5 Ready?

 黒樹は、それまでぼんやりと窓の外を眺めていた目を玄関扉へ向けた。

 扉が開く。それも、大きく鈴の音をさせて。

「……あの、もう少しおとなしく入ってきてくれる?」

 呆れた顔をして、入ってきた客を迎えた。

「良太くん」

 良太は、不機嫌な様子で黒樹の正面にある椅子に座ると、苛立たしげに息を吐き出した。

「コーヒーちょうだい。ミルクたっぷりで!」

「それはカフェオレ……」

 仕方ないと言いたげな様子で、黒樹は、ミルクたっぷりのコーヒーを用意した。

「一応言っておくけど、ここはカフェじゃないよ」

「わかってますぅ」

「なんの用?」

 良太は、質問に答える前にむくれ顔のままカフェオレをひと口味わった。少しだけ、表情が和らぐ。

「あいつさぁ!秋祭りからずっと他の男のことばーっかり考えててさぁ!」

 黒樹の口から、思わずため息が漏れる。

「前も思ったんだけど、キミ、僕のよく知るヒトに似てるよ。ホント残念」

「だって!俺はこんなに一途に思ってんのに!」

「相手には関係ないよね、それ」

 言い返そうと口を開いて、良太は、そのまま言葉を飲み込んだ。その通りだと思ったのだ。

「“俺のほうがかっこいいのに”とか思ってるんでしょ?」

「お、思ってる、けど?」

「まぁ、実際、顔がいいからね、キミは」

 褒めているのか、いないのか、まるで興味もない様子で、黒樹はコーヒーを口にした。

「なのに、踏み出せないのは何故なの?」

「うっ……」

 答えに詰まり、良太はごまかすようにカフェオレを飲んでいる。

「自分がもたもたしてる間に、掠め取られそうだからって、僕に愚痴ってもまるで意味ないよ?」

「そーなんだけどさぁ。……他に、愚痴る場所が見つからないんだから……仕方ないだろ」

「それでここに来るあたり、キミは友だちを慎重に選ぶタイプなんだね」

 興味なさそうに呟いて、黒樹はカップの中を見つめた。琥珀の液体は、いつもと変わらない香りを鼻腔に届ける。普通の人なら、その香りに、安堵や晴れやかさといったものを感じていることだろう。目の前のこの少年は、何を感じるのだろう――――黒樹は、小さく息を吐いた。

 良太のきれいな形の瞳が、じっと黒樹を見つめていた。

「なに?」

「名前」

「は?」

 突然の言葉に、黒樹は眉を顰めた。

「名前なに?」

 それを聞かれたのは、二度目だった。

「なんで?」

「俺は名乗ってないのに、名前を知られてる。で、俺は、お前の名前を知らない。なぁ、名前!」

 黒樹は、盛大にため息をついた。

「ホント、その発想がそっくり……。ますます残念だね」

 良太が眉を潜めた。

「その知り合いって、友だち?」

「…………は?」

 黒樹の心底嫌そうな声が響いた。

 それを聞いて、良太が笑う。

「だって、そんなによく知ってて、知り合ったばっかりの俺を見て、思い出して重ねるなんて、よっぽどだろ?」

 黒樹の瞳が静かに伏せられる。

 再び良太をとらえる瞳に、色はない。

「ただの居候」

 良太の瞳は、黒樹の持つ雰囲気になにかを見つけ、僅かに細められる。

「ふーん……。で?名前は?」

 笑顔を向けられて、黒樹は嫌そうなため息をついた。

「冷やかしなら帰ってください、お客様」

「えー。そんな距離感?」

「知らないほうがいいよ、僕のことは」

 イスにゆったりと座る黒樹の顔には、妖しい笑みが浮かんでいた。




 町の図書館の外には、大きく張り出した庇の下に木製のベンチが、いくつか置かれていた。すぐそばに人工川が流れていて、夏は涼しさもあった。今は、そこに座ってゆっくり時を過ごすのにちょうどいい季節だ。

