第5話 同僚と電車が一緒で、目が合ったら。
登未は思わず足を止めてしまった。
月夜と見つめ合ったまま、背後の扉が閉まる。
発車する際に、不意に音階が流れた。ドレミファインバータと呼ばれる電車だ。
滅多に乗れない電車なので、これもまた運が良いのだが、
(同じ電車かよ)
まさか月夜が同じ電車に乗っているとは考えてもいなかった。
この状況で距離を取るわけにもいかず、登未は月夜の横へ移動し、つり革を掴んだ。
月夜の使う駅からも、登未の帰宅に使っている路線の電車へ乗り換えができる。
それは知っていたが、駅までの移動時間の差から、同じ電車になることはないはずだった。
(あっちの電車が遅れてやがったか?)
真相はわからない。何にしても、気まずい。これでは、まるで月夜を避けたかったから、違う駅を使用した――そう思われてもおかしくなかった。
「あー、さっきぶり。違う駅なのに同じ電車になるなんて、奇遇というか何というか」
とりあえず、軽い会話から言い訳を始めようと登未は定期入れを月夜に見せる。
普段から使っている駅を見せることで、邪推を避けようとした。
「そうですね、さっきぶりです。本当に奇遇ですね」
登未の定期券を見た月夜は、一度目を大きく開く。
そして、すぐにふんわりと笑った。
思わず見惚れそうな笑みだった。
しかし登未は片眉を上げ、怪訝な表情を浮かべていた。
月夜の驚いた顔と笑った理由が気になった。
何処か楽しそうな雰囲気のまま、月夜は自分の定期入れを登未に見せてきた。
「すごいですね。同じ駅ですよ」
「……マジか」
登未と同じ駅名が、月夜の定期券にも書かれていた。
驚くべき事態だった。登未は目を見開いて、月夜に訊ねた。
「……飯田さんって、実家住みだっけ?」
「え? いえ、独り暮らしですけど?」
「……なんで、あんなところに?」
登未の住む地域の評判は、あまり良くない。競艇場があるためか昼夜問わず中年男性が新聞片手に酒を飲んでいたり、産業道路や高速の出口があるため、騒音もそれなりにある。
若い女性は好んで住まない街と聞いていたが、何故月夜は居を構えているのか。
「えと、あの空港も近いし、新幹線の通ってる駅まで行きやすいから、と言いますか」
「まあ、そうだけど……。移動を気にするってことは実家は遠いところなの?」
「いえ、横浜です」
「この電車、一本で帰れんじゃねえか」
扉の上の路線図を見ると、しっかりと横浜と書かれた文字がある。
わざわざ独り暮らしをする必要などないと思った。
「大学の頃から、独り暮らししていますから」
「家賃とかしんどくない?」
新卒の給料は安い。会社からの家賃補助も僅かしかなく、一人暮らしは少々厳しいはずだ。
近いとまで言わないが、通勤圏に実家があるならば無理せず住んでいればいいのに、と登未は月夜を見る。だが、月夜は目を逸らして頬を掻いた。
「それが、……昔、親が事務所代わりに使ってた部屋を使わせてもらっていて、ローンも終わってるらしくて、共益費を払うだけなんです」
「……それは、羨ましい」
家賃がほぼ存在しない。それだけでも独り暮らしを継続する理由として納得する。
食事などの家事も大学時代から続けていれば、苦ではなくなっているだろうし、わざわざ実家に帰る必要はないと思った。
(気楽な一人暮らしなのかもしれんが。それでも、あの街は、なあ)
登未はううむと唸りながら、月夜に視線を向ける。
月夜はきょとんとした瞳で登未を見返していた。
大学から継続して住んでいるのならば、百も承知かもしれない。
しかし、無防備な顔に思わず小言を言いたくなった。
「夜道は気をつけなよ。たまに奇声あげる人とか歩いてるし」
「ああ、いますいます。いますね!」
だが、月夜は楽しそうに手を合わせて口元を綻ばせる。
呆気に取られる登未を気にせず、月夜は人差し指を立てて、不審者について言葉を続けた。
「不思議ですよね、ちょっと怖いです。あと前に、走りながら大声で歌ってる人見ました」
「あ、ああ。その人な。警察の寮から出てきたから、警察の人だと思う」
「ええ……。なんて近所迷惑な警察の人なんですか」
