第六章

第六章

「今日はベーカー先生が来るから、頑張ってね。もし何か聞かれたら、ありのままを答えればいいのよ。何も飾らないで言えばいいからね。日本人は謙虚すぎて肝心なことをそらしてしまうようだけど、

そんな気遣いは全くしなくていいのよ。」

トラーが、半分頭のぼんやりした水穂にそういった。

「はい、わかりました。」

とりあえずそう返答してくれたけど、トラーは、水穂がしっかりと発言してくれるかどうか、はなはだ疑問だった。日本人は、どうしても相手の権力とか地位と言ったものに弱いので、そういう人に応じて変な風に言葉を変えてしまうことが多く、本当に必要なものが得られなくても平気でいる、と聞いたことがあったからだ。

「多少、うるさいことを平気でいう先生でもあるけれど、そこはやめてとはっきり言ってね。ベーカー先生、腕はいいけど、すぐ宗教的なお話をしたがるから、気に障るって人も多いのよ。だけど、どこどこが痛いとか、どこどこが苦しいとか、そういうことは、その通りにはっきり言わなくちゃだめだからね。」

「はい。」

トラーがここまで言い聞かせたが、水穂はそれしか返答しなかった。

「大丈夫かなあ。」

あれ以来、もっと弱っちゃったな、と、トラーは水穂を悲しそうに見つめた。

杉ちゃんとマークは、診察の間、公園にでも行ってもらうことにした。これはトラーが切実に望んだ。もし、杉ちゃんに一緒に居られたら、変に揚げ足をとられて、診察が正確にできなくなってしまうかもしれない。マークは、そこまでしなくてもいいのではないかと言ったが、トラーもチボーも、とにかく、この診察で何とかしてやりたいから、と言って、杉ちゃんには外へ出てもらうように懇願したのである。

実は、トラーとチボーは、例の「危ない薬」をベーカー先生に見てもらったあと、「ある計画」を思いついたのである。危ない薬から回避させるには、もうこうするしかないよ、とチボーが提案したことによるものだった。これを、杉ちゃんにばらしたら、大変なことになる、という一面もあった。

「おーい、連れてきたよ。雪で電車が遅れていたので、ちょっと遅くなってしまったけど、来てくれたよ。」

玄関のドアが開いて、チボーが耳たれ帽をかぶったベーカー先生を連れてきた。ベーカー先生は禿げ頭なので、いくら電車が暖房していても、寒いのだろうなとわかった。いつもなら笑いたくなってしまうのだが、今回は笑わなかった。

「こっちです。日本から来た、あたしたちの大親友みたいな人なんです。」

ベーカー先生は、日本語をあまり理解していなかったのか、まず、彼の名と、日本のどこから来たのかを聞きたがった。とりあえずチボーが、彼の名は磯野水穂さんで、日本の静岡県富士市というところから来た、とフランス語で説明してやると、それを一生懸命メモに書いていた。

とりあえず、トラーたちは、ベーカー先生を客用寝室に案内した。水穂も、ベーカー先生がやってきたのに気が付いたらしく、挨拶しようと試みたが、その前にせき込んでしまう。これをみたベーカー先生は、すぐに聴診したり、体をたたいてみたり、嚢胞だらけの首まわりを観察したりしはじめた。トラーたちはそれを黙ってみていたが、しまいには、いかつい顔として知られている、ベーカー先生の顔に、涙がにじみ出ているのをみて、思わずびっくりしてしまう。

一通り診察し終わると、ベーカー先生は、何かつぶやきながら、顔をタオルで拭いた。しばらく目をつぶって、黙祷するような姿勢になった。そして、もう一度顔を拭くと、チボーのほうを見て、しっかり伝わるように、通訳してくれと言った。水穂は、フランス語は大体わかるから大丈夫と断ったが、ベーカー先生は確実に伝えなきゃいけませんからと言って、通訳をするようにと命をだした。

「これはですね、これでは明らかにひどすぎます。よくここまで放置されたまま、平気な顔していられたものですね。周りの人も、あなたがここまで苦しむのを見て、なんで何もしなかったのでしょうかと、不思議なくらいですし、あなた自身も泣いて痛みを訴えるとか、何もしなかったんですか?」

