死神と龍【ファンタジー・重め・死生観・約10000字】
お題
・台風
・死神
・眼鏡
その少女――ラメルテは、村では死神と呼ばれていた。
この国では、皆生まれつき何かの魔法を授かって生まれる。火を起こすとか、水を流すとか、傷を治すとか。ささやかな力を持つ者もいれば、大きな力を持つ者もいる。
ラメルテの授かった魔法は、稀有で、この世界にどうしても必要で。
そうして、呪われた魔法だ。そうした魔法を授かる子が、時たま、そして不思議なことに途切れなく、必ず生まれる。
生き物の命を吸い取る魔法だ。
古い言い伝えでは、その魔法を持つ者は死を司る天使アズライルの胃袋に繋がっているのだと言われている。その魔法を使い、命をアズライルに捧げることで、この世界は安寧の加護を得ているのだと。
その日は仕事になると、ラメルテは村の癒し手から言われていた。
ラメルテは村外れの森の中に一人で住んでいる。村の死神たちは代々皆そうしてきた。多くの人が勘違いをしているが、それは決まりだからそうしているわけではないし、ラメルテも自分で選んで一人になった。多分、代々の死神たちも先代に倣ってきたわけじゃない。死神をしていると早いうちに、そう分かる時が来る。
森の家へは道は繋がっていない。ラメルテだけが家の場所とたどり着き方を知っている。木々を分けてしばらく歩くと街道に出る。
季節はもう夏で、うっそうと茂る枝葉の下を出ると、黒いローブは酷く暑かった。
街道を歩いて村に入る。すれ違っても、彼女に声を掛ける者は誰もいない。そんなことは気にも留めず、ラメルテは目的地を目指して坂を上っていく。
家に入ると、全員黒い服に身を包んだ、この家の主人と家族たちが恭しく頭を下げて少女を出迎えた。
「ご苦労様」
奥の部屋から出てきた村の癒し手が、ラメルテにそう声を掛けた。彼は微笑を作る。ラメルテにこんな顔を見せられる者は、もはや彼しかいない。
「見せて」
そうラメルテが言うと、癒し手は頷いた。
その間、この家の者たちが顔を上げることはなかった。
奥の部屋には寝台が一つ。大きく、深く息をしながら一人の老婆が眠っていた。
「眠りの魔法を掛けているが、もう手の施しようはない」
少女は老婆の姿を見分するように、じっと見つめた。
手の施しようはない――この癒し手は優秀な男だ。彼の見立てが間違いであったことは、ラメルテが覚えている限り一度もない。それでも、ラメルテは必ず自分の目で、相手の命の器を確かめる。
その感情を何と呼ぶのか、ラメルテにはもう思い出せない。
誠意とか、綺麗な言葉で飾り立てれば、そういうもの。
小さく頷いて、ラメルテは癒し手に言う。
「魔法を解いて」
癒し手もまたラメルテに頷き返し、小さく呪文を唱える。老婆に掛けられた、安らぎと眠りの魔法が解け、老婆が、もうよく見えない両の目を、かすかに、ゆっくりと開いた。
まだ、老婆は夢を見ているようだった。いや、見ていたのだろう。
「おや……やっと、お迎えかね」
そう消え入りそうな声で老婆が呟く。まだ呪文の魔力の、その残滓が、老婆の意識を朦朧とさせ、同時に苦しみを遮っているようだった。この癒し手はここ数代の中でも抜きん出た腕をしているという。
「ええ。すぐに楽になる」
「……ありがとうよ」
ラメルテは老婆の耳元に口を寄せると、彼女の出せる一番小さな声で、注意深くその呪文を唱えた。
老婆の目が、刹那にかっと見開かれた。それからふっと、強く、大きく、それまでの姿からは嘘みたいな息を吐くと、老婆はもう一度、ゆっくりと眠りへ落ちていった。
もう、目覚めることは無い眠りだ。
病気や怪我を治す魔法を授かる者はそれなりにいる。その中で強い力を持つ者たちの多くは「癒し手」という職を選ぶ。癒し手は求められ、尊敬される立派な仕事だ。
しかし癒しの魔法は万能ではない。
それに対して、死は平等で万能だ。
強い者にも、弱い者にも、若い者にも、老いた者にも、男にも、女にも。
大切な人にも、かけがえのない人にも。
誰にでも必ず、死は等しく、一度限りの接吻をする。
人はいつか死ぬ。どうしてもそれは変えられない。
もう癒し手にもどうしようもない、ただ、苦しみだけがその者の生を満たした時。ラメルテはその残された僅かな生を、静かに、残さず魔法で吸い上げる。
それが彼女の仕事。それゆえに。
少女は、村では死神と呼ばれていた。
ラメルテが家を出て、しばらく歩くとこんな叫び声が聞こえてきた。
「お前がばあちゃんを殺したんだ! この死神!!」
ラメルテは小さく息を吐いて振り返る。さっきの家の、男の子だった。
