或る最後の晩餐【戦争・切なめ・約4500字】

お題

・コロッケ

・アルフォート

・戦争



 長いこと雨が降り続いている。灰色の雲の下、俺たちは地を這うように溝を掘り、穴を掘り、じっと、その隙間に身を隠している。

 塹壕、というやつだ。頭の良い軍事学者様たちが考えた、俺たち前線の人間に言わせれば最低最悪の戦争発明だ。程よく互いの身を守り、かといって完全に攻撃を防いでくれるわけでもなく、二十四時間恐怖を与え続けながら、決着を付けることもなく、日々互いの隣人を少しずつすり減らす、両国兵士にとっての拷問装置だ。

 雨の向こう側に煙る敵陣を、俺は塹壕の縁から眺めた。


 きっと、相手も似たようなことを考えているに違いない。

 苦しいだけで、戦う理由も俺たち当人同士には大してないっていうのに、どうしてこんなところで鉄砲大砲向け合わなきゃならないんだ。


 昔、一人で敵の塹壕に爆弾を持って突っ込んでみようかと思ったことがある。そっちの方が楽なんじゃないかって。けれど、できなかった。どうしても身を乗り出すことができない。論理的には分かっている。死んでしまった方が楽だ。それは、事実かどうかは別として、確かなことだ。

 しかし、どうしても頭によぎってしまう光景がある。


 ちょうど一年前くらい、去年の秋だった。名前しか知らないし、ほとんど喋ったこともない奴だったが、俺の隣で、俺の目の前で、脳天に風穴を開けられて、それきり動かなくなった奴がいる。

 その光景を思い出すと、俺もあの時、同じように転がる死体に変わっていたら、という憧れのような気持ちと、堪えられない吐き気が湧いてきて、足を踏み出せなくなる。

 そうやって、俺は今日も雨の下で、静かに、人形のように銃把を握り締めている。




 田舎に婚約者がいる。お約束みたいに、ポケットに写真が入っている。自分で言うのもなんだけど、そこそこ、美人だし、そこそこ、性格も良いと思っている。

 帰れるとは、思っていない。そう言って笑いながら冷たい飯を一緒に食った奴らは皆先に逝ってしまったから、思わないようにしている。


 手料理を食べたのは一度だけ、出征の時だけだった。彼女の家は裕福じゃないし、俺の家も裕福じゃない。俺たちの村は絵に描いたような農村で、金はないけど食い物だけはたくさんあった。けれど戦争が始まったら、食い物もなくなった。

 それでも、俺たち村の若者が連隊兵として出征する時には、無理をしてパーティを開いてくれた。仲間たちは皆、村長の家が出してくれた大きな肉の話をする。あれはせめてもの優しさだって奴もいれば、あれはせめてもの見得だって奴もいた。

 だけど、俺はそういうささやかな贅沢のことは、あんまり覚えちゃいない。


 彼女の家は貧乏で、ジャガイモくらいしか持ち寄れるものがなかった。それでも、皿いっぱいに揚げたてのコロッケを積んで、彼女の両親は会場に持ってきた。彼女も、一緒に作ったんだと、そう言っていた。

