第4話 騎馬隊の長・・・喜多見


前回は、5世紀初頭、倭の五王と野毛大塚古墳のあるじについて考えてみました。

大量の武器や武具、櫛などから、倭の五王の初代とされる讚、応神天皇のもとにいて軍を統率した女性防衛大臣であったと推定してみました。ヤマト政権の中枢にいたと考えたわけです。

また、一方で、野毛大塚古墳の第2主体部に葬られた被葬者の石棺からは全く違う副葬品がこれまた大量に出土しています。包丁や食器などを石で模した厨膳具が中心です。どういうわけか下駄もありました。2代目は朝廷の厨房を預かる職務、膳所に就いたようです。今日当てはまる部署としてあえて言えば農林水産大臣といったところでしょうか。滑石製の模型は、群馬県藤岡市の白石稲荷山古墳から出土しており関係が指摘されています。このことから、2代目はヤマト政権との強いつながりを持ち、かつ上野の有力者とも関わる、2面性を備えた、東国に地盤を持つ有力者な豪族であったと推測されます。

こうも違う副葬品が連続して出てきたということは、時代がスピードを持って動いていおり、適任者を次から次へと交代させたということではないでしょうか。職業の世襲はなかったということも指摘できます。歩兵を率いた長が、騎馬を率いる長に代わり、前者はお役御免となって膳所の長になったのでしょう。朝廷の食事の責任者ですから左遷ではありません。しかもグルメの長ですから、やはり世田谷の原点を考える上で重要な人物だったと思われるわけです。

さて、野毛大塚古墳からは馬具が一切出てきていません。朝鮮半島に百済救出のため出陣した日本の歩兵は、高句麗の騎馬軍団に蹴散らされたのです。この敗戦のショックは大きかったと見え、ただちに、半島の友好国である伽耶から馬と馬具を導入しました。というよりヤマトとカヤの双方の大王が相談して、騎馬隊を日本へ派遣し、日本の歩兵を騎馬武者として養成したというのが現実でしょう。

実は、それを裏付ける痕跡が世田谷で発見され証明されているのです。


場所はなんと喜多見です。


平成12年、喜多見7丁目の一帯に位置する喜多見中通り遺跡で、古墳時代の住居跡から鉄製の馬具が発見されました。

馬具は5世紀初頭には九州に、さらに畿内をへて東国には5世紀半ばに伝わったとされていましたが、喜多見で出土したのは轡で5世紀半ば、関東では最古、かつ住居から出た例はほかにないとされています。

この喜多見周辺に住居を構えていた人々がいち早く馬を使用していたことがわかったのです。野毛大塚古墳の第1被葬者は歩兵の武器と武具でしたが、喜多見のそれは騎馬を想定させるものです。言っときますが農耕馬ではありません。

騎馬を扱う、この人たちはどういう人たちだったのか?伽耶から渡来したのか?野毛のあるじに仕えていた子孫なのか?また国内から移動してきた人たちなのか?

わたしはカヤから集団で渡来したと考えています。乗馬は経験を積まないと出来ません。騎馬隊による合戦は集団行動を訓練しないとこれまた出来ません。指導者と部下たち、それと家族が集団で渡来し、武蔵国の住人を選抜し指導しなけらば騎馬武者にはなれなかったと考えるからです。馬具だけ持っても宝の持ち腐れになるだけです。しかも轡が伽耶製であることが確認されています。対馬海峡を渡り、東国の辺境で地元民を騎馬隊ににするため訓練していたと考えられます。


時はまさに倭の五王、武の時代ですから雄略天皇の時に当たるわけです。興味は止むことがありません。しかし、確実に、やはり、世田谷はヤマト政権と密接に通じた先進的な地であり、広くアジアとも通じていた言わざるを得ないわけです。

当然ながら交易品としての馬具や武具も流通したと見てよいでしょう。


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世田谷とは何か‐世田谷人と交易の歴史‐ @wada2263

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