 楓は、望と一緒にベンチの一つに座り、他愛のない会話を楽しんでいた。

「望は、慎重すぎるんだよ。もっと積極的にいけばいいのにさぁ」

「楓が積極的すぎるんだよ」

「見習っていいよー」

「あはは。でも楓、本当に大切な人には、わりと慎重なんじゃない?」

 鋭い指摘に、楓は返す言葉もない。ため息をついてうなだれた後、楓は庇を仰ぎ見た。

「そーなんだよな。今、人生で一番難解な相手にぶち当たってる」

 天を仰ぐその顔は真剣そのもので、深刻な悩みであることを伝えていた。

「……なぁ、望ならどうする?自分の大切な友人が、重大ななにかを抱えてるのに、自分には何も言ってくれないどころか、シャットアウトしてる状況で」

 しばらく考えたあと、望は口を開いた。

「……その友人が楓をそばに置いてくれるなら、いてあげたらいいんじゃないかな。シャットアウトしてても、そばにはいさせてくれるんでしょ?」

「……あぁ」

 思ってもなかった解釈だった。

「そばにいさせてくれるなら、今はそばにいることが、楓の役割なんだよ、きっと」

「そばに、いることか……」

 楓の脳裏に、黒樹の姿が浮かぶ。最近の、遠くを見ている黒樹の姿だ。儚げで、近づけないような雰囲気をした姿。

「なら、消えないようにちゃんと見ておかないとな」

「楓は、不安を隠すのがうまいね」

 爽やかに向けられた言葉に、楓は驚きを隠せないでいた。

 そんなことを言われたのは、この人生の中で二回目だ。

「え?」

 思わず、目を丸くして聞き返していた。

「そうやってポジティブに振る舞ってるけど、いろんな事を考えて不安になってない?」

「なんで、そう思う?」

「妹がそういうタイプなんだよね。自分の中で答えを見つけちゃうから、悩んでてもあんまり言葉にしないんだ」

「妹って、あの?そういうタイプには見えなかったけど」

 望の妹という雰囲気ではない、元気がよく悩みもなさそうな印象だった。

 望は、楓が受けたその印象に、苦笑いを浮かべた。

「そうなんだよねー。そういうふうにしか見えないから、また厄介でね。父さんは、そこを自然と解決してくれてたんだけど、亡くなってしまったから……」

「……そうなのか」

「で、楓と似てる」

 望が、そう笑顔で締めくくった。

 楓は、困った顔をしてうつむいた。

「望は、兄貴と似てるな」

「お兄さん?楓の?」

「そうやって、相手のことをよく見てて穏やかーに包んでくるとこ」

「…………誉めてる?」

 望の問いに楓は吹き出した。天を仰いで笑い出した楓を、望が不思議そうに見つめている。

「誉めてるよ。たまきと似てる人間がいるなんて、思いもしなかった。頼もしすぎる」

「目尻の涙を拭いながら言われてもねぇー……」

 疑いの眼差しを受けて、楓は、また声を立てて笑った。

「ちょっとビビってるんだ、俺。でも、何にビビってるのか、正直よくわからない。それが言葉にできたら、また聞いてくれるか?」

「いつでもどうぞ」

 そう答えて微笑む望を見て、やはり兄であるたまきに似ていると感じて、楓はクスクスと笑った。


―― 楓、僕にまで不安を隠さなくてもいいんですよ。――


 それは、バレていないと思っていた。自分は、ポジティブで悩みなんてなくていつも楽しく暮らしている、そんな男だと思われているはずなのに。

 兄だけが、環だけが自分の中の言葉にならない不安と怖れと警戒心を察してくれていた。それでもいいと、大丈夫だと言ってくれていた。話を聞いてくれた。

 兄は、そんな存在だった。

 隣りにいる友人を見つめて、楓は優しく目を細めた。





 楓は、人に執着するタイプではない。来る者拒まず、去るもの追わず。深く付き合う人もなく、広く浅く。

 知り合いはいても、友人と呼べる人はいない。

「ただいまー」

 機嫌よく裏口の戸を開けて靴を脱ぐ。楓は、入ってすぐのキッチン・ダイニングを通り過ぎ、同居人、黒樹がいるだろうリビングに顔を出した。

 黒樹は、思ったとおりリビングにいた。

 小さなソファーにもたれかかって座り、ぼんやりと宙を見つめている。

 楓は、黒樹が座っている側のソファーの肘掛けに軽く腰を下ろした。黒樹の横顔に背を向ける形になる。黒樹は黙っていて、楓も、何も言わない。

 楓は、考えていた。

 おそらく、黒樹の頭の中に自分はいない。頭の中にあるのは、「セイリュウ」のことだろう。

 セイリュウは紋章を持つモノ――――何者にも支配されず、どこにも属さず、全てを統べるモノ――――そんな孤独な支配者を倒そうと黒樹はしている。

「(……と、は思えないんだよな……)」

 誰にも、同居している自分にすら興味を持たない、そんなクールな生き方を貫く彼が、どうして「セイリュウ」にだけは興味を示しているのか。


 黒樹もまた、考えていた。

 来る者拒まず、去るもの追わずがモットーの楓には、その日限りのお付き合いが多い。それで迷惑を被ることもあるが、だからこそ、同居ができていた。

 誰も心のなかに入れないから、干渉し合わない関係でいられた。誰にも心の内を明かさないから、自分に小うるさくかまって来るわりに心の内を明かさなくても、それが楓だと思っていられた。


 ――――――――それなのに。


 ここに来てから、楓は、友人を見つけた。

 探ってくることを目的に潜入している高校で、探るために近づいた人間と、心を通わせている。

 

 自分には、近づいてこないくせに――――――――。



 黒樹は、苛立つ自分に戸惑ってもいた。

 こんなに体の内側がザワザワと落ち着かないのは初めてだ。


 ――――こんなのは、自分じゃない。


 それに、「良太」にも心を乱される。

 心静かに、淡々と日々を過ごしていきたいのに、このところそれとは逆のことばかりが起こる。


 全ての元凶はなんだ――――。


 黒樹の口元に、妖しい笑みが浮かぶ。

「あぁ、やっぱり……(存在してはいけなかった)」

 自分の考えに間違いはなかったと、黒樹の笑みは深くなる。

「……黒樹?」

 楓が、訝しげに聞いた。

「なにか?」

「……いや、別に……」

 楓は嫌な予感を感じている――――それがわかるから、黒樹は楽しげに笑った。

「心配しなくても、最高の結末に向けて順調に進んでるよ」

「最高の結末、ねぇ……」

 楓の予想は、黒樹に追いついていない。

 それも、よくわかった。

「さて、夕食にしようか、楓」

「今日は、俺の当番か」

「食べに行こう」

「……え?」

「なに?」

「いや、いいんだけど。どういう風の吹き回し?」

「美味しい食堂があるそうだよ。行こうじゃないか」

 黒樹が、楽しげに笑う。

 妖しさは、更に増していた。



 そこは、街の片隅に賑やかに存在していた。

 紫色の日除け暖簾、古民家風の佇まい、中からオレンジ色の明かりが溢れる。

「……黒樹?ここってさあ……」

「あの子の家だよ」

 当たり前のように、黒樹が答える。

 黒樹の機嫌がいい。それはつまり、何かを仕掛ける合図だ。

「なにする気?」

「食事だよ。食堂なんだから」

 引き戸を開けると、カラカラと軽い音がして、中から元気のいい「いらっしゃい」の声がかけられた。

「あれ?楓さん?」

 厨房からカウンター越しに、竜が二人を見ていた。

「どうも」

 とりあえず笑顔を返して、カウンター席に二人で座る。

 黒樹は、素知らぬ顔でメニューを眺めている。竜とは顔を合わせているのではないのか、と楓は気が気ではない。

「隣りにいるのは?弟?」

 お茶を運んできた竜が、黒樹を見て、楓に訊ねる。

「いや、同居人」

 驚きを隠して楓は答えた。まるで初めて会ったような反応に、驚くと同時に感心をする。何もしていないような態度をとっていながら、黒樹は、しっかり対策をしているのだ。

「同居、人?」

 竜が、眉をひそめた。同居人という呼び名に納得がいってないようだ。

「兄弟じゃ、ない?」

「兄弟に見えるか?」

「見えない。えーと、親戚?」

「違う。同居人」

「同居、人……」

 呟いて、竜は、厨房に戻っていった。

 後ろで、カラカラと店の引き戸が開く音がした。

「あれ?見たことある人が二人いる」

 扉の開く音の後で、愛想の良い声がした。二人というのは、確実に自分たちに向けられたものだとわかり、楓が振り返るとそこにいたのは良太だった。隣を見れば、黒樹が珍しく面倒だというような渋い表情をしている。

 もう一度、良太を見る。彼は、まっすぐに、自分たちの方へ歩いてきてた。

 見たことがある人が二人――――それは、確実に自分たちのこと。ということは、良太は、黒樹を知っている。黒樹に出会っている。

「(で、渋い顔をされている?)」

 黒樹の表情の変化など、めったに見られない。

 それを、自分以外で見ることになるなんて――――楓は、くるりと良太に背を向けた。

「(なんだよ、アイツ……!)」

 その時、黒樹が誰に気づかれることもなく、妖しい笑みを浮かべた。パチンと指を鳴らしても、周りの喧騒が全て消してくれていた。

 変化があったのは、楓だった。

 胸の内側にあったくすぶりが、途端に膨れ上がった。

 楓は、右手の人差し指をカウンターに何かを描くようにサラサラと動かす。

 次の瞬間、食堂の中は静寂に支配されていた。残されたのは、竜と良太。状況は、秋祭りのときと同じだ。

「さて……」

 静寂を破ったのは、楓だった。

 竜と良太は訳がわからないという顔で、楓を見ていた。

「どっちから片付けるかなぁ?」

 楓の口元に浮かぶ笑みと瞳に宿る殺意が、合致しない。

 二人はますます混乱していた。

「……ほん、もの?」

 呟く竜に、楓が笑う。

「どっちがいい?誰の幻を見せようか?」

「幻?なら、楓さんは、本物……」

「アイツほどじゃあないけど、ここは邪魔者は入らない。さぁ、どうやって片付けようかなぁ」

「本物……なの?」

「本物かどうかは重要か?」

「だって、兄ちゃんの友だちだよな?」

「あぁ、望は友だちだ。でも、これとそれは関係ない」

 直後、光の刃が竜の喉元に迫る。後ろは壁で、竜はそれで動けなくなった。

「竜?!」

 良太が慌てたように名前を呼ぶ。

「お前に力はないよな、良太。下手に首を突っ込むから、自分の命すら危うくさせるんだ」

「秋祭りも、あんたなのか?」

「良太、お前は頭が回る。一緒にいられると厄介だ。先に片付けるのは、やはり、お前だな」

 楓が、良太に一歩一歩近づいていく。手のひらには、竜の喉元を狙うのと同じ、光の刃が複数浮かんでいた。

 竜は、魔術を使おうとするが、手を動かそうとすると首元を狙う光の刃が近づいてくる。力を使おうとすると、更に近づいてくる。もう一ミリでも動いたら、首に食い込むだろう。

 どうすれば――――考えていたときだった。

 竜が先程までいた厨房から、小さな音がした。誰もいないはずの厨房からだ。

 皿が飛んだ。フリスビーのように、楓に向かって。

 楓はすぐに気づいたが、信じられないような目でそちらを見ていた。楓に弾かれた皿は、床に落ちて音を立てて砕けた。

「……望?」

「兄ちゃん……」

 厨房からまっすぐに楓を見据えるのは、望だった。

「これはどういう状況なのかな?説明してくれる?」

 声に含まれる圧力が、望の感情を表している。

 間違いなく、怒っているのだ。それも静かに。

「な、んで望が……ここにいる?」

 楓は目を見開いて彼を見ていた。望がいる。結界を張って、現実世界と同じに作り上げたこの空間は、良太と竜だけを招き入れたはずだった。それなのに、どうやって入ってきたのだろうか。

 望はまだ怒っていて、厳しい目つきで楓を見ている。

「状況を、説明して」

「……えっと(むしろ、この状況を説明してほしい)」

 楓は、急速に冷静さを取り戻していた。膨れ上がったはずの燻りが、きれいに無くなっていた。

「そこにいるのは僕の妹で、楓の目の前にいるのは、妹の友人なんだ。悪ふざけなら、今すぐやめてくれる?もし、この子たちがなにかしたなら、僕から話をする」

 楓の手のひらにあった光の刃が揺らぐ。

 力を消して答えようと口を開いたときだった。

 揺らいでいた光の刃の一つが、楓の意思とは関係なくはっきりと形を持ち、ゆっくりと動き出した。

 楓の顔から血の気が引く。

「……まさか」

 こんな事ができるのは、一人しかいない。

「(違う、狙っているのはセイリュウだ。望じゃない。セイリュウなら、避けられる)」

 しかし、その考えとは反対に、光の刃が狙いを定めたのは――――――――。

「望、しゃがめ!」

「兄ちゃん!」

 望に向かって飛んだのは、一つではなかった。竜の首元を狙っていたものも、望を狙っている。

「樹の術だ!」

 良太の声が飛ぶ。

 反射的に反応した二人は、それぞれに望の前に盾になるように樹の壁を作り出した。

 楓が作り出し、本人の意志とは別に動きだした光の刃は、樹の壁に突き刺さるようにして止まり、そして溶けるようにして消えた。

 楓の言葉を素直に受けてしゃがみこんでいた望が、そっと立ち上がる。

「兄ちゃん、大丈夫?!」

 竜が駆けつけると、望は微笑んだ。

「おかげさまで」

「……望」

 楓の声に、竜が警戒心を顕に望との間に立つ。

「……ごめん。危ない目に遭わせた」

 どんな顔をしていいのかわからない。楓は、それでも望をまっすぐに見て謝罪をした。

「竜も、それから良太も。悪かった。ごめんな。急に感情が……」

 そこまで話して、楓は気がついた。

 そう、あのとき、たしかに急激な感情の昂りを感じたのだ。急に、マイナスの感情だけが抑えられなくなって、勝手に術をかけた。

 すぐ横には、黒樹がいた。

「(そういうことか、アイツ……)」

「楓、何が起きてるの?ここは、なに?」

 望が説明を求めて尋ねる。

「ここは、俺の作った結界の中。現実にある世界をそっくりそのまま作り出すことができるんだ。人以外は」

 楓の説明を聞いて、望は、更にわからないという顔をした。

「俺は、良太と竜だけをここに招いたはずなのに、なぜか望も入ってきちゃったっていう状況。でも、悪い。これは俺の連れが起こしたことに原因がある」

 説明をしながら、楓は、自分の立ち位置がわからなくなっていた。望は友だちであり、傷ついてほしくないことは確かだ。

 しかし、黒樹のやろうとしていることを止めていいのかと言われれば、即答はできない。彼もまた、大切な存在なのだから。

 黒樹がやろうとしていることが、具体的に何なのか、想像もできない。紋章を持つものを、ただ消しに来たわけではない。そのことだけはわかる。

 そして、一つだけ確かなのは、黒樹がワルモノになるのは嫌だということ。そのために、今できることは――――。

「結界を解く。アイツのことだから、きっとなにかを仕掛けてるだろう。気を抜くなよ」

「気を抜くなって言われても」

 何が起こるかわからない状況で、何を構えていればいいのか――――竜は、うろたえることしかできないでいた。

「三つ数えるからな?」

 楓の言葉に、更に緊張は高まる。

「1、2、3」

 楓の声のあと、パチンと指を鳴らす音が2つ聞こえた。

 店内の風景は、風船が割れるように消えた。

 次に現れたのは、元の風景ではなく、店の外だった。

 肌を刺すような寒さと街を覆い隠していく白い雪――――今は、初秋のはずだ。

 店の両横には路地がある。店の勝手口に通じる向かって左の路地の奥へと、雪の上に赤い点が続いている。

 この風景に、竜は、見覚えがあった。

 鼓動が、体中に響いていた。体が動かない。

 何も聞こえないのは、雪が音を消しているからなのか。

「竜……」

 良太の声が聞こえて、竜は、我に返った。

「店の中じゃないってことは、まだ敵の手の内だ」

「あ、あぁ……」

 ここがどこかわかる。だから、動けない。

「なんで、外?っていうか、寒い!」

 楓がわけがわからないという表情で、体を擦っている。

 路地の先から、声が聞こえてくる。

「とうちゃん!」

 今にも泣きそうな子どもの声。

 その声を聞いて、良太が驚きに目を見開いた。

「あの声……お前、だよな?」

 信じられないというような良太の言葉に、竜は答える事もできない。

「……って、ことは……五年前の?」

 良太の言う通り、再現されていたのは過去の風景だった。

「五年前?」

 楓が問う。

 竜は、苦しげな表情でそれに答えた。

「この先に、父ちゃんが倒れてるはずだ。これは、父ちゃんと俺を狙ってやってきた夜叉の父ちゃんが戦ったときに落ちた血なんだよ……」

 樹李も海吏も海雷も、このことで傷を負った。助けられなかった後悔を、ずっと背負っている。

 こんな場所で、何を仕掛けようというのか。

 竜は、グッと両の手に拳を作った。

「相手が誰だか知らないけど……」

 良太が、あたりを見回して言う。

「個人的な過去のことをこんなに鮮明に覚えてるなんて、当事者だけだろ?その場にいたやつは、今、竜、お前と望さんしかいないんだから、どっかに必ず、綻びがあるはずなんだ」