「あとアレ。あんた、いったい何をどうすればそこまで肌が黒くなるんだって、おっさん」
「ああ! いますね。駅前でワンカップ飲んでますよね。思わず足早に通り過ぎちゃいます」
不審者の列挙から地元トークに移行し、思わず話が弾む。知っている情報が似ているので、最寄り駅どころか住む建物も近いのかもしれない。
「田中って家、やたら多くないですか?」
「石を投げれば田中に当たるって聞いたことがある」
「そんなに居るんですね。知りませんでした――っと」
電車が急に減速した。月夜がバランスを崩し、登未にぶつかる。
いい匂いがした。異様に軽い。そして柔らかかった。
登未は変な箇所を触れないように注意しつつ、月夜の身体をさりげなく支えた。
「ごめんなさい、ぶつかっちゃって」
「ああ、いいよ。なんだろうな、停止信号かな?」
「でも、普段から荒いですよね」
「人によっては酔うらしいけどな」
電車が途中駅に着いた。アナウンスが流れる。
どうやら、遠くの駅で停止信号が作動したとのことで、しばらく停止するらしい。
電車が動き出すまで待ちきれなかったのか、目の前に座っている人が降りていった。
空いた席を見た後、登未は月夜に視線を向ける。
月夜も空席から、登未に眼を動かす最中だった。
俄に見つめ合うこと二秒。
登未は目の前の座席を指さした。
「どうぞ」
「い、いえ。宇田津さんが」
「うるせえ、座れや後輩」
ここで席に誰が座るかを議論するつもりはなかった。女の子を立たせ、座りながら会話する先輩男性など、外聞が悪い。敢えて後輩と口にして、少々威嚇気味に月夜に命じる。不満そうな表情を浮かべつつ、渋々月夜は席に腰を下ろした。しかし一瞬目を丸くした後、腹部に手を当てた。どこか険のある瞳で、月夜はじろりと登未を見ている。
「……どしたの?」
「いえ、その。お腹が鳴って。聞こえてませんよね?」
満員とは言わないが、座席に空きがない程度には人がいる。
腹の虫の音程度の小さな音など聞こえない。登未は首を横に振って、月夜の問いに答えた。
「聞こえるか。でも、まあ。確かに腹減ったな」
「普段はとっくに、ご飯食べてる時間ですもん」
「昼飯食ってから、……10時間を越えているな」
「……すっごく長い時間食べてない気がしますね」
「俺はいつものことだけどな」
神妙な顔の月夜の言葉に、登未は思わず苦笑する。
深夜帯に差し迫りつつある時間だ。
夕食に何を食べるかと悩む前に、そもそも食べる食べないを悩んでしまう。
「宇田津さんは普段、ご飯はどうしてるんです?」
「だいたいは家で作ってるかな」
「え、自炊しているんですか?」
月夜が目を丸くした。不思議な疑問だった。登未は首を傾げたくなるのを堪えて、月夜の疑問の理由を考える。端から見て、登未は店屋物ばかり食べているように見えるのだろうかと少し落ち込む。だが実際のところ店で買ってばかりではいられない理由があった。
「だって、あの辺。飯を食うところ、少ないでしょ」
「一応ラーメン屋さんとかトンカツ屋さんとか、牛丼屋さんもありますよ?」
「カロリー高え。俺が帰る時間って、だいたい今より遅いからさ。開いてる店なんて限られるし、ローテーション組んでも、飽きるわ」
深夜帯まで営業を行なっている店は少ない。精々3店舗を順に通うことになり、一ヶ月も保たずに飽きてしまう。登未は月夜に苦笑を向けた。
「連日コンビニ飯ってのも正直避けたいし。そら、自然と自分で作るでしょうに」
月夜の不思議そうな顔は継続したままだ。視線が動いた。登未の左手を見たようだ。
「あの、彼女さんとかに作ってもらってる、とか?」
言われた言葉に、思わず顔をしかめる。月夜が左手を見たのは、薬指に指輪があるかを確認していたようだ。登未は勤続して10年。歳は34歳だ。結婚していると考えてもおかしくはない。結婚していなければ、彼女がいる、と思うのも、まあ変ではない。
「いないし。それに、彼女に飯作らせるって、そんな当然のように言われても」
問われた質問に、批難じみた言葉を続けて、登未はにっこりと笑う。