 俺はその味が一番印象に残っている。




 前線の塹壕を奪い取るための攻撃指令が本部から下った。作戦は単純だ。まず、なけなしの砲弾をまとめて敵の塹壕目掛けてぶちこむ。その後に全軍で一斉に突撃する。以上。

 身もふたもない。鉛の砲弾を撃ち込んだら、次は人の弾丸を撃ち込もうというわけだ。

 俺は昔みた白黒映画で、大砲で飛ばされて宇宙旅行をする、という話を思い出した。俺という人間砲弾の行き先が月か、それとも火星だったらどれほど幸せだろう。

 だが俺の行き着く先は二択で決まっている。飛んで、飛んで、殺すか、殺されるか、どっちかだ。


 雨は止まなかった。小隊長は「運がいい」と呟いた。悪天候で見通しが悪いほうが、こっちに弾が当たりづらい。

 ぜえ、ぜえと、荒い呼吸の音が塹壕に響いていた。声はしない。

 誰一人、叫び出したいと思っても、それを口にはしない。


 昼下がり。


 一斉に、後方の砲兵陣地から制圧射撃が始まった。目の前の敵塹壕に立て続けに砲弾が炸裂し、地形ごと削り取るような轟音と噴煙が視界を埋めた。

 そのまま、雨は降り続いていた。砲声が止んだ時、敵陣は、まるで墓場みたいに静かだった。


「突撃!」


 こちら側のそこかしこで行進ラッパが響き、それと同時に小隊長の号令。ときの声を上げて、小銃を手に塹壕から飛び出した。

 とにかく、前を見て走る。走るしかない。止まれば的になる。逃げれば味方に撃たれる。前に進むしかない。

 次の瞬間。

 静かだった敵陣から、一斉に銃口が飛び出した。なぎ払うような機関銃の掃射が、俺の前を走っていた男を打ち倒した。


「伏せろ!」


 これでは本当に操り人形だ、隊長の指示に従ってその場に這いつくばる。泥が口に飛び込む。


「斉射用意、撃て!」


 号令に合わせて、まともに狙いもつけずに引き金を引く。追加の砲撃が、目の前で敵陣を吹き飛ばす。


「前進! 前進!」


 万力で捻り上げたような、奇怪な叫び声を上げながら、銃弾で動かなくなる味方を踏越えながら、ただ、前へと進む。


 突然のことだった。

 うわっ、と俺は声を漏らした。視界がぐるんと回って、わけがわからなくなった。頭を打った。最初、俺は脚を撃たれたんだと思った。戦場では撃たれても感覚が麻痺して痛みを感じないことがあるんだと聞いていたから。

 だけど違った。視界が土壁で、そこで俺は、地面を走っているつもりで塹壕に突っ込み、足を踏み外して転がり落ちたんだとわかった。

 すぐに立ち上がり、背後を見たとき。

 敵だ、と思った。

 サブマシンガンの銃口をこちらに向けて、不思議な顔をしていた。きっと、俺も似たような顔をしていたはずだ。どうすればいいのか分からない、でも、すぐに決断しなくちゃならない。そういう、迷いとうめきの顔だ。

 小銃を向ける。距離が近い。このまま突っ込んで、銃剣で突き刺せ。


「うわあああああ!」


 俺は叫んだ。そうしたら体が動いた。


「止めろ!」


 俺の国の、言葉だった。それを聞いた瞬間に、その、自分とほとんど同じ歳に見える男の、恐怖の顔を見とめ、俺はまた、動けなくなった。

 死んだな、と思った。

 しかし、俺は男の銃弾では死ななかった。

 轟音と閃光が、俺の感覚器官を埋めて、焼いた。




 目が覚めたのは、顔に当たる雫に気づいたからだった。

 まだ、雨が降っているらしい。

 まだ、俺も生きているらしい。


「生きていたか」


 そう声がして体を起こすと、さっきの敵兵が俺の隣に座りこんでいた。


「食うか?」


 そう言って、チョコレートビスケットを差し出す。チョコレートの部分に、船の絵が描いてあるやつで、軍の支給品ではなさそうだった。受け取ってかじると、ずっと味わっていない、優しい甘さが口に広がった。


「美味いだろ、好きなんだこれ。官給品のごみみたいなチョコじゃない」


 まるで知り合いみたいな口調で、男はそう話した。

 俺は返事をしなかった。


「何で、生きてるんだ」


 しばらくして、俺は不意にそう呟いた。


「死ななかったから、生きているんだろう」


 男はそう言った。まあ、そういうことを聞きたいわけでもないだろうな。と呟いてから、続けて言った。


「この陣地はお互いに放棄されたらしい。攻めてきたお前らは頑強な抵抗に遭い、撤退。攻められた俺たちは熾烈な攻撃をくらい、後退。混乱して、両方陣地を捨てて逃げ出してしまったわけだ。つまり、この場所は、お互いに、敵が支配している、と思っているんだろうな」


 最悪だった。味方の陣地に帰るにも、敵の陣地に投降するにも、ここから出ればどちらに行っても「敵陣から出てきた兵士」ってことになる。途中で撃ち殺されるか、運よく辿りつけてもスパイ扱いされるのが関の山だ。

 そのうち、両軍がここに攻勢をかけてくるだろう。そうしたら俺たち二人こそが最前線だ。生きて帰れるとは思えない。


「吸うか?」


 俺はもらったチョコレートの代わりに、煙草を返した。トレンチコートの内側は濡れずに済んでいた。男は受け取る。傷だらけのジッポーライターで火をつけてやる。「いいライターだな」そんなそっけない言葉を聞きながら、自分も吸った。


「何で、俺たちの国の言葉を話せる?」


 俺がそう聞くと、不思議そうな顔で男は言う。


「隣同士の国なんだ、相手の国の言葉を喋れるやつくらい、いたっておかしくない」


 雨から煙草の火を守りながら、加えて言う。


「戦争をしているからって、隣の国には悪魔が住んでるわけじゃない」

「そうか……そうだよな」


 そう、戦争をしているからって、悪魔が住んでいるわけじゃない。俺たちが銃を向け合っているのは、隣人――同じ人間だ。


「多分、俺たちは生き残れないだろうな」


 男が、ほとんど他人事という風に煙草を吹かしながら呟いた。俺も同意見だった。


「なあ、あんた、死ぬ前に何か一つ選ぶなら、何をしたい?」


 突然、男がそんなことを俺に訊いた。こういう時によくある、じゃあ、そっちはどうなんだい? という訊き返しを俺はしなかった。

 先に答えが口を突いてしまったからだった。


「コロッケが食いたい」


 男が、不思議そうに更に言う。


「コロッケ? ずいぶんとまあ、質素な願いだな」


 どうせ、人と話すのもこれが最後なのだろう。そう思えば、田舎の恥ずかしい思い出話も語るに躊躇いはなかった。




「……なあ、それなら最後にコロッケを食わなきゃ死ねんだろ」


 俺が話し終えた時、男がそう呟いた。


「そんなこと言っても無いものは無い」

「作ればいい」

「材料だって無いだろ」

「ジャガイモはこの塹壕の備蓄壕にまだ残ってる。ラードは俺が隠し持っていた奴がある……こう見えて俺は炊事班なんだ。パンと小麦は残っちゃいないがな」


 俺は嘆息した。


「じゃあ衣が付かないだろ。それじゃいいとこ素揚げのフライドポテトかふかし芋だ」


 男は笑いながらポケットをまさぐると、さっきのビスケットを出して見せた。


「見ろ、こいつは小麦で出来てるぜ」




 ジャガイモをふかして潰し、卵も小麦粉もつけず、ただ砕いたビスケットを衣にした不格好なコロッケを二つ、男は壕の炊事場で揚げてくれた。


「雨が上がったな」


 男が空を見て、口笛を吹いた。空には虹がかかった。


「どうだ、絶好のコロッケ日和じゃないか」

「同時に、絶好の砲撃日和でもある」


 俺がそう返すと、男は違いない、と言った。

 俺たちは壕の中で、並んで一個ずつコロッケをかじった。


「うまいか?」


 訊いた男に俺は首を振る。


「決してうまくはないな」


 男は笑った。


「けど、あいつを思い出すよ……ありがとう」

「なら良かった」


 そう男は言ってから、こう付け加えた。


「さっき、死ぬ前に一つ選ぶなら何をしたいか、って訊いただろ? 俺の答え、あんたが言うチャンスをくれなかった」


 そう言うから、とってつけたように俺は「じゃああんたは何がしたい」と訊いた。


「俺は、最後に誰か一人でいいから、人の役に立って死にたい」


 そんなことを言うから、俺は笑った。


「まるで面接試験の修道士だな」

「そうさ、俺はいつだって神様ってやつを信じてる」


 男は少々劇がかっているが、しかし真剣な顔と声色で呟いた。

 そうか、最後にそういうのも、良いのかもしれない。


「死ぬ五分前に信仰に目覚めた俺を、お前の神様は救ってくれるかな」

「大丈夫さ、何せ神様だ、人みたいなみみっちい度量はしてないよ」


 ああ、でも、そうだな。


「いや、やっぱり俺は、神様に天国に連れていってもらうのは遠慮しておくよ」


 俺は空を見る。青が広がっている。


「俺は空の上より、あのさびれた田舎の、稲穂を渡る風の中に帰りたい」


 また、砲声が響き始めた。

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三題噺 阿部藍樹 @aiki-abe

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