「この人殺し!!」
「ええ、その通り」
ラメルテは返事をする。
「私が貴方のおばあさんを殺した。私は死神で、私は人殺し。それで?」
「そ、それで……って」
彼女が当たり前のように答えると、少年はたじろいだ。
「どうする? 大人たちに私の悪口でも言いふらす? それとも……敵を取って、私を殺してみる?」
そうラメルテが問いかけると、う、う、と少年は声にならないうめき声を発し。それから、大きな声で、道の真ん中で泣き始めた。
ラメルテはそんな少年を置き去りにして、家路を急いだ。
自分が正しいことをしているなんてつもりはない。けれど、少年の方が正しいとも、ラメルテは思わない。
生きることも、死ぬことも、生かすことも、殺すことも、自分の為であり、同時に人の為である。そのことをラメルテはよく知っている。
死んでほしくないと思うのも、多く、それは生者の独りよがりだ。
彼女も、生まれた時からこんな生活をしていたわけではない。もっと幼い――ラメルテ自身が、「仕事」と呼ばれるそれが何を意味しているのかはっきりとは分からなかった頃は、家族がいたし、家は村にあったし、村の子供たちと遊ぶこともあった。遊び相手は少なかった。彼らの親が良い顔をしないからだ。だから、いつも隠れて森で遊んでいた。
それでも、ラメルテにも友人と、家族がいた。それは確かな過去だ。
幼い少女は仕事になると親に連れられ、意味も分からず、言いなさいと言われた言葉を注意深く唱えて、役割を果たした。そうすれば、癒し手と両親だけは褒めてくれた。その時の癒し手はまだ先代の老人だった。
その癒し手の最期の命を吸い上げたのも、ラメルテだ。
大きくなると、自分のやっている事の意味がラメルテにも分かってきた。それに従って、両親は彼女の境遇について少しずつ知識を与えた。
その運命は幼いラメルテを苛んだ。
それでも、死神としてはラメルテは恵まれていた。彼女の仕事はずっと、死にかけた人を楽にしてやるような――感謝をされるようなものばかりだった。運が良かった。
運が良かっただけ。
ある年の夏、村を日照りと嵐が交互に何度も襲い、作物を全て枯らしてしまったことがあった。村の長老衆はそれを、天使アズライルに捧げる命が足りないための災いだと判断した。その為、その年の秋には、死に近い者の命だけではなく、もっとしっかりとした命が――生贄が必要だろうということになった。
選ばれたのは――ラメルテと親しくしていた少年だった。
その日、両親は何度も何度も、必要なことなんだとラメルテに説明をした。分かるね、と。分かってくれるね、と。何度もラメルテに諭した。
ラメルテは拒んだりはしなかった。それが意味のないことだと、もうラメルテにも分かっていた。怒りもせず、静かに頷き、両親の話を聞いた。
ただ、歯が鳴るほどに体が震えていた。
ラメルテが少年の家に行くと、家の居間には親も誰もいなかった。二階の少年の部屋に上がると、そこにはフードで顔をすっぽりと覆った男が二人、少年を寝かせた寝台の横に立っていた。彼らは呪い師で、少年が動けないように呪いの魔法で縛り付けていたのだ。
「さあ、魔法を唱えなさい」
そう呪い師が促す。ラメルテは少年の横に歩み寄る。少年は目を見開き、何かを訴えようとしているようだった。それを見て、少女は涙を流し、そうして初めて、自分が死神であるということの本当の意味を悟った。
呪文を唱えないと。そう、ラメルテは少年の耳元に口を寄せる。
遊んでいた時、彼とこんなに近づいたことはなかった。
彼の、こんな表情を見たことは、一度だってなかった。
「……できない」
そう振り返り、少女は訴えた。
「私には、こんなことできない」
呪い師の一人が頷く。
そうか、やめて貰えるんだ。そうラメルテは思った。しかし、次の瞬間。
後ろからもう一人に頭を掴まれた。驚きに見開いた目蓋を、後ろから指で押さえつけられる。
「何するの!? 止めて!!」
ラメルテは逃れようとするが、大人の男の力には敵うはずもない。もう一人の呪い師が目の前までやってくる。そうして。
「……!!」
呪いの呪文を唱える。否応なくラメルテはそれを聞き、見てしまう。
それは、操り人形の魔法。
もう彼女には、体を自由にすることが出来なかった。ただ少年と同じように意識だけが残されていた。
やめて、やめて。
ラメルテは心の中で必死に叫ぶ。しかしそれに反して、体は勝手に少年の寝台の、その横に跪く。
覗き込まれた少年の顔。覗き込んだ少女の顔。
恐怖に見開かれた両目。涙で前も見えない両目。
人殺し……!
