選ばなかった方
蓮が窓に顔を寄せて、車窓から見える風景を見つめている。まだカーテンは閉められていない。いつもならすぐに俺との境界線を作ってしまうのに、珍しい。
バスの発車時刻まではまだ数分あった。
蓮は俺から顔を逸らして、水滴の伝う窓越しにバスターミナルの無機質な空間をただ見ていた。
「……」
二列に連なるシートの間に仕切りはない。神経質なところのある蓮が個室ではなく、普通の座席を選んだことに未だに俺は驚いている。……本人に聞いたらくだらないと一蹴されるだろうか。
「雨、朝には止んでるといいね」
「…………ああ」
激しく横降りに振り付ける雨のせいで、バスの中は若干湿気ていた。そんな中でも蓮の髪はうねるようなこともなく、真っ直ぐに綺麗なままだ。
外を見る蓮を俺は見ている。
俺が向こうを見つめていても、視線が交わることはまれだ。蓮が物思いに耽っている時だけは、こうして眺めているのも許されるような気がする。
急に、空調が効き過ぎているような感じがしてきた。
「なんか、肌寒くない?」
「別に……それくらい自分で管理できる」
「うん、わかった」
「……」
会話はプツリと終了。再生が中断されたみたいに真っ二つ。
「本日は――交通をご利用頂き、まことにありがとうございます」
俺たちの間に流れる沈黙に合わせたかのように、バスのアナウンスが流れ出す。ここから遠くの街に行くバスに、俺たち以外の乗客はほとんどいなかった。
それとなく旅行に行ってみたいと言い出したのは、俺ではなく蓮の方だった。普段蓮からこういうことを言うのは珍しかったので、俺も二つ返事で「絶対に行こう」なんて言って。蓮が一瞬驚いたような顔をしたのが忘れられない。俺がダメなんて言うと思っていたのだろうか。絶対にないとは言い切れないけれど、少なくとも何もないのに断る理由はない。
蓮が見せてくれたその場所の写真を見て、本当に心の底から綺麗だと思った。透き通るような空が一面に広がっていて、緑が青々と生い茂っている。お手本のような田舎だった。どうして蓮がそんな場所に行きたいと言い出したのか、その理由はよく分からなかったし、蓮も今日この日まで教えてくれることはなかった。でも、それもいつも通りのことで、問題にはならない。
「いつ行こう?」
「来週、今度の休み。俺は空いてる」
「来週か。結構急だね」
「お前は別に……いつだっていいだろ」
「うん。俺が蓮に合わせるよ。蓮がしたいように、行きたいところに行こう」
蓮が俺と行きたいと言った。それ以外に必要な理由なんてない。
バスの中が本当に暗くなった。通路にある明かりだけが控えめな光を放っているけれど、それだけ。完全な闇ではない。充電しているスマホが一瞬光る、そのちょっとした点滅でも閃光みたいに鮮やかに見える。
蓮はいつでも眠る時は静かだ。時刻はとっくに日付を超えていたし、いつも練習にあわせて早く寝るから、それが自然なんだろう。
対して俺は、眠気こそあるものの熟睡に至るまでの決定的なパーツが欠けていた。眠ろうとすればするほど脳が覚醒していく気がする……。でも、眠らないといけない。明日の早朝には、知らない街に放り出されてしまう。
あえて見ないようにしていた蓮の方に、身体ごと寝返りをうった。
蓮は備え付けの毛布を肩までかけて、穏やかな顔つきで眠っていた。寝息が規則的に聞こえてくるから、本当に熟睡している。
「……」
昼間の不機嫌そうな仏頂面とは反対に、寝顔は年相応のあどけない表情をしている。暗闇の中で彼の白い肌が、輪郭が曖昧になりながらぼうっと浮き出ているように見えた。手を少しでも伸ばせば、触れられてしまうような距離だ。だけど……絶対にそうしない。できない。俺だったらできないけれど――蓮なら。蓮が起きていて、俺が眠っていたらどうするだろう。
