猫になる日
@reiringo
第1話 割れた空と、聞こえない音
地球の裏側には、ブラジルなんてなかった。
理科の授業で先生が地球儀を回していたとき、
遼(りょう)はずっとそれを疑っていたわけじゃない。
ただ——
ときどき、眠る直前に、誰かの声が聞こえるのだ。
「ここじゃない」
「裏側に戻ってこい」
夢だと思っていた。
中学までは、そうやって自分を納得させてきた。
高校二年の春。
福井の海風はまだ冷たかった。
「遼、またボーっとしてんのか」
幼なじみの陽太(ようた)が、缶コーヒーを投げて寄こす。
放課後の海岸は、部活帰りの生徒も少なく、波の音だけが響いていた。
「最近、またあの変な夢か?」
「……夢っていうか、音?」
遼は缶を受け取りながら、曖昧に答える。
「音?」
「なんか……話してるみたいなんだけど、言葉にならない“ざわざわ”っていうか」
陽太は笑った。
「いよいよ病院行け」
遼も笑ってみせるが、胸の奥はずっと落ち着かないままだった。
そのとき——
波の音が、急に「消えた」。
「……え?」
耳に、何も入ってこない。
風も、波も、人の声も。
なのに、別の“音”が鳴り始める。
——ゴゴゴゴゴ……
地面の奥から、巨大な何かがうごめくような低い振動が、
遼の鼓膜ではなく、心臓を直接叩いた。
「遼? どうした、顔真っ青……」
陽太の声も、遠い。
代わりに、知らない声が、耳の奥で響いた。
——聞こえるか。
男でも女でもない、無機質な声。
——境界の子よ。扉が開く。
次の瞬間、海岸の砂浜が「バキィッ」と裂けた。
陽太が悲鳴を上げる。
遼は反射的に陽太の腕を引っ張り、後ろへ跳んだ。
砂浜の真ん中に、黒い“亀裂”が走っている。
そこから立ち上るのは、海水でも砂煙でもない。
——暗い空。
——黒い結晶。
——影の森。
「……夢、の……」
遼が見続けてきた“裏側”の風景が、裂け目の向こうに広がっていた。
亀裂の奥から、ひとりの少女が現れる。
長い髪は夜のように黒く、
肌は少し青白いのに、瞳だけが異常に深い。
そして何より目を引くのは——
首筋から肩、腕へと流れる黒い紋様。
まるで“影”そのものが刻まれたような、ゆらぐ刺青。
少女は遼を見つめ、言った。
「表側の子……ようやく見つけた」
陽太が遼の腕を掴む。
「なあ遼、なにこれ、ドッキリ? 映画の撮影? これヤバくね?」
遼も、ヤバいことくらい分かっている。
なのに、身体が動かなかった。
少女の声が、さっきまで聞こえていた“ざわめき”と
同じ種類の響きを持っていたからだ。
「あなたの世界は、まもなく終わるわ」
少女は淡々と言う。
「私たち“裏側”の人間が、表側を取り返しに来るから」
その言葉と同時に、裂け目の奥で何十、何百という影が揺れた。
人の形をした黒い影。
しかし目だけが、白く光っている。
「な、なんだよあれ……!」
陽太が後ずさる。
遼はようやく声を絞り出した。
「……夢、じゃなかったのか」
影たちが、こちら側に足を踏み出す。
海岸の空気が、一気に冷えた。
遼の胸の中で、別の“音”が鳴る。
——ドクン。
それは鼓動だった。
でも、それだけじゃない。
鼓動の音が、周囲の空気をわずかに震わせた。
少女が目を細める。
「やっぱり。あなたの中に“音”がある」
少女は遼の目の前に立つと、ためらいなく遼の胸に手のひらを押し当てた。
「ちょ、やめ——」
言葉より先に、世界が裏返った。
耳に飛び込んでくる、無数の音。
波の音、風の音、陽太の息遣い、影たちの足音。
それらが一瞬で混ざり合い、火花を散らしたような衝撃となって
遼の頭の中で爆ぜた。
「ぐ、あああああああ!!」
胸の中心から、黒い紋様が広がっていく。
少女の首筋と同じ、揺らぐ影の印。
「覚醒して、境界の戦士(ボーダーウォーカー)」
少女が告げる。
「あなたは、表側の《音》と、裏側の《影》を両方持って生まれた、唯一の存在」
遼の叫びが、音にならなかった。
代わりに、砂浜全体が一瞬で波打った。
猫になる日 @reiringo
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