その時、少年がそう罵倒した気がした。それが本当の声だったのか、ラメルテの罪の意識が抱かせたまやかしの音なのかは、今となっては分からない。
だが、それが彼女にとっての本物であったことは、確かだ。
ラメルテの唇が、少年の耳に触れる。
やめて、お願いだから。
ラメルテはもう言い慣れたその呪文を、はっきりと自分の声で聞いた。
その夜、家に帰ったラメルテは部屋に籠りきって泣いた。両親は彼女をなんとか居間に連れ出し、食事か、せめて水だけでも口に含ませようと声を掛けたが、部屋から聞こえる鳴りやまない嗚咽から、それも止めた。
泣いて、泣き疲れて、いつの間にかラメルテは眠ってしまっていたようだった。
目が覚めた時、まだ夢を見ているような感じがした。
ベッドサイドに灯したランプが、揺らめきながら、淡い黄色の光を放っていた。
それを見ていると、まだ、眠っていていいんだよ、と誰かに呟かれているような気がする。
下から、かすかに声が聞こえた。父さんと、母さんだろうか。
ずっと、ここに籠るわけにもいかない。起きよう、起きて、話をしよう。
ラメルテは導かれるようにベッドを抜け出すと、ぺたりぺたりと冷たい床を歩き、部屋のドアを開け、階段を下りた。
「父さん? 母さん?」
居間のドアを開けた時。
同時に聞こえたのは、母の悲鳴だった。
正面に父の背中が見えた。それが震えて、崩れて。
その先に見えたのは、昼にラメルテが命を奪った、少年の父親の姿だった。ラメルテはその手に握られた、父の血に濡れ、ぬらりと光るナイフを見た。
瞬間、ラメルテは目前の光景を認めなかった。彼女の見る景色は、あり得ないほどにゆっくりと、しかし確かに、移り変わっていった。
「ラメルテ、来ちゃだめ!!」
母が、ラメルテに気づき叫ぶ。
「うおああああ!!」
少年の父親が、まるで森の狼のような、およそ人のものではない声で叫び、母に突進する。ラメルテは身じろぎ一つできず、母の体が、もたれるようにくの字に曲がるのを見ていた。
「ラメルテ……愛してる」
生きて。
母の体を振り払った少年の父親が、今度はラメルテの方を見た。
その時、少女は初めて、両親が彼女に伝えた死神の教えを破った。
――この呪文を聞いてもいいのは、お前と相手、二人だけだ。他の誰にも聞こえないよう、ラメルテの出せる、一番、一番小さな声で唱えるんだよ。
村の長老衆の判断で、ラメルテの両親と、少年の父の死は、なかったことになった。少年の母は一人、村を追われた。
彼女の大切なものは、彼女の力で、否応なく壊れた。
その時、ラメルテは村を出て、森で独りになることを選んだ。
独りでも、生活に苦労はなかった。死神としての仕事でラメルテは安くはない報酬を得ていたし、嫌われていても、村で買い物をするのに差別をされたりはしなかった。
皆、死神のことは良くは思わない。けれど、必要なことも分かっている。
森は良かった。静かで、豊かで、森の木や獣たちは、ラメルテが死神であることを知らない。知っていたとしても気にも留めない。
ここには、人は自分一人きり。いっそこの世界に私一人になってしまえば、そうすればもう、死神をしなくても良いのに。
あり得ないことを、ラメルテは時々、夢想する。
そんな昼下がり、ラメルテの暮らす小屋の戸が不意に叩かれた。
彼女の家を知っているのは癒し手と、長老衆の使いの者だけだ。しかし戸を開けた時、そこに立っていたのは見慣れない、眼鏡を掛けた青年だった。
「君が死神さん?」
「……貴方、誰? 村の人じゃないでしょう」
ラメルテは問いに答えず、警戒して尋ね返す。この小屋には道がない。知らない者はたどり着けない。彼は眼鏡を押し上げると、にこやかに答える。
