第4話 一緒に帰るのは、ハードルが高い
「あ」
「お?」
登未は地下駐車場の扉を開けて目を丸くした。
理由は至って簡単だった。
そこに、月夜が立っていた。
振り返った姿勢で、扉を開けた登未を月夜は見ている。
(しまった。ここでかち合うのか)
定時を越えたら会社のエントランスにはシャッターが下ろされる。
社員の出入り口は地下の駐車場に設けた勝手口の一点のみとなってしまう。
定時を越えた社員が帰宅する際は、地下から出なければならなく、月夜との遭遇は予測して然るべきだったのかもしれない。
(煙草でも吸って時間をずらせば良かったか。てか、着替えんの早くね?)
女性の着替えは通常もっと時間がかかるものと思っていた。
着替え、そして髪を整え、そして程度の違いはあれど化粧も多少は直すと思い込んでいた。
月夜が部屋を後にしてから、時を置かずに登未も退室した。
普通ならここで月夜に遭遇するはずがない。
心の中で舌打ちをしつつ、せっかくなので登未は月夜の私服を眺める。
(すげえな、最近の若者は)
ギリギリ面接で許される程度の暗めの茶髪――アッシュブラウンのロングヘアーを、首の後ろで纏めている。大きな瞳に長いまつげといった顔の構成パーツだけではなく、スタイルも均整が取れていて、ちょっとした芸能人よりも整った容姿をしていた。
服装も派手なものではなく、春用のトレンチコートに、薄手の白いニット、そして黒く長いスカートとシンプルで落ち着いた服装だ。シンプル故に、基礎力の高さが窺い知れる。
(普段着なのか、それともこれからどっかに行くんだろうか?)
しかし時間が遅いため、これから遊びに行くとは考えづらい。行ったならば、徹夜の遊びだ。メイクが先ほどと然程変わっていないので、やはり考えづらく、普段からこのような格好なのだろう。
ふと、登未は自分の服を見下ろしてみる。
よれた地味なスーツに、歩きやすさ優先の合皮製の革靴。
(すごいな、意識の差だろうか)
視界にある自分の黒髪を摘まみつつ、苦笑を浮かべたくなった。しかし気にしても仕方ない。
そもそもの基礎力が違う。片や美人の新人、片や見た目も能力も冴えない、中年に足を踏み入れたサラリーマンでは比べるまでもない。見た目と周囲の期待値に沿った格好をしていると思えば、順当である。そして無遠慮に眺め続けるのも、あまり宜しくない。
「おう。お疲れ様」
登未は片手を挙げて、気にせず帰路につく。普段通りにポケットからイヤホンを取り出し、胸ポケットの中のスマホにジャックを差しながら歩いていると、足音が追ってきた。
「お、お疲れ様です!」
足を速めて置き去りにすることも考えたが、あまりにも感じが悪い。同じ部署の同僚なのだ。顔が合ってしまえば、途中まで一緒に帰るのが一般的だろう。
耳に付けようとしていたイヤホンの本体をポケットにねじ込み、歩く速度をゆっくりにすると、ぱたぱたという足音が横に並んだ。視線を月夜の足下に向けると、踵の高くないパンプスだった。
(しかし、何を話せば良いんだ?)