チボーがそう通訳すると、水穂は黙ってしまった。ベーカー先生はさらに続けた。

「こんなにひどい状態まで進行した患者さんは、戦前でもない限り見たことがありません。こちらでは、ここまで進行させてしまうと、人権侵害として、逮捕されちゃうんですよ。人権侵害は、殺人と同じくらい重い犯罪になるんです。と、いうのは、いまの時代ですと、適切な薬品で治療をすれば、こんなにひどくなるまで進行してしまうことはまずないんですよ。一体、日本では、どういう環境で生活されていたんでしょうか。」

ベーカー先生の顔は真剣そのものだった。水穂も、製鉄所というところで住み込みで暮らしていたと、弱弱しく答える。うーんそうですか。と、なると、きっと碌な生活ではなかったのかなあ、と考えながら、ベーカー先生は、次のように切り出した。

「まずですね。もう、手の施しようがありません。それははっきりしておきましょう。本来、免疫抑制剤の大量投与などで、ある程度の進行は防げますが、ここまで衰弱しきっているので、強力な薬品の投与はかえって危険すぎると思われます。」

ベーカー先生は、医師らしいことを言い始めた。トラーもチボーも、改めて言われると辛い。

「ですが、ここだけはどうしても本人に聞かないとわからないのですが、一体、なぜこうなるまで放置していたのかということです。本来、この病気であれば、連続的に激しい症状がおこりますから、誰かに痛みを訴えるとか、周りの人たちが様子がおかしいとか、気が付くはずなんですよ。もし、組織に勤めていれば、健康診断などで、血液の成分がおかしいと、発見されて、病院を訪ねるとかするはずなんですけどねえ。一応ですね、膠原病といいますのは、メカニズムはよくわかっていないけれど、症状としてはわかりやすいので、誰でもおかしいと気がつくはずなのですが?」

今日はベーカー先生、なかなか雄弁だ。いつものうるさい先生とは少し違っている。

「まあねえ、非常に稀な病気というのは、よく知られていますよ。これは他の膠原病にくらべると、発生頻度は少ないですから。しかし、一度かかると、よく知られた病気の症状があちらこちらに出るわけですから、重度になりやすいことは間違いありません。逆に、そうなるわけですから、見つけやすいことも確かです。ですからね、どうして何もしないで放置していられたんでしょうか。そこがどうしてもわからないところでして。既に、肺が瀕死の状態に近いですし、もう少し詳しく検査すれば、心臓にも影響が見られるでしょう。」

ベーカー先生のセリフはある意味残酷で、通訳しているチボーも辛かった。

「そういうところが、昔流行っていた伝染病とは全くちがいます。それよりも遥かに治療が難しく、危険な病気です。症状こそ似てますが、単に病原菌を叩けば良いわけではない。ですから、できるだけ早く、膠原病について専門的な知識がある病院に入院したほうが良いでしょう。良かったら紹介してあげましようか?」

やっと救われたと思った。じつはこれこそ、トラーたちが望んでいたセリフだったのである。

「事実ですね、このまま放置してしまいますと、恐らく春まで持たないでしょう。まあ、これをつたえると、衝撃は大きいと思うんですが、医者としては、どうしても言わないといけませんし、患者さん本人にも、しっかりわかってもらわないと困ります。」

ベーカー先生は、本当に辛い台詞を言った。通訳するチボーは、辛くて仕方なかった。

「ですが、症状を緩和する、和らげることはまだ可能だと思います。そのためにも、専門病院に入っていただきたいのです。言語的に心配なら、ボランティアで通訳をつけることもできますよ。それに、こちらでは、できるかぎり悪化させないことも法律で義務づけられていますから、すくなくとも、対処療法として、出血を止めることは可能でしょう。このままいったら、他の臓器にも炎症が起きて、大量に出血する可能性がありますし、そうなれば、激痛に苦しむことになります。あるいは、内臓が硬化して、食物が摂れなくなることもあるでしょう。他にも全身の筋肉が衰えて、文字どおり寝たきりどころか、意思の疎通ができなくなることもあり得ます。体の皮膚も、既に背中には嚢胞が大量に見られますが、これが全身に波及すれば、映画に出てくる怪獣のような容貌になるでしょう。それが、同時に来るかもしれないし、特定の臓器から少しずつ現れてくる場合もあるので、予測ができないのも怖いところですよ。ですからね、そうなる前に、しっかりと設備が整った医療機関にいくべきだと思うのです。これはですね、笑い事ではなく本当に深刻な問題だ。事実、こんなに進行するまで放置していたら、私まで適切な治療を施さなかったとして、捕まってしまう。」

ベーカー先生の言うとおりだ。そんな症状、ひとつひとつをとってみただけでも酷いものであるのに、それが全部現れるなんて、想像しただけでも恐ろしすぎる。本人だけではなく、周りの人も、苦痛でたまらないだろう。

「どうですか。いってみましょうか。もし不安があれば、通訳もつけますし、食べ物に関しては、病院に申請すれば考慮してくれるようになっていますから。例えばね、イスラム教を信仰している患者さんには、豚肉入りの料理は提供しないとか、しっかり対策はしてくれます。」

「じゃあ、肉魚一切抜きと言っても大丈夫?」

急にトラーが口を挟んだ。

「はい、大丈夫ですよ。仏教を厳格に信じているかたには、そうしてくれという患者さんもいますからね。中には精進料理を提供している病院もありますよ。そのほうが、治療食としても合理的です。フランスでは、脂肪のとりすぎが問題になってますが、精進料理ですと、たんぱく質は高いけど脂肪が少ないので、治療食として、現在人気なんです。」

「ということは、食べ物に関しては大丈夫ね。あとは、看護師がやかましいとか、平気で酷いことをいうとか、そんなこともないわよね。」

「はい。医療者と一緒で、ずさんな介護をしたり、患者をバカにするような発言を繰り返すと、看護師も逮捕されることになっています。なので、おかしな発言をする者はまずいません。」

やっぱりさすが西洋であった。人間をしっかり人間としてみよう、という姿勢が根付いている。食べ物に関して考慮したり、患者さんへの態度を変えずに接するというのが、当たり前になっている。いろんな宗教を信じている人がいるから、日頃から違っていい、という考えに慣れているのだろう。ちょっと異質なところがあると、すぐに潰してしまおうとする、日本の姿勢とは、訳が違っていた。

「どうですか?根本的に病気を治すことはできませんが、すくなくとも、こちらでは、これ以上悪化してしまわないよう、何とかすることは可能です。出血したら、激痛を和らげようとすることはできます。筋力の低下に関しては、できるかぎり歩く練習をして、進行を遅らせることもできますよ。第一、入院したとしても、よほどのことがないかぎり、病院に閉じ込めることはまずありませんから。よろしければ、皆さんに付き添ってもらって、いってみましょうかね?」

ベーカー先生の説得は、実にありがたかった。トラーも、チボーも、ここまで話してくれれば納得してくれるだろう、と予測していた。第一、その顔がゴジラみたいな顔に変貌するなんて、信じられないくらいだった。

「ぼ、僕は。」

水穂は、静かにいいかけたが、多分わかってくれないだろうな、と思ったのだろうか。それ以上話さないで黙ってしまった。

「ここまで話してくれたんですから、ちゃんと言ってみたらどうですか?」

チボーは、そう言ったが水穂は答えは出さずに、

「少し考えさせてください。」

とだけ、静かに答えた。トラーもチボーも落胆の表情をみせる。

「わかりました。ですが、実に深刻な状態なんですから、なるべくはやく答えを出してくださいね。本当に、軽く考えてはならない、危険な病気ですからね。命にかかわることですから、答えは早ければ早いほどいいのは言うまでもありませんよ。」

ベーカー先生が、二人の気持ちを代弁してくれるように言ったが、水穂の表情は変わらなかった。


「そうかあ、、、。」

チボーが、診察の結果をマークに報告すると、マークも頭を抱えて黙り込んでしまう。

「黙らないでくださいよ。もう、こうするしかないじゃありませんか。こちらでも頑固中の頑固と言われるベーカー先生が、水穂さんを見て、思わず黙祷してしまうほどひどかったということですよ。もう、黙祷するとき、こうつぶやいていたくらいですよ。わあ、なんという酷い病気だろうって。だから、このまま日本へ戻したら、また哀れな境遇に逆戻りです。そんなことさせたくないじゃありませんか。」

「うーん、そうだねえ。だけど、故郷を捨てるということは、誰でもしたくないと思うよ。それは、日本でも、フランスでも同じだと思うけどね、、、。」

「お兄さんはやっぱりわかってないですね。例えば、こっちにも、よくクルド人が移民してくることが多いじゃないですか。彼らは口をそろえて言うでしょう。銃声ばかりのシリアよりも、安全なほうが、よっぽど楽だと。」

まあ確かに、最近、内戦が泥沼化しているシリアの土地を捨てて、クルド人がヨーロッパに亡命することはよくあった。それにより、クルド人たちと、ヨーロッパ人の文化の違いからトラブルが起こることもよくあるのだが。