 良太がしようとしていることを理解して、竜も楓もハッとなった。

 竜も楓も、これから現れるであろう「何か」と戦おうとしていた。

 しかし、良太は、まずここから出ることを考えていたのだ。

 楓が、小さく笑う。

「アイツのことだから、どこまでも完璧にしてる気もするけど、ただ一つ、あるとするなら……俺だな」

「楓?」

 望がわからないという顔で楓を見ている。

「俺は、ここを出られる。みんなまとめては、さすがに無理だけど、俺だけなら出られる」

「なら……」

 良太は、楓が何をしようとしているのか予想ができていた。

「あぁ。神社にいる奴らなら、きっと近くにいるだろ。俺は、外から綻びを探す。お前たちは、中からだ。できるな?竜」

 竜が、表情を引き締める。

「わかった」

「よし。それじゃあ、俺は行く。……竜、」

 楓が、静かに名前を呼んだ。

「嫌な感じがするんだ。アイツを、止めてくれ」

 その言葉を残して、楓は 光りに包まれ消えた。

 音が、雪の中に消えていく。

 そこへ――――。

「さぁて、余興はこのくらいにして、本番といこう……」

 どこからともなく、少年の妖しく楽しげな声がした。 

 音が消える。周囲の風景が、映像が乱れるように所々で歪みを見せる。

 先程の少年の声が「本番はこれからだ」と言っていた。そのために、この現象が楓によるものなのか、少年によるものなのか判別できない。

「今回は、ちゃんと、邪魔者が入って来ないようにしておいたからね。楽しもうじゃないか」

 少年の声のあと、パチンと指を鳴らす音がした。

 竜は、血の気が引く思いで、自分の手を見ていた。意思とは関係なく、自分の手が動く。体の自由が効かない。

「さぁ、己の力を呪うといい」

 再び、少年の声が響く。

 手の中に生まれる無数の氷の矢。何が起きるのか、先を予測して恐怖を感じているのに止められない。

「良太……兄ちゃん……」

 声はなんとか出るようだ。

「逃げて…………」

「嫌だ」

 良太が即答し、望もそれに同意するように竜へ微笑んだ。

「僕も嫌だな。ここにいるのが父さんなら、きっと逃げない」

「そもそも、どこに行けって言うんだよ」

 二人の想いが嬉しい。それでも、竜は、自分の手を離れようとしている氷の術にやはり恐怖を感じていた。二人には、これを防ぐ術がないはずだ。

「良太」

 望は、落ち着いた様子だ。

「僕の後ろにおいで」

「え?」

「僕も、父さんの子だからね。長くは持たないから、その間にどうするか考えよう」

「……マジですか?」

 良太が驚いている間に、氷の矢は竜の手を離れた。

 良太が慌てて望の傍に走る。

 望は表情を引き締めて、両手を前に突き出し、そこにぐっと力を込めた。

 竜が放った氷の矢は、望と良太に届く前に、透明な壁に当たって「パリン」と音を立てて砕けた。

「効いてよかった」

 そう言って、望はニコリと笑った。

「……ほ、本当に……」

 驚きを隠せない良太は、それでも策を考えていた。

「(どうする?前と同じなら、効果があるのは光の術……。でも、それが使える竜は操られてるし、望さんは、どれだけのことができるかわからない……)」

 さらに、敵は姿を現さず、向こうの都合で声が聞こえてくるだけだ。思い出せそうで、思い出せない聞いたことのある声が。

 考えている間にも、竜は次の術を作り出していた。その意思とは関係なく。

 また、景色の一部が歪む。

「(考えろ、何か)」

 ここから出る方法が何かないか、必死に考えていた。考えれば考えるだけ焦りが生まれる。

 竜からの攻撃は、続いている。望の作ってくれる盾も、竜の力にどれだけ耐えられるのかわからないのだ。

「(盾……結界……?そもそも、結界とか盾って、内側にいるものを守るんだよな……?外側からの攻撃を阻止するもの……)」

