鳥と水滴の話

七井湊

「共有体なんて言っちゃだめだよ」

 「理想の姿にはなれなかった」

 夜のマンションで一言だけ呟いた人は8階の踊り場から身を投げた。

 視界が反転する。

 視界の上部にはアスファルトと街灯があり、下部には星空や電線がある。アスファルトが迫ってくる。電線が遠ざかっていく。中空に放り出された人は、背中から地面に向かっていることをその速度から知る。重力で体は加速し、5階4階3階2階1階、ぎゅっと目を閉じて衝撃に備えると────


 ────強ばった体は軽くなっている。星空はどこかに消えて人は鳥になっている。地面を蹴り青空に漂う雲を目指し羽ばたいている。冷たい雲の感触を嘴の先から羽毛、そして全身で感じる頃には空を抜けている。体は露で濡れている。眼下には雲海が広がっている。羽根を折り畳んで雲海を垂直下降して抜けると青空はもうなくなっている。世界は夜の底に落ちている。


 雲も空も消え濡れた体からイメージできるのは水滴ぐらいしかない────そう思った瞬間に世界は夕焼け時になっている。体も鳥から水滴に生まれ変わっている。上空から地面に向けて一直線で落ちていく。世界は『茜色の夕焼け空の眩しい天気雨のある一日』として水滴を受け入れる。水滴は重力で引きちぎられカッターナイフで左の脇腹から右の腰まで切られたような鋭い痛みが走る。水滴は二つになる。


 しかしメタファーは一つのままである。夕日が沈んだ後のビジネスホテルで以前鳥だった人と以前水滴だった人の会話が始まる。


 「あなたは理想のあなたになれなかった」水滴はツインベッドに寝っ転がっている。リラックスして寝っ転がっている。親しげな笑みを見せる。鳥に訊ねる。「そうだね?」

 「だから鳥になった」と鳥は答える。鳥は固い椅子に座っている。なにか書き物をしている。

 「マンションのことは覚えてる?」

 「覚えてるよ。僕たちは共有体なんだ。わざわざ訊くことでもないだろう?」

 「ううん」水滴は首を振る。静かに、二度。笑顔を失っている。「それがそうでもないの」

 「どうして?」鳥は書き物をやめる。水滴の方を見る。水滴は寝返りを打つ。その表情は見えない。

 「私たちが似た者同士であることは、まだ伝え合っていなかったでしょう?」

 「でもお互いにわかってた」

 「だからこそだよ」水滴は溜め息をつく。その気配は水滴の背を見つめる鳥に伝わる。「だからこそ」

 「確かめたかったのかな? わかりきっていることも、改めて言葉にしたかったのかな?」

 「……そういうこと」

 「どこから話したらいいんだろう?」

 「マンションのところから」

 「わかった」

 「あなたは私の質問に答えれば大丈夫。あなたは理想のあなたになれなかった。そうだね?」

 「だから鳥になった、とは言ってはいけないんだよね?」

 「その〈だから〉には一体なにが入るのか、言葉にしてほしいの」

 「〈だから〉に入るのは」

 「うん」

 「〈理想を目指して生きることを諦めたから〉が入る」

 「……そういうこと」水滴は寝返りを打つ。再び。

 「頭の中にある火山と氷山を、君に伝えればいいんだね?」

 「火山と氷山なんて言っちゃだめだよ」

 「煮えたぎる怒りと、凍りつく静けさ」 

 「……ありがとう」

 「君の名前がなにか、訊いたほうがいいよね?」

 コク、と水滴は頷く。表情は明るい。笑っている。嬉しそうに。とても嬉しそうに。整った歯並びの横に、トマトのように赤く潤いのある歯茎が見えている。水滴は鳥の視線を気にする。恥ずかしがって手で歯茎を隠す。「……うん。訊いて」

 「君の名前は?」

 「水滴。あなたの名前は?」

 「鳥」

 「あなたともっと話していたい」

 「僕も君ともっと話していたい。……でも、どうやら時間みたいだね」

 午後8時のビジネスホテルに午前8時の学校のチャイムが鳴り響く。夜の濃紺の空と朝の水の空が混ざり合う。地震が二つ発生し、震源地のホテルは崩れ始めている。軋んだコンクリートから灰色の粉が吹いている。

 「怖い?」水滴はベッドから起き上がり、水滴は鳥のそばに歩み寄る。

 「怖いよ。君も怖がっている。君と僕は共有体だから、よくわかる」

 「〈共有体〉なんて言っちゃだめだよ」

 「双子のようなもの」

 「そう。言葉は贈り物だよ」

 「料理のようなもの」

 「そう。忘れちゃだめだよ」

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鳥と水滴の話 七井湊 @nanaiminato

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