「そ、それはそうだけど、クルド人はもともと定住地のある民族というわけではないからね。だから、どこに住んでも同じだし、安全さえ確保できればどこでもいいという意識があるんじゃないの?でも、日本は島国だし、移民大国というわけでもないから、やっぱりここが一番だと思っている人が多いのではないかなあ。」

「だから、水穂さんだって同じことですよ。どうせ日本に帰っても、部落民とか、かわたの人とかそういわれてバカにされるだけでしょう?もちろん、シリアのアラブ人とクルド人のように、見かけではっきり違いが判るというわけじゃないですよ。でも、結局は、同じように差別的に扱われるわけですから、日本に住んでいたって何も意味がないじゃありませんか。そうじゃなくて、誰でも少しでも長く生きていたいという気持ちは持っていると思いますから、それは、かなえてやるべきなんじゃないですか?日本にいると、それをしたくてもできなくなってしまうわけですよ。それだったら、そういう文化のないところに居させてやる方が、安全に過ごせると思います。それに、ベーカー先生も言ってました。日本では、危ない薬が平気で出されているので、薬のせいでかえって重症化してしまうこともあるそうです。そんなところ、僕たちはとても行かせる気にはなりませんね。」

「そうだけど、、、。いくらそういう人であっても、やっぱり故郷は故郷であると思うので、、、。」

「お兄さんは、そういうところが甘すぎるんです。もっと決断を早くしなくちゃ。だからこそトラーだって、ああしてだらだらと続いてしまうんじゃないですか?」

チボーにまでそういわれて、マークは頭を抱えた。確かに自分の決断力のなさというのは自覚していたが、まさかトラーのことまで指摘されてしまうなんて、自分もダメな男だなあと思う。


そのトラー本人は、まだ客用寝室で、水穂に晩御飯を食べさせようと躍起になっているところであった。

「ほら、もうちょっと食べて。頑張って。」

とりあえず、杉ちゃんが煮物として作ってくれた高野豆腐に、フォークをグサッとさして、水穂に差し出す。水穂も、何とかして口に入れるまでは成功したものの、咳き込んで吐き出してしまうのであった。

「あーあ、ダメだこりゃ。おい。頑張って食べろよ。薬と思ってさあ。どうしたんだろう。昨日まで一つか二つは食っていたのに、今日は一つものどを通らないじゃないか。」

隣にいた、杉ちゃんに言われて、何とかしてもう一個挑戦してみたが、口に入れて噛もうとすると、そこが刺激になってしまうのか、また吐き出してしまい、どうしても飲み込むということはできない。

「おかしいなあ。今日はマスタードを入れたりはしていないんだけどな。確かに辛いものを食ったときは、よく咳き込んだことはあったけど、そうでもしないのに、こうなるとは、、、。」

そうしているうちに、口に付けていた手から、ぼたぼたと赤いものが落ちてきたので、トラーは急いで口元をタオルで拭いてやった。

「おい、こら。しっかりせい。人の家に来て、布団汚したら、困るでしょ。」

声掛けしても、意味がなく。これではご飯なんか食べさせるべきではないのかなあと、杉三もトラーもそう思った。

「今日はもう横になる?休む?」

トラーに背中をさすってもらいながら、そう声をかけられて、やっとそこだけ頷いた水穂であった。

「わかったわかった。薬飲んでもう寝よう。でも、あの睡眠薬はもうなしよ。あれは危険すぎるから、もう使ってはだめよ。」

そういってトラーはベーカー先生が処方した薬を出した。とりあえずの対症療法として、臓器からの出血に対する止血薬と、炎症を抑える薬を出してもらっていた。例の危ない睡眠薬は、今すぐにやめるべきなのだが、禁断症状が現れるといけないので、まず似たような効き目を表すが、比較的弱い薬を服用する様にといわれていた。とりあえずそれらを水穂に渡し、自身で口に含ませ、マグカップで飲むことも習慣付けるようにと言った。それも、危ない薬から脱出する方法の一つだという。

水穂はマグカップを受け取ると、一気に飲み込んで、また暫くせき込んだが、次第に静かになった。そこを見計らってトラーはそっと寝かせてやり、布団をかけてやった。

「よく眠ってね。」

例の睡眠薬であれば、五分程度で眠ってしまうのだが、今回は眠るというより、うとうとしているだけであった。

「食器、片付けなきゃ。」

と、トラーは食べ物がまだたくさん残っている食器をもって部屋を出ようとしたが、水穂の少し寂しげな表情が印象に残った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る