 そして、この空間には必ずどこかに綻びがある。記憶の中の景色なら、必ず、曖昧な部分が生まれるはずだ。

「(この日、事が起きたのは店の方。それなら……)望さん、この攻撃が終わったら、俺、竜の力を引きつける」

「方法がわかったの?」

「さぁね。でも、わかった気がするんだ、綻び」

 あの悲劇が起きたのは、五年前だ。そして、良太は自分がいなかった間に変わった街の姿を今見ている。再現されているのは五年前のできごと――――なのに。

「過去じゃなくて今の建物があるんだよ。そこが綻びだ」

 良太は、望の元を離れて走り出した。

 竜の力は、良太の狙い通りに、望を狙う間に良太にも攻撃を仕掛けてきた。

 周囲の景色が歪む。

 歪みは、良太の予想通り、五年前とは違う風景に集中している。

 良太がギリギリで竜の放つ力を避けていくと、そのまま後ろの景色に当たり、歪みが大きくなる。

 攻撃のない間にも歪む風景は、良太は、外からの力だと感じていた。

 息が上がる。

 それは、良太も望も同じだった。

 竜の体力は削られていないのか、息が上がる様子はない。

「魔術って、たしか、結構ハードな感じだって聞いた記憶があるんだけど?」

 自分たちだけ体力を消耗していることが納得いかない。良太は、あとどれくらいでここが突破できるのかを考えて、途方に暮れた。歪むのにもとに戻るのは、ダメージの回復させているということなのだろう。

 魔術での攻撃が止んだ。

「……マジかよ」

 呟いて、項垂れて、思わず膝をついた。

 次の瞬間だった。

「良太、避けろ!」

 竜と、

「良太!」

 望の声に、ハッとして顔を上げる。

 竜の姿が、近づいてくる。それと一緒に近くなっていく、銀色の物体。

 それが竜の持つ剣だと気づいたときには、避けられるような距離ではなく、どんなにうまく躱してもどこかに深い傷を負う状況だった。

 良太はそれでも必死に考えていた。自分が怪我を負うことで彼女が傷つくこと、回避できる方法を。

 まだ、切っ先が届くより距離がある、その場所で、竜は足を止めた。

 竜も良太も、焦りを顔いっぱいに浮かべていた。

 剣に、闇の術が絡まる。

 回避する方法が何も思い浮かばず、頭が真っ白で、そんな場合ではないのに、良太は、彼女とその剣と技の美しさに見惚れていた。 

 その時、視界を遮る何かが、良太の目の前に現れた。すぐに、それが望の背中だと気づいて、良太は我に返った。

「望さん?!」

 望は、左腕を良太を庇うように広げ、右手を前に突き出して次に来る攻撃を跳ね返そうとしていた。

「そう来ると思ってたよ。だからこそ、ギリギリで間に合う距離に罠を張ったんだ。僕の記憶力を侮らないでほしいな」

 楽しそうな少年の声がして、竜が剣を振り下ろす。

 間近で放たれた力を跳ね返すほどの実力が、望にあるはずもなく、僅かに弱められただけの闇の術は、まっすぐに二人を襲った。





 目覚めたら、静かな場所にいた。

 辺りはオレンジ色の明かりに包まれた、優しい空間だった。

 体中が痛い。

 良太は、状況を把握しようと視線を動かした。

 布団に寝かさている。外が見える。自然が広がる外の景色が、この場所がどこなのかを知らせていた。

「神社だ……」

 呟くと、抑えるような泣き声が聞こえてきて、今度は、そちらに視線をやった。外とは反対の方へ。

「達也……」

 すぐ隣に、目に涙を浮かべる達也がいた。傍に樹李や海吏、海雷もいる。

 樹李が、悔しげな、申し訳無さそうな顔をしている。

「気配を感知したとき、楓という青年が現れて、事情を説明してくれた。でも、そこにある結界は、やっぱり壊せなくて……。楓が、罠かもしれないけど、って一番結界の弱いところを突く方法を教えてくれたけど……」