「僕はアズィーダ。君の言う通りこの村の人間じゃない。遥か西の国から、いくつかの平原と、一つの砂漠と、二つの山脈と、一つの海を越えてここまで来た。この国には、何でも殺せる魔法を持つ者がいる、という噂を聞いてね」
その話を、ラメルテは怪訝な顔をして聞いていた。すると、アズィーダは小さく息を吐いてラメルテにこう注意をした。
「僕は質問に答えた。だったら、君も訊いたことくらいは答えてくれてもよさそうだけどな」
ラメルテは嘆息して返事をする。別に答えても構わない。村で聞けば誰でも知っている話だ。
「……ええ。確かに、私が死神よ。それがどうかした?」
「そうか! やっと見つけた!」
そう青年は嬉しそうにラメルテの手を取って笑顔を見せる。
「君に、僕を殺してほしいんだ!!」
ラメルテは苦いものを口に含んだような表情で、じとりとアズィーダを睨んだ。
「……ちょっと、いいかしら」
「構わないよ」
「まず、何の義理があって、私が貴方を殺さなければならないの?」
「だって、君は死神だろう?」
「たとえそうであっても、見境なく殺したりはしないし、私は好きで死神をやっているのでも、命を奪っているのでもない」
「僕だってそうさ、好きで生きているんじゃない」
――吐き気がするくらい独りよがりな奴だ。
生きたくたって生きられない者は大勢いる。ラメルテは苛立ちながら台所へ入ると、包丁を一本持ち出し、くるりと回して柄をアズィーダへと向ける。
「……じゃあ、勝手に死ねばいいじゃない。どうぞ」
そう言うと、アズィーダはからからと笑った。
「刃物一本で死ねるならとっくにそうしているよ、わざわざ長い時間を掛けて遥々こんな異国まで来たりはしない」
「……どういうこと?」
「僕は死ねないんだ」
「死ねない?」
頷いて、アズィーダは自分を指差して言う。
「こう見えて僕はね、不死の邪龍なんだよ」
突然に現れて、訳の分からないことを言う青年を追い出し、いらいらしながらもなんとか、ラメルテは小屋に静寂を取り戻した。「また来るね」とアズィーダは言った。ラメルテは返事をしなかった。
しかし次の日も、昼下がりに青年はやってきた。「サンドイッチがあるから一緒にお昼でもどう?」と言って。その次の日には「村の花屋で売っていたんだ、花瓶あるかな?」とささやかな花束を携えて。
「……ねえ、貴方は一体何がしたいの?」
「君と仲良くなりたい」
「なぜ?」
「仲良くなれば、心変わりをして君は僕を殺してくれるかもしれない」
「……この前も言ったでしょう。私には貴方を殺してやる理由も、義理もない」
理由と、義理か。そうアズィーダは呟き、それからこう言った。
「分かった。夜、もう一度来る。君に会いに来るのはこれで最後だ、だから今晩だけ、会ってくれないかな」
ラメルテはそのアズィーダの言葉に、不思議な自信と、必死さを認めた。彼が何を語るのか、好奇心もあったかもしれない。それが彼女に返事をさせた。
「……今晩限りよ」
その夜、もう草木も寝静まる頃合いに、アズィーダは約束通りラメルテの小屋を訪ねてきた。来るなりアズィーダはラメルテに手招きをする。
「少し外に出よう」
アズィーダはそう言うと、魔法で宙に火を灯し、明かりにした。その日はちょうど新月で、森の中は、明かり無しではまるでただの闇と見分けがつかないほどの暗さだった。
「どこに行くつもり?」
「いいから」
彼にとっては慣れない異国の森のはずなのに、アズィーダは庭を散歩するような調子で迷いなく進んでいく、しばらく行くと、ぽっかりと、木々の無い広場のような場所へ出た。それを見てラメルテは驚いた。
「……こんな場所があるなんて、知らなかった」
「僕たち龍はね、結構色々なことが、直感的に分かるものなんだ……危ないから、離れていて」
