第1話 デビュー戦(前半)
書類を書き終えた私はペンを窓口の人に渡した。
「はい、ありがとうござ…」
ペンについたブルーベリージャムを触ってしまった窓口の人はものすごく嫌そうな顔をするが、手を拭うと書類を受け取り、カウンターの奥へと消えていった。
私の両手についたジャムのせいでハローワークでは甘ったるい匂いが充満している。椅子に座り順番を待っている一般利用者は、眉根を寄せたり、匂いの根源を見つけようとキョロキョロ辺りを見回したりしている。
匂いの強い汚れはこれだから、と私は早く自分の名前が呼ばれることを祈った。
なぜ私がハローワークにいるかというと、変身ヒーローを国から公認をもらい活動をする為の手続きをするために他ならない。
養成所に通い、役半年ほどのプログラムをこなした後に推薦状がもらえるため、それを持ってハローワークに行くと1ヶ月程で登録が完了される。そうすれば変身して地域の治安維持活動をしても問題ない事になっている。
もし無許可で活動をしていたら、それは警察の取り締まりの対象になる。
かくいう私も昔、無許可で変身ヒーローをしていた人が連行されたのを目の当たりにした事がある。
昆虫を模した仮面を被った全身タイツの男性が、両腕を警察官に掴まれてパトカーに乗せられる瞬間は、未だに瞼の裏に焼き付いて離れない。
しばらくして家に簡易書留で変身グッズが届いた。
レコーダー付きの腕時計型変身アイテムと、防護ヘルメットだ。
二つとも国が管理しているため、かなり年季が入っている。腕時計なんて完全にメンズ仕様で古臭いデザインだった。洗練されたデザインの変身グッズがどうしても使いたい場合は、それこそお金を出して買わなければならない。
防護ヘルメットは頭部を守るだけでなく、ヒーロー活動をした際に素顔を見られて個人を特定されない為の配慮らしい。これも国から無料で貸し出されるタイプだと、普通のバイクに乗るとき使うような白いフルフェイスのヘルメットだった。
試しに私はそのヘルメットを被り、腕時計を装着してみた。
部屋の姿見鏡に映る私の格好は、どちらかというと引ったくり犯のようだった。
何はともあれ一応これで変身ヒーローになった。
ヒーローの仕事のひとつに地域の治維持活動がある。さっそくパトロールに行こう。
私は時計をつけてヘルメットをカバンに入れ家を出た。
平日の住宅街はびっくりほど静かであり、時折掃除機の音がしたり、自転車で道を走る老人を見かけるくらい平和であった。
仕方なく私は住宅街を抜けて堤防へ続く階段を登り、車一台通れる道を渡った後に眼下の河川敷に広がる誰もいないグラウンドまで降りていった。そしてそこに備え付けられたベンチに腰掛けて広がる空を見上げながら、今頃大学で学生生活を満喫しているクラスメイト達のことを考えた。
「ねえ、君ももしかして変身ヒーロー?」
後ろから声をかけられたので振り返ると、20代前半くらいのマッシュヘアの青年がいた。
「ええ、変身ヒーローです」
自分で言葉に出すとなかなか恥ずかしいなと思いつつ返事をすると、青年は笑顔を浮かべて隣に座ってきた。
「同業者だ。うれしいなあ。俺は青島って言います」
「あ、御手洗です」
「よろしく」
青島さんは握手を求めてきたが、私の手に付着するご飯粒を見て、一瞬硬直したのち10センチくらい引っ込めた。
私は慌てて「こういう体質なもんで」とごにょごにょ言い訳をしたが、青島さんが興味深そうな表情をするため、自分の両手が異常に汚れる体質の事を説明した。
「えーと、それはつまり特殊能力みたいなもの?」
真面目な顔で青島さんは聞いてくるが、そんな能力だなんてかっこいい言葉で説明できるシロモノでもない。しかし青島さんの脳内ではどう変換されたのか、目をキラキラさせて言った。
「能力持ちの変身ヒーローだなんて、すごいじゃないか!まさにヒーローになる為に生まれてきたようなものだよ!」
初対面でそんなに褒められた事などほとんどないので、私は思わず照れ笑いをしてしまい、必死ににやけを抑えた。
「俺は特にとりえとかは無いんだけど、小さい頃に変身ヒーローに助けてもらった事があって、その憧れだけで五年くらい変身ヒーロー専門でやってるんだ。ようやく最近活動が認められてきて、今は自転車で全国を回りながら治安維持に勤めてるんだ」
青島さんはそう言うと誇らしげに変身グッズの腕時計を掲げて見せた。市販されている変身グッズのなかでは確か5万円以上する人気モデルだ。またよく見ると膝や両手、首などに畳まれた防護プロテクターらしきものが装着されている。どうやら変身するときはどこかスイッチを押すとプロテクターが展開するタイプらしい。
その後も私は青島さんから、変身グッズカタログをもらったり、他の変身ヒーローの話を聞いたりアドバイスをもらい、連絡先を交換して別れた。
ヒーロー初日でついてるな、と私は内心満足してしまっていた。だが、勉強の時も参考書を買って満足するタイプであるのを思い返し、慌てて姿勢を正して自分の頰を軽く両手で叩いた。
やがて日が落ち、荒川がオレンジ色に染まりはじめた。踏切の音が遠くで聞こえ、やがてすぐそばの鉄橋を電車が規則的な音を立てて通過する。
そろそろ切り上げて家に帰ろうと思い、米まみれの手を公園の水道で洗っていると、突如甲高い悲鳴が聞こえた。
直感的に嫌な予感がした。
すぐに濡れた手のまま悲鳴のした高架下に駆けつけると、薄暗くなりつつあった通路で女子高生が中年男性に腕を掴まれていた。
両手が異常に汚い変身ヒーローのお話 ノモンハンすぐる @bookless
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