 その先の言葉を繋いだのは、海吏だった。

「結界を壊せたときには、リョウタとノゾムが倒れた後だった」

 そこになんの感情も含まれない声が、彼の悔しさを物語っていた。

 そこで、一つ疑問が浮かぶ。

「それで、あの、望さんって……」

 隣に寝ていない。

 望はあのとき、良太よりも前に、竜と良太の間にいた。

 答えたのは、海雷だった。顔に浮かぶのは、怒り。自分に対する不甲斐なさ。

「あのとき、ノゾムは、リョウタとリュウの間に倒れてた……」

 それが何を意味するのか、良太には十分すぎるほどに理解できた。

「ノゾムは、おそらく直撃してる」

 血の気が、引く思いがした。

 最悪の状況が、頭をよぎった。

 海雷が言葉を続ける。

「心配するな……って言える状態じゃないけど、生きてるよ」

 それを聞いた瞬間、良太の両目から涙がこぼれた。安心した。そして、それ以上に、悔しくて、不甲斐なくて、情けなくて、ただ涙がこぼれた。

「向こうの部屋で、楓ってやつが治癒してくれてる」

「リョウタも傷だらけだったんだから、ちゃんと治されててね」

 二人の声が優しい。涙声で返事をして、良太は、最大に気になっていた愛おしい人を探した。先程から姿が見えない。望のそばにいるのだろうか。

「……あの……アイツ、竜は?」

 それに、すぐに答える声はなかった。

 意識が途絶えた後に、何かあったのだろうか。それとも――――――――。


――傍にいられなくなる。


 嫌な言葉を思い出した。


――次は、あの子から離れていく。


 今すぐに、竜がどこで何をしているのか知りたかった。

 体を起こそうと動かすと、全身に痛みが走る。痛みに顔をしかめて、布団に沈む。

 辛そうな顔で、竜の居場所を知らせてくれたのは、目に涙を浮かべていた達也だった。

「アニキなら、外にいる……」

「外?」

「向こうの大きな木の根元に座り込んだままなんだ」

 いつも手合わせをしている広場の向こう、木々の中に、確かに一本だけ、大きく枝を広げる木がある。

 とりあえず、同じ空間にいることに良太はホッと息をついた。

「アイツは、怪我は?」

「無事だよ、とりあえず。でも……」

 答えた達也は、心配そうに竜のいる方へ視線をやった。

 途切れた言葉を予想して、良太は尋ねた。

「泣かない?」

「……うん」

 竜は何も話さず、表情のないまま、ただ黙って座っているのだという。

 五年前のように――――――――。

 悔やんでも悔やみきれない――――それ以上の表現ができないくらいに、良太は自分を恨んだ。

 一番避けたかった状況を、自分がいたせいで作り出してしまった。

 護りたかったのに、結局、護れなかった。傷つけてしまった。

 どんな顔をして、彼女に会えばいいだろう。

 どんな言葉を、かければいいのだろう。

「今は休もう……みんな、疲れてるから」

 樹李の言葉が、優しく体に響いた。



 楓は、社の一室を借りて、今までにないほど真剣に魔術を操っていた。

 目の前には、大怪我を負い、気を失った友人がいる。

 自分の判断が正しかったのか、結界が壊れた後の状態を見てから何度も自分に問うが、答えは出ない。

 書物で読んだことのある治癒の術を、結界と自分の扱える術のすべてと組み合わせながら、望にかけていく。

 今は、術に集中だ。

 悔やむのも、自分を責めるのも、悲しむのも、全てはその後だ。

 出血が止まり、少しずつ顔色が良くなっていく。

 望の表情が穏やかさを取り戻し、そして、ゆっくりと瞼が持ち上がる。

「…………あぁ、楓だ」

 掠れたような小さな声でそう言うと、望は少しだけ微笑んだ。

 心の底から安堵して、楓は息をついた。

「どこか、おかしいところないか?体の感覚とか、痛みとか」

 望が、小さく首を振る。

「そうか……。よかった……」

「ありがとう、楓。助けてくれたんだね」

「あぁ」

「なんで、泣いてるの?」

「そういうのを聞くところが、似てんだよな……ホント」

「楓の、お兄さん?」

「そう。最強の兄だよ」

「光栄だね。良太や、竜は?」

「良太は向こう。望よりは軽症だ。…………竜は……」

 言葉を濁すと、望はそれですべてを察したようだった。

「きっと、一人でいるんだろうね」

 心配そうに、望が呟く。

「わかるのか?」

「兄と妹だよ、僕たちは。竜はね、悲しいことがあっても、父さんの腕の中でないと泣けないんだよ。だから、あの日から泣いてない。ずっと悲しんでるのに、ずっと泣いてないんだよ。一人で、ただ耐えてる」