そう言うと、アズィーダはラメルテを広場の端まで遠ざけた。何をするつもりだろうか。
「新月の今晩なら、姿を見咎められる心配もないだろう……証拠を見せるよ」
微かな星明かりが映すアズィーダの影が刹那、地を這うように膨らんだ。黒い水たまりに見えたそれはすぐに、広場一杯に湖のように広がる。すると、今度は煙の如く立ち昇り始めた。
次第にその漆黒が陰影を帯び、実体を宿す。巨大な鱗の一枚一枚。上空へと伸びるは三つ首。折畳まれた、巨木の胴よりもなお大きな一対の翼。その圧倒的なまでに禍々しく、美しい姿に、ラメルテは息を飲んだ。
「これが、僕の本当の姿」
真ん中の首が、すっとラメルテの足元にまで降りてくる。
「乗ってごらん、大丈夫」
ラメルテは言われるがままにその首に跨った。鱗は冷たく、なめらかだった。
「しっかり掴まって」
そう言うと、巨大なアズィーダの体躯は、ゆっくりと宙へと浮かんだ。翼が夜の大気を掴み、アズィーダは空へと、雲の先までも上っていく。
苦しくも、寒くも、暑くもなかった。アズィーダが魔法で守ってくれているのかもしれないとラメルテは思う。
「分かってくれた? 僕は本当に邪龍なんだよ」
「……分からない」
「これでもまだ?」
「貴方が龍だと言うのは分かった。けれど、貴方は、邪と言うには……のほほんとしすぎているわ」
「のほほんか……まいったな」
そうアズィーダは笑う。やはり、結界のようなものでラメルテは守られているらしい。彼女の周囲をたゆたう空気は、星の光を照り返し、きらきらと、砂金のように輝いている。アズィーダはぐんと加速して、それから言った。彼の言葉は心の中に直接響いてくるようだ。
「でも、僕はもう数え切れないほどの命を奪ったよ。大人も子供も年寄りも、男も女も、家畜も野生の獣たちも、木も草も花も、全部全部粉々の塵に変えてきた」
「なぜ? ……貴方はそんなことをするようには、見えないわ」
花を塵芥に変えてきた者が、村で花束を作って美しいなどと言うのだろうか。その姿もまた、まやかしなのだろうか。
「なぜって、君は分かると思うけどな」
「私に?」
「じゃあ聞くけど、ラメルテ、君は何で人を殺すの?」
そう言われて、ラメルテははっとする。アズィーダは笑って言う。
「ほら、同じだろう?」
それは、死神であるから、としか言いようがない。
彼にとっても、それは邪龍であるから、としか言えないのだ。
「でも、僕は悪いことをしたと思ったことはないよ。農夫は畑を耕す、鍛冶師は槌で鉄を打つ。僕は同じように、街や村や城を丁寧に耕して、逃げ惑う人々を打ち叩いてきた。それが僕に与えられた役割だ。僕はそこに貴賤は無いと思う」
「貴方は、自分のしてきたことに後悔はないの?」
「……悪いの反対が、正しいわけじゃないさ」
「……そうね」
その通りだ、とラメルテは思う。自分だって、間違ったことをしてきたつもりはない。与えられた役割を――誰かが被らなければならない血を、自分が被ってきたのだ、とも思っている。
けれど、だからと言って自分が正しいなんて思っていない。善だとも思わない。
誇りなんて持てない、それに。
「……辛いね」
「ああ、そうだね」
雲の上は澄んで、一面に深い藍色だった。夜に見る水源の池のようだ。空気と水は、もしかしたら形を変えた、同じ存在なのかもしれない。
「どうして、私たちみたいな、要らないものが生まれてきちゃうんだろう」
「僕たちは要らないものなんかじゃないよ」
そう、アズィーダは遠い景色を懐かしむように言う。
「農夫のように、商人のように、分かりやすい価値が与えられなかっただけ。父のように、母のように、分かりやすく誰かから必要とされなかっただけ。それでも、僕も君も、ここに生きている」
翼が風を巻く。