月夜の中では、彼氏に食事を作るのは当然と思っているのかもしれないが、少なくとも登未にとっては当たり前のことではない。
「あー……。確かにそうですけど」
「まあ、作ってくれるなら男は喜ぶとは思うけどね」
晩飯を毎日用意してくれる彼女が居れば、大抵の男は次第に当然と思ってしまう気がしたが、登未はそう言っておいた。
月夜クラスの美人が甲斐甲斐しく食事を作って帰りを待つ。
そんなことをされれば、男ならば泣いて喜ぶだろう。現在、月夜に彼氏が居るのか居ないのかは不明だが、現実を教え、理想を捨てさせるのは、まだ見ぬ彼氏さんに申し訳がない。
「しかし、飯なぁ。この時間だと、悩むわな」
「この時間から、お米炊くのは怯んじゃいます。何食べましょうね?」
何か、一緒に食べて帰るような雰囲気の会話に聞こえた。
食べに行きたいのだろうか。構いやしないが、この時間に開いている飲食店は限られている。
「家系ラーメンとか?」
「……この時間に、なんて冒涜的なカロリー。いや、すごく魅力的ですけど」
何故、深夜帯に差し掛かる時間に開いている飲食店は、カロリー過多の店が多いのか。
心の片隅で不思議に思いながら、登未は他の店を提案する。
「この時間に食べるカツカレーは、美味いぞ?」
「くっ、だからカロリーがヤバいですって」
月夜が取り乱している。面白い反応だった。登未は少し楽しくなり、他の店を考える。
「夜マックってのがあって、なんとパティが二倍」
「ああ、魅力的ですけど、魅力的ですけど!」
葛藤するほどの提案なのだろうかと、登未は首を傾げる。
月夜は美人であり、スタイルも良い。
健康や体重を気にして、ジャンクフードは敬遠するタイプと思っていた。
だが体重は気にするものの、むしろジャンクを好んでいる雰囲気すらある。
(なるほど。なかなか愉快な人間なのか)
頭を抱えて悩む月夜を見ていると、自然と笑いがこみ上げる。
喉を鳴らすように笑いながら、登未はからかい続けた。
「大丈夫。肉がついても、男の人的には、そんなに気にしないから」
「わたしが気にするんですよ。うう……、本当に、ご飯どうしよう」
話ながら、登未は思い出していた。
ああ、そうだ。人が表情を変える姿は、楽しいと。
長らく感じていなかった。いつぶりだろうと、考えながら言葉を続ける。
「体重が気になるなら、食べない方がいいのかもなぁ。でも腹が減りすぎると寝れないでしょ?」
「そうなんですよね……、でも食べるとお肉が……」
思い返せば、しばらくどころではない。
数日、数週間、数ヶ月を越え、年単位で遡った。
そして思い至る。
――ああ、あの時からか。
二年以上前のことだ。思い出すだけで、腹の底に暗い炎が灯りそうになった。
今の状況で、感情を表に出すことはできない。
ころころと表情を変える月夜の前で、見せる顔ではない。
醜態は見せたくなかった。
「そんな飯田さんに、オススメ情報だ。おでんってカロリー低いし、温かいから満足する」
悩める月夜に解決策を提案しながら、締め付けられるように痛む胸をさりげなく擦る。
「おおっ、確かに! コンビニですね、どこのおでんにしましょう」
登未の様子を月夜は気づかない。安堵しながら、喜ぶ月夜を登未は見る。
コンビニおでんに顔に花を咲かせる月夜の姿は、何とも微笑ましく、そして可愛らしい。
改めて登未は思った。
(なんだろうね、この新人は)
家の近辺には、大手コンビニが一通り揃っている。
どの店も味が異なるため、月夜は悩んでいるようだ。
アドバイスをするために、腕を組んで考える素振りをしながら、月夜を見る。
(まあ、たまには、ね)
電車が動き出す。
最寄り駅まで、あと10分といったところだろう。
登未はカロリーが低く、かつ味も良く、そして食べ応えのあるおでんの組み合わせを考える。
たまには、こんな日があってもいい。
なんと言っても、今日はついている日らしいのだから。
楽しんだって、別に怒られないだろう。
最適解を導いた登未は、月夜に説明することにした。
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