意中の相手ならば、会話の選択肢は思い浮かぶ。しかし如何せん想ってもいなければ、ただの同僚でもあり、更に言えば顔面偏差値が高い相手には気を使ってしまう。
(美人相手の会話なぁ。選択肢を誤れば、『うわあ、あの先輩。狙ってきてる?』とか思われかねない気がする)
口元をもよもよさせながら、登未は最も無難な会話をすることに決めた。駐車場を出て、シャッターの閉まった会社の入り口の前に辿り着いたので、立ち止まって月夜に訊ねる。
「飯田さんって、駅はどっち?」
最も無難な会話、それは帰宅に使う駅を訪ねることだ。
これが『どこに住んでいるのか?』だと、住んでいる地域を探っていると思われるかもしれない。自然でかつ当たり障りのない話題だった。
そして都内の会社に勤めていれば、通勤に使う駅は複数選択肢があることは珍しくない。
登未の会社の最寄り駅は二つ。
会社を出て左に行くか、右に行くか、だ。
「あ、わたしはこっちです」
月夜は右を指した。
会社までの距離が一番近い駅だ。登未は安堵しながら、道路の反対側を指さした。
「そう、俺はこっちだから。気をつけて帰ってね」
登未の利用している駅は、会社から少し歩くことになる。実のところ、月夜の使う駅でも登未は自分の家へ帰ることができるが、僅かにでも歩いた方が健康的に良いだろうと、間近な駅を使わずにいた。登未は掌を月夜に向けて、ひらひらと動かす。
「え、あ、はい。お疲れ様でした。お先に失礼します」
月夜は登未に頭を下げると、駅に向けて歩き出した。
どこかがっかりしたように見えたのは、思い過ごしだろう。
背中を見送りながら、登未は深く息を吐く。そして、そのまま踵を返して駅へ移動する。
(一緒の駅だったら、気まずかったな。良かった良かった)
教訓として独身サラリーマンが社内でとってはいけない行動。
それは、特に男女感については迂闊な行動をとることだ。
思いの外、人の眼と耳は聡い。会社という狭い世界では特にだ。
気を抜いて、下手を打てば要らぬ噂が蔓延する。
学生時代の比ではないくらいに、厄介だと思わざるを得ない。
社会人生活は、長い。転職しない限り30年以上勤めることになる。
悪評が立てば、払拭するのに相当な努力が必要だ。
(悪しき実例が多いんだよなぁ)
社内恋愛を始めればすぐに噂が広がり、別れれば可哀想に思うような話も広がる。
噂話の寿命も長く、誰かが思い出せば、消費期限が延びていく。
定年間近だというのに若い頃の話で弄られる姿など、見ていて涙を禁じ得なかった。
(まあ、触らぬ美人に祟りなし、だ)
ふむ、と鼻から息を吐いたところで、駅に着いた。
階段を降り改札を通り抜け、ホームに立つと直ぐに電車が到着する。
(おお、ラッキー)
運が良いと、登未は電車に乗り込む。
登未の通勤経路では、電車の乗り換えが一度あった。
しかも今、乗り込んだ電車に乗って一駅で乗り換えとなる。
扉の前に立って僅かな時間待てば、すぐに次の電車へと移動だ。
(飯、どうしようかな)
腕時計を見る。家の最寄り駅につくのは、23時前。近所のスーパーがまだ開いている時間だ。
運が良ければ、半額となった刺身が残っているかもしれない。
(いつも、スーパーは閉まってるし。開いてても、だいたい売り切れだからなぁ。でも今日は、運が良さげだし、イケるんじゃね?)
もしかしたら久々に刺身が食べられるかもと少しワクワクする。食事に想いを馳せている内に電車が止まり、扉が開く。この時間に帰るのは久しぶりだが、早足で移動すれば待ち時間なしで、次の電車に乗れるはずだ。いそいそと電車を降りて、次の電車のホームまで足早に移動する。
(うし、間に合った)
やはり、今日は少し運が良いようだ。登未がホームに辿り着くと同時に、電車が到着した。
ふとイヤホンを耳に付けていなかったと思い出す。スマホにジャックを挿してはいるが、イヤホンの本体はポケットにねじ込んだままだ。
(今日は、何を聴くかな)
ここまで運が良いと、自然と気分は良くなる。
この気分を維持したく、特段お気に入りの曲を聴こうと思い、イヤホンを手に取る。
電車の扉が開いた。
登未はイヤホンを装着しようと、手にしながら電車に乗り込んだ。
そして、目を丸くする。
「あ」
そこには、先ほど別れたばかりの月夜が立っていた。
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