
「急に気を失ったのよ。心配したんだから」
「そうだったんですね。迷惑かけてしまったようで、ごめんな――」
カームは自分の唇に人差し指をそっと当て、少年を黙らせた。
「キミが謝ることなんて、何もない。いいから、今は休んで」
「あの……傍に、いてくれますか?」
少年の懇願に、カームは考える間もなく頷いた。
「ええ。だから、今は眠りなさい」
「はい」
ソラが笑む。
「明日は休息日だから、町へ行きたいわ。ちょうど、買いたいものがあったの。ソラ、付き合ってくれる?」
「ボクでよければ」
「キミじゃなきゃ、誘わないわ」
そう言ってお互いに笑い、それからソラは再び眠りについた。
夜の帳が下りた頃。
「容体は?」
保健室を使ってもいいと、養護教諭のコーデイから許可をもらっていたカームがコーヒーを淹れていたところで、静かにドアが開かれた。
「学長」
保健室に入ってきたのは、学長のミュールだった。
心なしか息が上がって見える。
「一度、目を覚ましました。今はまた眠っています」
「そう」
見て分かるほどの胸の撫で下ろしように、心からソラを心配していたのだと分かった。
「コーヒー淹れますね」
「ありがとう」
ミュールは事務机の椅子に座り、ふぅと息を吐く。
机にそっとコップを置くと、ミュールがその湯気に顔を近づける。
コーヒーの香りを楽しみ、その後でコップを手に取り、口に含んだ。
カームも自分の分を淹れると、診察者用の椅子に座り、二人してベッドで眠るソラへと体を向けた。
「学長は、知ってるんですよね。アレのことを」
両手でコップを包むようにして掴むカーム。
思い出すだけで、手が震える。
「ええ、あなたとソラを組ませたのも、アレへの対応策のひとつだったの」
「あの、黒い霧……」
「アレは、『黒い』じゃないの。アレは……闇――」
――【
そう、ミュールは口にした。そうすることすら憚れるように。
「あの子に名字がないことは知ってるわね」
「はい」
自己紹介でも、少年は自身をソラとしか名乗らなかった。
「あの子は、産みの親のことを知らない。知っているのは、私を含めた四人――いえ、今はもう三人ね」
少年の出自を知る存在が、たったの三人。
「知っているのは四英雄だけ。そして、ソラの母親もまた、四英雄なのよ」
「それって……」
「もちろん、私じゃないわよ」
ミュールが即座に言葉を挟む。
四英雄は、文字どおり四人。
火の国の英雄――ルカ・ロードナイト。
水の国の英雄――ミュール・ミラー。
風の国の英雄――東雲楓。
地の国の英雄――アビゲイル・ワイゼンスキー。
母親というのならば三人だが、ミュールでないのならば、残るは、風か地の英雄ということになる。だが――
「ソラの母親――彼女の名前はノア」
「え?」
ミュールの口から発せられたのは、聞いたことのない名前だった。
「でも、四英雄は四人で――」
「四英雄というのは、同盟国が広めた名前で、私たち自身が名乗ったことじゃない。あの大戦で勝利できたのは、彼女がいたから。私たち四人を集めてくれたのもまた、ノアなのよ。私たちは五人で一つだった。五人で戦い、だから勝利できた」
ミュールが思い出すように瞳を伏せる。
「カーマイン」
「はい」
ミュールが顔を上げ、カームを見つめる。
「今から言うことは、決して口外してはいけない。守れる?」
カームはすぐに返事することができなかった。
頭を過ぎったのは、純粋な疑問。
「ひとつだけ、聞きたいことがあります」
「言って」
決して急かさず、ミュールが穏やかな声音で促す。
「どうして、私なんですか?」
今からミュールが告げること。
だが、その前にカームはすでに、四英雄のみしか知らないことを告げられた。
それだけでも重大なことなのに、そこからさらに何を聞かされるというのか。
「あなたになら、ソラを託せると思ったから」
その言葉に、心臓が痛いほどに高鳴る。
「私にとって、ソラは本当の息子同然なの。お腹は痛めていない。だけど、私と楓、アビーの三人にとっては、息子も同然なの。だから、そんな息子を、あなたにしか――いえ、あなたじゃないと託せないの」
「私じゃ、ないと……」
「あなたはルカの娘。もちろん養子ということは知ってる。それでも、あのルカが選んだ子。そして、その子は今やイリダータでも最高の火使い。ソラには、ルカと同等――いえ、それ以上の火使いが必要なの」
ミュールが見つめてくる。
その瞳から視線を逸らすことなく、カームもまたその瞳を見つめ返した。
「この子は、水、風、地のエレメントをマスターしている。それも、十年の間で。それなのに、火のエレメントだけはまったく習得することができない」
「はい。あれは才能がない、という話ではなく、そもそもエレメントそのものが――」
「ええ、あの子の中には、火のエレメントだけがないの。いえ、あの子の中にいるアレが、火のエレメントを拒絶しているの」
ミュールの言う『アレ』――つまり【深淵】と呼ばれる闇。
「【深淵】って、何なんですか?」
ミュールは答えず、じっとカームを見つめる。
カームは唾を飲み込み、目を伏せ、手に持ったコップの中で揺れるコーヒーを見つめる。
黒く、暗い水面に映る自分の顔。
ここが――分岐点。
ベッドで眠るソラを見つめる。
それだけで、気持ちは決まった。
手に持ったコップを力強く握りしめ、顔を上げる。
「【深淵】って、何なんですか?」
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