「殺さなければ生きられないと、そう運命付けられても、それでも生きてきたんだ」
アズィーダはゆっくりと旋回しながら、元の広場を目指していた。
「君は理由も義理もないと言った。理由は、今見せた通り」
「義理は?」
「君は、僕が生涯において背に乗せて飛んだ、ただ一人の人だ。それじゃ足りないかな」
ラメルテは返事をしなかった。アズィーダは構わずに続けた。
「僕は明日、邪龍となってこの国をめちゃくちゃにする。王都を潰し、街を破壊し、そして、この村を焼く。君のことも殺しにくる、だから……」
――僕のことを、ちゃんと殺してね。
翌朝。ラメルテは目を覚ますと村へ出た。
村は騒然としていた。遠く、アズィーダの咆哮がこの村にまで響き渡る。
アズィーダから眼鏡を預かっていた。これは魔法の眼鏡で、ずっと遠くで起こっていることも、まるで手元のように見えるのだという。
とても大きな、大きな黒い雲が渦を巻いて、王都の上空まで立ち昇っている。
騎士団が壊滅した。魔法師団の攻撃は一切効かない。体からは無数の魔物が溢れ出してくる。邪龍は千の魔法を使いこなし、大嵐を起こして一切を灰塵へと変える。
逃げてきた者たちの噂話に、村は戦々恐々としていた。
彼は、約束通り、この村まで来るのだろう。
ラメルテは村の入口に向かい歩いた。逃げていく人たちとたくさんすれ違った。今日ばかりは「貴方も逃げなさい」と言う人もいた。しかし、ラメルテは全てを無視した。
ラメルテが村の入口にたどり着くと、ちょうどアズィーダが地に舞い降りたところだった。
「私、考えたの」
目の前の禍々しい、昨日その背に乗った邪龍に、ラメルテはそう話しかける。
「私が貴方を殺さなければ、貴方が私を殺してくれるんじゃないかって……そうやって、貴方ではなく、私に幕を引くのもいいのでしょう?」
数は違うかもしれない。けれど人の命を奪い続けてきたのは自分も同じ。なら、殺す側と殺される側、逆転したっておかしくはない。そうラメルテは言う。
しかしアズィーダは、昨日と同じように明るい声で笑った。
「いやいや、それは、ずるいじゃないか」
「ずるい? 私が?」
「苦労自慢をするわけじゃないけど、僕はたくさん考えて、たくさん悩んで、たくさん苦しんで、そうして死に方を選んでここまで来たんだよ……少なくとも、とっても若い死神さんよりはね」
「思い切り苦労自慢じゃない。その上貴方の勝手で凶器にされるなんて、よくよく考えたら私、たまったもんじゃないわ」
「仰る通り。確かに、それはごめんね、謝るよ。でも……」
アズィーダはラメルテの前に中央の頭を垂れ、言った。
「それを差し引いたってさ、君にも、せめておばあちゃんになるくらいまでは死に方に悩んでもらわないと、さすがに不公平だと思うんだよね。僕、こう見えて三百年も邪龍をやってんだぜ?」
ラメルテはアズィーダの頭を、抱くように唇を寄せた。その鱗は冷たく、なめらかで、そして美しく陽に照らされていた。
「だからさ、ここは僕に譲ってほしい」
「どうしても?」
「ああ。龍っていうのはね、結構わがままな生き物なんだ」
――仕方ないな。
ラメルテは彼女の出せる一番小さな声で、呪文を唱えた。そうして不死の邪龍は、その日、やっと永遠の眠りについた。
焼け爛れた国は混乱し、邪龍討伐の功績が誰にあったのかが正しく歴史に記されることはなかった。ただ、ラメルテが住んでいた村の言い伝えに、微かに痕が残るだけだ。アズィーダの命にアズライルが満足したのか、以後、死神の魔法を授かる子は一人も生まれなかったという。
ラメルテがどう生き、どう死んだのか、今となっては知る者はもう誰もいない。
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