――触れて欲しい、かもしれない。
蓮が俺のことを求めてくれたら、俺は嬉しい。俺からは――絶対に触れない。触れたら怪我をするとか、汚れてしまうとか、そういうことじゃない。蓮が俺の隣で気を許して眠っているということが一番いいことで、信頼されていて、そばにいることが現実で、今が完璧なんだと思う。
今こそがあるべき状態。
完璧に描いた絵画に誰も手を加えないように、俺は今この瞬間の蓮を崩したくない。
自分の心臓の鼓動がやけに激しく聞こえてくる。それだけではなかった。外の音――車が高速を走り抜け、エンジンが駆動する音――雨が窓や車体を打ちつけてコツコツとノックする音――それら全ての音が音量の調整に失敗したかのように、脳に直接流れ込んでくる。ここまで来ると、まるで世界から責め立てられている、なんて劇場型の被害妄想じみた考えまで飛躍していく。
蓮の近くにいると時間が早くなったり遅くなったり、忙しい。
「…………」
感覚と欲望の全てが蓮に持って行かれそうだ。しばらく自分が息すら止めていたことに気づいた時、硬くなった身体から一気に力が抜けるのを感じた。
蓮は静止したように眠っている。彼の瞼を縁取る長い睫毛が彼の呼吸に合わせて穏やかな波みたいに揺れていた。
このままずっと目覚めなくて、二度と目を開いて俺を見なくなったらどうしよう。
――そうなると蓮が最後に見ていたのは、俺じゃなくて車窓を流れるありきたりな風景だ。
気分を落ち着かせるためにトイレにでも行こうと思ったその時に、蓮が僅かに身じろいだのを視界の端で捉えた。
馬鹿馬鹿しい妄想を繰り広げている俺を、どこかで見ている神様が戒めているのじゃないか、なんて、今日で何回目かの、妄想。
「背中痛ぇ……」
朝日が昇る頃、蓮はゆっくりと目覚めた。俺は結局あの後眠れはした……けれど、一時間おきくらいに目が覚めるような浅い睡眠だった。これだったら睡眠薬でも持ってくればよかったかもしれない。
「おはよう、蓮」
「ん……」
ホルダーに刺しておいたミネラルウォーターの蓋を開けながら、蓮はまだ眠そうな目で俺の方を見る。
「寝癖……」
「え、どこ?」
「お前から見て右のとこ。結構ハネてる。間抜けだから直しとけ」
櫛は確か……リュックの中だから立ち上がって荷台に手を伸ばそうと思った。俺がシートベルトをはずそうとすると、蓮はそれを静止する。
「――珍しいよな。お前の髪が……こんなになってるの」
蓮の指が、俺の髪にそっと触れた。
「えっ……」
――珍しい。普段、こんな風に触られるようなことはあまりないから。
蓮も自分では意図していない接触だったのだろう。俺が驚いて声を漏らすと、すぐに手を引っ込めてそっぽを向いた。
「………………悪い」
「いや、気にしてないよ」
「寝ぼけてた」
「うん」
「…………」
蓋の開いたボトルから、普段休憩中にするのと同じ仕草で水を飲む。心なしかいつもよりも動きが硬いような気はした。俺も少し居心地の悪さを感じる。ただの友人同士の接触でもよくあるような範囲だと思う。……気にしすぎだろうか。
「雨、上がったかな」
「音はしてないから、多分止んだんじゃないか」
蓮がスマホで天気予報を見る前に、俺はスイッチでカーテンを開けた。早朝の……灰色の空の中から、木漏れ日のように朝日が差している。国道の大きな道路が背景で、平地が続いているから空が果てなく広がっているように見えた。
「よかった。夜の間に終わったんだ」
「予報通りか」
蓮はしばらく手元のスマホで何かをチェックしていたけれど、少しして顔を上げた。
「こういうの……お前、好きな方?」
「うん、好きだよ」
「……そうか」
俺たちの間に再度、居心地のいい沈黙が流れる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます