第七章
第七章
その日の真夜中のこと。
「おい、大丈夫か?あんまり咳き込むと、よくないのではないの?」
不意に頭上から咳き込む音がして、杉三はめが覚める。
「寝れんのか。それとも何も食ってないから、腹が減ってめが覚めたの?」
「そんなことないよ。」
咳き込みながら水穂はそう答えた。事実、ご飯を食べようという気には、毛頭ならなかった。
「どうも落ち着かんな。やっぱり強力な薬品なんかで、眠った方が、楽かなあ?」
ちょっとからかうようにそう言った杉三だったが、水穂は相変わらず咳き込んだままである。
「おい、ちょっとさ、咳き込んでないで、お外を眺めてみな。月が出ていて、綺麗だよ。満月だよ。ほら、みてみろや。」
ちょうど杉三が、カーテンを閉めるのを忘れていて、正面の出窓に月が浪々と出ていた。山ではなく、住宅の上から出ているのが大きな違いである。
「あまのはら、降りさけ見れば、春日なるう。」
「杉ちゃん、よしてよ。そんな偉い人の歌は。」
水穂は、そう言ったが、杉三は続けた。
「三笠の山にいでし月かも。」
「そんな、やめて。僕らは偉い人じゃないよ。」
水穂は大きくため息をつく。
「でも、、、。」
そんなことをいう、水穂の目にポロンと涙が浮かんだ。
「日本に帰りたい。」
「何を言ってるんだ。」
そうつぶやいたのを杉三は否定した。
「なんで。」
「こっちのほうがよっぽどいいよ。段差はないし、道路歩いても何も言われないし、何よりも、僕らを馬鹿とか変な奴としてみなす人もないし。」
「杉ちゃんのこと言っているんじゃないよ。」
「おんなじことさ。だって、そういうことだもん。こっちにいたほうがよっぽどいいんじゃないの?少なくとも、日本で馬鹿にされてきた僕らはな。だって、お前さんは日本にいたら、絶対いい病院なんて入らしてもらえるわけがないじゃないか。それくらい、お前さんが身をもって体験していることだろ?せっかくよ、名前を知らないが、あの禿げ頭の先生がいい病院探してくれるって言ったんだからよ。だったら、それに乗っちゃえば?それで、しっかり治してもらってさ。日本に帰るのは、そのあとでもいいと思うぜ。これは裏を見れば、いいチャンスかもしれないよ。」
「まあ、それはそうなんだけどね、、、。杉ちゃんみたいに、何でも明るくやれれば、悩みなんて必要ないのかもね。」
水穂は寝返りを打って、ため息をついた。
「なんだ?悩んでいることって。」
「杉ちゃんには話してもわからないだろうな。そうやって明るく考えるんだから。」
「いや、ぜひ、教えてもらいたいよ。最も僕が答えを出すまで聞き続けるの、知ってる?」
「そうか。いわなきゃいけないか。」
蘭のように、この言動を責めることはしなかった。これに文句を言っても無駄なことは知っている。だから、先に答えを言ってしまった方がいいと思っている。そのほうが、おかしな騒動も起こらなくて済むだろうし。
「じゃあ、言うよ。杉ちゃん。見届けたいっていうか、そういう思いがあったんだよ。ほら、杉ちゃんにはあまり関係のない話かもしれないけど、もうすぐ元号も変わるでしょ。そこだけは見届けたかったけれど、それもやり遂げられないうちに逝くのかなって。」
「ふうんなるほど。そういうことなら、何とか対策を立てなきゃいけないな。確かに歴史の変わる瞬間って見たいもんだからな。そういうときは、素直に言えばいいじゃん。たぶんこっちは、今でこそ違うけど、フルボン朝とかあったんだから、王朝が変わるっていうのかな、そういうことには敏感だと思うよ。それなら、素直に帰りたいと言えばいい。現に、イギリスみたいに、今でも王朝が現存している国家も少なくないもんねえ。」
「よく答えが変わるね、杉ちゃんは。さっきまで、マークさんたちと同じこと言っていたのに。」
水穂は、杉三が正反対の答えをいったので、思わず驚いてしまったが、杉三の返答はというと、こうである。
「そんなこと知らないわ。ただ、僕は事実に対して答えを出しただけだよ。ほら、青柳教授も言ってたでしょ。人間は、事実だけしか持つこともできないし、事実に対してどうしようかと考えるしかできないってさ。それに善悪も甲乙もつける必要はないの。こういう事実があったら、こういう対策をとればいい。それだけの話。」
「ほんと、杉ちゃんみたいに答えを考えられたら、国家紛争何て起こらなかったんだろうな。」
杉三の答えは、単純そのものであった。本当に何でもそうだけど、答えというのは意外に単純であることも多く、それをめぐって、変なものがくっついてくるから、複雑化してしまうということは本当に多いのである。
「それだけじゃないよ。どうせね、僕みたいな人なんてね、災害があったら道路に放置されたままで当たり前だったんだよ。そのまま何十日も放置されて、カラスが何十羽も飛んできて、突っつかれた状態で帰ってきたことも珍しくなかったの。そんなところに住んでいた人間が、ヨーロッパまで来て、いろんな人に看病してもらって逝けるなんて、贅沢にもほどがある。それでは、いけないんよ。やっぱりね、こういう人は、こんな贅沢してはいけないんだよ。」
「いや、それはどうかねえ。そこは気にしなくていいのではないかと思うけどねえ。そこばっかり気にしたがるが、せっかくマークさんたちもいてくれるんだから、気にしないでやってもらってもいいと思うが、、、。」
「そうだけど、やっぱりいけないことはいけないの。最期の最期まで、部落民はそれらしく生きなきゃ。やっぱり、僕らがそういう目に会ったのって、きっと何か意味があったんでしょうし、最期の時だけ贅沢をするなんて、きっと良い方には向かわないと思うんだよね。」
「変な奴。まあでも、歴史ってそういうところあるからね。そういう人っていうか、民族って少なからずいるよね。僕としてはそういう納得の仕方はあまり好きではないのだが、まあ、お前さんがそう思うのなら、特に手は出さないよ。だったらな、そういうこともちゃんと説明するんだな。きっと日本の部落制度なんて、こっちは相応するものが何もないからな、非常に説明するのが難しいと思うけど、ちゃんと通じてから、行動に移そうな。でないと、マークさんたちが一生懸命気遣ってくれたことを、お前さんは、全否定していることになるからな。」
「まあ、わかってくれたのか、くれてないのかよくわからないが、とりあえず、聞いてくれてありがとう。」
杉三がそう反応したため、水穂はとりあえず、礼を言った。
「そうか。まあ、バカの一つ覚えで反応しただけだからね、正解か不正解かは僕は知らない。だから、必ずしも、実現するとは思わないでね。」
「そうだね。」
杉ちゃん特有の反応に、思わず笑ってしまうのだった。
「よし、力抜けたか。それじゃあ、眠れるかな。じゃあ、お月さんでも眺めてボケっとしてろ。そのうち、眠くなってきて、眠れちまうよ。月がーでたでーた、月がーでたー、よいよい。うちのおーやーまーの上にーでたー。あんまーり、煙突ーが高いーので、さーぞーやーおつきさーん、けむたかーろ、さのよいよい。」
「杉ちゃんには、イタリア歌曲より、炭坑節のほうが似合うような気がする。」
水穂は、一言杉ちゃんに言って、また寝返りを打った。不思議なことに、このセリフを言ってしまうと、なぜか体に閊えていたものがとれたような気がした。それが取れると、やっと眠りたくなった気がして、静かに眠ることができた。
翌日。
パリ市内の図書館で、膠原病について調べ物をしていたチボーであったが、少なくとも、この図書館には良い本は見つからなかった。どうもこの図書館では、古い本ばっかりで、最新の本というのはなかなか、借りられないようなのだ。まあ、図書館の本というのは、どこでも新しい本はすぐに借りられてしまうのだが、、、。結局、今日は何も収穫はなく、図書館を後にした。
今日も資料は何もなしか、とがっかりして、シャンゼリゼ通りをとぼとぼ歩いていると、また例の万事屋さんの前を通りかかった。また日本食ブームで変わった食品を仕入れているようであったが、彼の目に飛び込んだのは、目玉商品のコーナーに置かれていた、藁人形のようなものである。
「あれれ、これは何ですかね。」
と、驚いてみてみると、威勢のいい店長が、どうだ、一つ買っていくか、日本のイバラキというところから仕入れてきたぞ!と自慢げに言ったので、イバラキという単語でピンとくる。あ、イバラキというのは、もしかしたら茨城?直感的に、あるものと関連が思いつき、文句ひとつ言わないで、すぐにそれを買った。
そろそろ、お昼の支度をしなきゃいけんな、と、杉三とマークが話しているところ、急に玄関のドアががちゃんと開いて、こんにちは、いいものを買ってきましたあ!と叫びながら、チボーが雪まみれになって、飛び込んでくる。
「何、どうしたの!せんぽ君!」
杉三が急いでそういうと、
「喜んでください!ついにこれが手に入りました!水穂さん、喜ぶと思って、買ってきたんですよ!これだったら、豆腐以上に栄養価が取れるそうですよ!」
チボーは鞄から、食料を取り出して、テーブルの上に置いた。
「何だいこれ?呪いの藁人形か?」
「違いますよ、杉ちゃん。呪いの藁人形ではありません。日本では、納豆の本場なのに、こうして保管しないんですか?」
「何!納豆だって!」
そうか、昔は納豆というものは、こうやって藁の中に入れて保管していたのだ。今でこそ、パック入りが通例だが、現在でも伝統的な納豆の産地では、このような形で保管しているという。茨城県の水戸市では、こういうやり方が、多いということだ。
事実、杉三が藁を解くと、ビニール袋入りの納豆が、飛び出してきた。
「よし、これを食わしてやろうぜ。水穂さんが、豆腐より納豆のほうが、好物なのはよく知られているから。」
杉三はすぐに、納豆を深鉢型のお皿に開けて、付属していた納豆のたれをふっかけ、ぐるぐると納豆をかき回す。
「あ、納豆を食べるにはお米を炊かなくちゃいかんな。」
「いや、万事屋のおじさんに聞いてきたんですけどね。ご飯にかけるだけがすべてではないようですよ。パンに乗せて食べる人もいますし、納豆を卵とあえて、焼いて食べることだってできるそうです。だから、豆腐よりも、料理の幅が広がるという。この前、豆腐を買ったときは、調理の仕方を聞いてくるのを忘れてしまったのを思い出して、ちゃんと聞いてきました!」
「偉いねえせんぽ君。よし、それでは、今日は取り合えず、納豆そのものを食わしてやろうな。また手に入るだろうからよ、少しづつ、納豆料理の仕方、教えてあげるから、楽しみに待っててね。」
その間に、マークはお茶を用意して、お盆の上に乗せた。
「ここには箸がないが、まあよし。とりあえず、納豆はフォークで食べてもらおうな。できれば箸があると、理想的なんだが。ほら、知らないか?食べ物を挟んで、口へ運んだりする、二本の棒っ切れのことだよ。」
「ああ、杉ちゃん、それなら任せてください。この前すりこ木を作ったときのように、また薪ストーブの残りで作れます。」
「おう、じゃあ頼むわ。ぜひ作って頂戴よ。作り方とか、大きさはわかるかな?」
「大体、フォークと同じ大きさがあればいいですよね?すぐ作れますよ。冬はまだまだ続きますから、薪ならまだまだいっぱいあります。」
「よし、それで頼むよ。とりあえず今日は、フォークを使うから、明日には箸で納豆を食べさせられるようにしたいな。」
「わかりましたよ。杉ちゃん。作っておきますから、任せてください。」
「頼りになるねえ、せんぽ君は。」
杉三がそういうと、チボーは材料を取りに行ってきますと言って、いったん自宅へ戻っていった。その間に杉三は、水穂の大好物をすぐにやってしまおうということにした。その時は、トラーも立ち会いたいと言った。最近の彼女は、水穂に対して杉三が何かすると、すぐにくっついてくるようになっている。
「水穂さん喜べよ。君の貴重なたんぱく源であり、大好物がこっちの万事屋でも手に入るようになったぞ。」
杉三が、でかい声で客用寝室に入ってきた。水穂は、うとうとしていたが、その声を聞きつけて目を覚ます。
「おい、喜べよ!君のすきな納豆が、食べられるようになったんだよ!」
杉三は、水穂の目の前に皿をでんと置いた。
「まあ、ここではお箸がないが、そのうちせんぽ君が作ってくれるそうだから、待ってろや。とりあえず今日は、フォークで食べて。」
にこやかに笑って、杉三はフォークで納豆をついた。もちろんフォークなので納豆はしっかり絡みつかないのであるが、とりあえず、食べられる量はすくえた。
「ほらたべろ。」
にこやかに納豆を口元へもっていくが、水穂はぎょっとした顔で杉三たちのほうを見た。
「食べんのか?」
もうちょっと納豆を口に近づけると、納豆のほうから嫌そうに顔をそらした。
「なんで?」
トラーはそう聞いてみたが、その顔は何とも言えない悲しい顔つきで、涙がポロンと出た。
「あのねえ、日本では、納豆は貴重なたんぱく源で、肉魚一切抜きの生活のなか、体力の供給源だったんだけどね。」
杉三が、でかい声で解説をしたのだが、水穂は何とも言えない悲しい顔であった。それどころか、出現するのを恐れていた化学兵器でも現れたかのように、涙をこぼした。
「水穂さん、食べろよ。せっかくせんぽ君が買ってきてくれただよ。それで申し訳ないと思わないのか?」
杉三は、それだけを言っだだけであった。その裏には何もないのだが、水穂には重大な裏切りと思えてしまったようである。
「ほら、食べろ。納豆買ってきてくれたのに。こっちではなかなかてに入るもんじゃないんだぜ。日本のスーパーマーケットみたいに、すぐに手に入るのかっていうわけじゃないよ。おい、頑張って食べてよ。」
「杉ちゃん。」
水穂は、静かに言った。
「昨日、炭坑節歌ってたのは、嘘だったね。杉ちゃんは、形だけの返答しかしなかったね。」
「そんなわけないじゃないか。僕がおかしなこと言うわけないでしょうが。何を言ってるんだよ。」
いつも通りに、軽い口調で言い返す杉三であったが、水穂には、そうではなかったようである。
「どしたのよ。」
「杉ちゃん、無理して言わなくていいよ。無理して僕がした発言に、合わせようとする必要はないから。本当は、杉ちゃんだって、こちらにいるべきだとおもってたから、わざと僕の発言に同調するような発言したんです。それしかなかったんでしょう。」
「あのねえ、僕がお前さんをはめようとしたことは一回もないんだけどね。昨日発言したのは、軽い気持ちで言ったわけではないんだけどねえ。なあ、お前さんも、その頑固なところは、やめたほうがいいのでは?」
ところが、水穂は、もう杉三のほうへ顔を向けようとしなかった。知らない、もう話したくない、という表情がはっきりと見えたのだ。とにかく、きれいな人というのは、顔の表情などはっきりしてしまうものだから、杉ちゃんに対して、嫌悪感を持ったということははっきりわかった。
「僕、悪いことしちゃったかな。」
杉三が、口元へ近づけていたフォークをもとへ戻した。
「仕方ないじゃないの。きっと勘違いしていたのよ。そのうち、誤解が解けると思うから、大丈夫。杉ちゃん、気にしないで。」
トラーは、杉三にそっと言った。杉三も、その場ではとりあえず、そうだよな、と言って笑っていたが、部屋の中の空気は一気に悪くなって、気まずいものとなった。
「でも、何とかして、納豆食ってもらえんだろうか。なんだか、せんぽ君に申し訳ないよ。」
もう一回、杉三が納豆の乗ったフォークを近づけるが、水穂は布団をかぶったまま、反応しないのだった。
「それだけのつもりだったんだけどな、、、。」
たぶんきっと、水穂さん、日本に帰るきっかけが欲しくて、何か作戦でも立てようと自分に持ち掛けたのだろうなと、敏感な人なら気が付くんだろうが、杉ちゃんは全く気が付かなかった。それどころか、水穂さんどうしたんだろうと首をひねったまま、フォークを元に戻した。
こういう時こそ、トラーは、あたしたちが何とかするしかないと思った。逆を言えば、水穂さんが、もうちょっとこっちへいてくれるきっかけというものはつかめたのである。杉ちゃん、逆にそのほうがよかったのよ、と、トラーは頭の中でそういったのだった。
その次の日。チボーが約束通り、不格好な形をした箸を持ってきてくれた。これから万事屋さんでも、納豆の売り上げが好調なので、これからも、納豆は沢山仕入れるそうです、と朗報を聞かせてくれたけど、杉三もトラーもマークもがっかりした表情で、何も言わなかった。水穂はと言えば、一切の食べ物を口にせず、せき込み続けるしかできない。水穂さん、大丈夫かなとチボーは心配になってしまった。
そうしているうちに、ベーカー先生がやってくる日が近づいてくる。もう、答えを言うのは、本人に任せるしかないという結論を導き出して、成り行きに任せるしかなかった。もちろん杉ちゃんは、蕎麦掻を作ったり、納豆焼を作ったりして、今までと変わらず明るく過ごしていた。時折、公園の近くを通りかかると、先日のおばさんたちに挨拶されたりして、また人気者になりつつあった。杉ちゃんってどうしてあんなに面白いことができるんだろうと、ちょっと恨めしく思われた。
水穂さんのほうが、どんどん衰弱していくような気がした。これでは本当にかわいそうだと思うのだが、水穂さんは、誰に対しても反応しない。これでは、文字通り、こっちにいたほうが、良いのではないか、と誰でも思うくらいだ。とにかく、ベーカー先生に何とかしてもらうしかないと、チボー達は確信つけてしまった。
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