「望もそうだろ?」

 そう言って、楓は、望の両目を片手で覆う。

「望もずっと、一人で耐えてる。……兄だから」

 楓が言うと、覆っている手の中で涙が溢れだす。

「……ホント……楓は、よく見てるね」

「よく言われる」

 部屋に静けさが訪れる。

 互いの言葉を待つ、心地よい静けさ。

「……ゴメンな」

 口を開いたのは、楓だった。

「なんで?」

「望をこんな風にしたのは、俺の友人だ。本当に、ゴメン」

「楓は、そんなに大切に思っている人に、抵抗しようとしてくれたの?」

「それは……そうだろ。当たり前だ」

 治りきらない体の痛みに耐えながら、望が笑う。

「ありがとう、楓」

 楓も、柔らかに笑う。

「早くよくなれ」



 竜は、夏に父と会話を交わした大木の下にいた。

 幹を背にして、両膝を抱えるようにして項垂れたまま動かない。

 傷つけてしまった――――――――兄を、親友を、自分の力で。自分のせいで。

 雪を染める血と倒れた姿が、五年前のできごとを思い出させる。

「(オレのせいだ。オレのせい……オレの、オレの……オレのせいだ……)」

 良太は、後ろにいたためにダメージを軽減できているが、目の前にいた望は直撃していた。

 社では、樹李たちが良太を、楓が望を治療中だ。

 

―― さぁ、己の力を呪うといい


 少年の声が、頭から離れない。

 これが、自分の力なのだと、思い知らされた。

 二人が倒れた後、ささやくような少年の声が耳元に聞こえたのを、竜ははっきりと覚えていた。


―― 紋章には、意味があっただろう?あれは、なんのためだと思うの?その力は、誰かを幸せにするものなの?


 紋章を持つモノ――――何者にも縛られず、何処にも属さず、全てを統べるモノ。

 顔を上げる。

 社から明かりが漏れている。

 あそこには、大切な人たちがいる。傷つけたくない人たちがいる。


―― 僕が憎かったら、追っておいで。もっと素敵なステージを用意してあげる。


 少年は、楽しげにそう言った。

 自分がここにいれば、また同じことが起きるのだろうか。

 慣れない戦いに、巻き込んでしまうのだろうか。

 ここにいたい――――いたいけれど。

 その時、ふわりと風が吹いて、竜は我に返った。

 いつの間にか、楓がそこに立っていた。

「どいつもこいつも腰が重くてさ。俺が代表して来てやった」

 そう軽口をたたくが、楓の表情が冴えないことくらい、竜にもわかった。

「まぁ、言わないといけないこともあったし。…………ごめん」

 まっすぐに竜を見て、楓が謝る。

 楓が謝る理由がわからず、竜はぽかんと彼を見上げた。

「俺が煽った節がある。そうしなくても、こうなったかもしれないけど、」

「なんの話だよ」

「声が聞こえただろう?感情が見えない少年の声」

「聞こえた……」

「俺の友人だ。アイツが、お前たちを傷つけた。だから……ごめん」

 楓の言葉を噛み締めた後で竜は答えた。

「その友人に逆らってまで、力を貸してくれたってこと?」

「……まぁ、そうなるな」

 竜は力なく笑った。

「ありがとう、楓さん」

 礼を言うと、楓は、一瞬の間の後、フッと軽く笑った。

「兄と妹、だな。望に詫たときも、なぜか礼を言われたよ」

「だって、楓さんは兄ちゃんを治療してくれたし……」

 楓は、それを聞いて、竜の前にしゃがみ込むと彼女の頭に手を伸ばす。

「お前のせいじゃない。大丈夫だ。お前のせいじゃない」

「でも……」

 続けようとして、言葉が続かなかった。

 泣きそうな自分がいた。そして、それを止めようとする自分もいた。

 少しの間、二人とも何も言わなかった。

「……俺じゃ、お前を泣かすのは無理だな」

 楓が、諦めたように笑う。

「なんのこと?」

「望がさ、お前が泣かなくなったって。心配してるから。俺さぁ、もうひとり泣き顔みたいやつがいるんだよ。だから、探しに行く。お前は、どうする?」

 楓が探そうとしているのは、少年のことなのだろうか、と竜は考えていた。

 泣くのをやめたのは、悲しすぎたから――――五年前、涙の行方を失ってしまったから。

 もし、あの少年にもそんな過去があったのなら、その原因が知りたい。

 そして、今、こうして自分を狙う訳が知りたい。

「ありがとう、楓さん。オレ、やることが見つかったかも」

 竜の瞳に、光が宿る。

「なら、とりあえず戻るか?黙っていなくなると、追いかけてくるぞ?俺みたいに」

 楓が立ち上がり、竜に手を差し出す。その手を取って、竜も立ち上がった。

 秋の涼しい風が吹く。

 気づけば、虫の音も聞こえている。

 全部終わったら、きっと泣ける気がする――――竜はそんなことを感じていた。



  

  



 

  








                                                                      

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